台詞の空行

19. それでいい


 好きだよ。その言葉の意味は、最初から違ったのだろうか。物心ついた頃には傍にいた親戚の男の真意を、亜樹は知らない。男は、亜樹を随分とかわいがった。共働きの両親よりも長く一緒にいるようにすら感じるほど、よく面倒を見てくれていた。

 可愛いね、好きだよ。男は、亜樹をよく褒めてくれた。当たり前のように亜樹を膝に乗せて、本を一緒に読んで、長い髪が綺麗だと笑っていた。髪を梳く手は優しく、寄せられる顔にくすくすと笑って亜樹は男を好いていた。優しいお兄さん。そういう認識で、ふれあう事に変わりはなかった。

 そう、十歳になっても、なにも変わらなかった。幼子にするように膝に乗せて、時に指を撫で、首筋に顔を埋めて男は笑っていた。亜樹は、それが普通なのだと、思っていた。

 そうしてそれは、普通では無かった。


 亜樹が十歳になって二ヶ月ほどした冬。男が自殺した。実感が湧かないまま通夜と葬式に出た亜樹は、どうしてという疑問と、じりじりと胸を圧迫する悲しさにどうすればいいかわからなかった、ように思う。葬儀の時、大人たちのやりとりを邪魔しないように一人で手洗いに向かったのは、亜樹なりの気遣いだった。

 ごめんなさい。出会った女は、そう言った。


「違いすぎるから」

 結局亜樹が言葉にできたのは、取り繕えずのもので、しかし説明には足りない言葉だった。光介は黙している。それは光介が言葉を探す沈黙というより、亜樹の言葉が続くのを待つためのもののようだった。

 言葉にして、なにになるのか。けれどもぐるりと圧迫する記憶に飲み込まれるのも溺れるのも悔しくて、亜樹は唇の端を噛んだ。

 蓋をして、笑えばいい。それが出来てきた。なのに、佐藤の言葉がそこにある。蓋の下に埋めるには、あまりに違いすぎるように思えてしまった、思ってしまった物が。

 途方に暮れる心地を、光介は静かに待つ。しまえばきっとそれ以上は触れないだろうと、勝手な判断を亜樹はしてしまっている。

 結局、亜樹は上手くやり切れていなかった。人の気持ちを勝手に推察し、価値を押しつけている。無難に・適度に・それなりに。そうするつもりで、特別はたった一人でよくて。

 でも、どうして。特に面白味の無いだろう亜樹を、佐藤は好んだ。伝えたいだけだと、言った。伝えるリスクを考えただろう。そうして特別ではなく見かけなければ普段思い出さないような大多数の一人だった佐藤が、今、おそらく亜樹の中で意味を成している。その意味がどんなものかわからないにせよ、どんなに距離を保っても、他人が埋める一歩は軽率に意味を変えるのだ。

 馬鹿だったのだろうか。わからない。

「恋なんて、相手のことを考えないもの、なのに」

 性的嗜好が多様であると言われるようになっていても、理解にはまだ足りない社会であるのが現状だ。当たり前に受け入れられるには、リスクのあるもの。亜樹にとってはそもそも恋慕自体が不理解であり性別などどうでもいいが、佐藤は、そのリスクを理解していた。

 本当は言うつもりはなかった、と言っていた彼女の言葉は、確かに彼女の「伝えたい」だけで見れば身勝手かもしれない。けれども亜樹がそういう意味で彼女をみていないことを、佐藤は理解していた。理解しても伝えたいと願い、亜樹が傷つかないか案じ、自身の勝手だと言い、それでも亜樹を見ていたことを知って欲しかった、と、言った。

 自分はどう言われても大丈夫だから。けれども亜樹になにか問題があれば、自分は言葉を尽くしてその問題と立ち向かうから。小柄で愛らしい少女は、そのときはっきりと、意志を示した。怯えも震えもあったそれを、相手を見ていないと言うには、あまりに残酷に思えてしまう。


『なんで笑うの』

 女はそう言った。笑うしかなかったからだ、と言ったところで理解されたのかわからない。理解されようとも、亜樹は思わなかった。

 男が亜樹を好いていた。それは恋慕だった。そしてそれは健全ではなかった。だから女は好いた男を問いつめ、男は亜樹への恋慕を真とする為に自殺した。そんな話、聞いたところでどうしろと言うのだろうか。恋慕が真、と言われても、そんなの馬鹿馬鹿しいだろう。亜樹は男の恋情を知らなかったが、それだけでない。そんなくだらない証明のために、人が死んだ。

 そもそも男は、亜樹が男を好いていたことくらい知っていたはずだ。それが恋慕でないと理解していたかまではわからないが、亜樹は好意を素直に伝えていた。けれども男にとって亜樹の好意はどうでもいいものだったのだ。好いた人が自分のせいで死んだのだと、知ってしまった子供がどう思うか考えない程度に、男にとって亜樹はどうでもよかった。

 だから亜樹は笑った。悲しむのは違う。憤るのも違う。そこにあった感情が、思いが、好意が失われると理解した故に、笑うしかなかった。

 恋、という言葉は反吐がでるような身勝手なものだと、笑いながら亜樹は思い知ったから、笑った。

 どうして責めないの。苦しさで喘ぐような女の言葉に、亜樹は首を傾げた。なんで責めてあげなければならないんです? そう尋ねた亜樹に、女は言葉を失い、立ち尽くした。亜樹は、その女を置いて家族の元に戻った。

 責めるということは考えなければならないことだ。亜樹はそんなこと、選びたくなかった。選ばなかった。

 喪服を着たことなんて意味がない。毎日着る服が同じ黒だから、ついでなのだ。あの日に特別な意味など無かった。いつも笑ってしまえば、悲しまないことに意味はない。意識しているものなどなにもない。

『切る時は教えてね』

 教える相手が居ないことに意味はなくて、ただ、切り損ねている。思い出す必要のないそれらが、そこにあって。

 ああ、結局。


「違わなければ、いいのか」

 光介の声が、思考の膜にぽかりと酸素を入れる。酸素分の空白は、ぱちん、とはじけて膜を揺らした。すぐになくなってしまう空白を、それでも残そうとするように亜樹は首を横に振った。

 どう言えばいいのか、なにが望みなのかもわからない。けれども何度も繰り返す。亜樹が知るものと佐藤の思いを一緒にしては、佐藤を踏みにじることと同じだ。そこにあった感情をなかったことにするのは、亜樹があの男と同じとなることでもある。亜樹は佐藤の恋心を理解しないだろう。けれども、だからこそ、同じにしてはいけなかった。なかったことにするのは亜樹のものだけでいい。そうでないひとを、なかったことにして良いはずがない。

 だから、同じじゃない。同じじゃないのに、違いすぎる。死を選ぶほど身勝手な男の恋と、佐藤の恋と、照信の恋は違って。でも、死という大きな行動が、それらと比べて軽薄というのは、あまりに。

「緑静は、わからないんだろう」

 布の擦れる音の後、静かな声がぽつりと落ちた。亜樹をのぞき込むのを止め壁に背を預けた光介が、小さく息を吐く。吸う。吐く。

 こくり、と頷いた亜樹に、光介は指を少し組むようにしてからもう一度口を開いた。

「わからない、じゃだめか? 違っていても、何で違うかなんていいだろう。緑静にとってコーヒーはどれも同じかもしれないけれど、俺にとっては違う。緑静でも違いがわかるものもあると思うけど、俺がなんで違うかわかっても、緑静は言葉で並べられても実感できない、と俺は思うし、でも、それでいいと思う。わかってもわからなくても、コーヒー、って言われれば、緑静は信じるだろうし、向き合ってくれる。違うもの、なんだと思う。多分」

 あの遠足の日のように、言葉が多い。懸命に並べているだろう光介の言葉は、相変わらず光介の人の良さを形作っている。声はそのまま前方に落ちるのにその形は懸命に亜樹へ向いていて、どう答えればいいか分からない。

 この誠実さを踏みにじってしまうのに、光介はその態度を変えない。

「……それとも。緑静が知っていたものの意味を、変えたくないのか」

 前に落とすではなく、再度亜樹に向けた声に亜樹は答えなかった。肺が苦しくなる。

 変えたくない。それはある意味で正しく、しかしそもそも意味を成したくなかったのだからどう答えればいいのかわからないのだ。亜樹の知る男の思いを亜樹は理解しない。亜樹の思いも、男にはどうでも良かった。それらにもし意味があれば、亜樹は何かを成さねばならなかったのではないか。男を死に突き落とした物は、そこに意味があるのなら、それは正しく、亜樹で――

「好きだ」

 低い声がまっすぐ、響く。妄の中、男の背に伸びた亜樹の手は、止まった。

 顔を上げる。意味を理解するよりも、単語としてしか認識が出来なかった。じ、と亜樹をみるその顔は、ただ、静かだ。恥じる訳でも責める訳でもない。だからこそ、単語以上に成り得ない。

「俺は別に、特別人が良いわけじゃない」

 理解が出来ないまま、亜樹は光介を見る。見るしかできないとすら言えるだろう。好意は確かにわかる。だが、今告げられている好きは、亜樹が理解していた好意と同一ではない。ちぐはぐな理解は、しかしそれだけでもあった。

 空白、一つ分。光介は言葉を落とすだけで、距離をそのままにする。

「緑静は、俺が緑静を見ていること、なら、わかるだろう」

 二度目の喫茶店。光介の謝罪を遮って、確かに亜樹はそんな話をした。光介の誠意は、あまりに愚直な誠意は確かにそうとしかとりようがなかった。亜樹でなくともするだろうその優しさを、それでも向けた相手が亜樹であることを、光介は認識していると感じたのだ。誰でもどうでもいいような不誠実な亜樹よりよほど、丁寧なそれは確かに亜樹を見ていた。

 今もまっすぐ、光介は亜樹を見ている。

「緑静は、俺の勝手も、許してくれて。――嫌なら、許さなくていいけど。でも。俺が勝手なのも、知ってる」

 勝手と言うには人が良すぎる優しさだ。それが恋慕故、と言われたらどう評すればいいかわからないが、光介はやはり人が良い、と亜樹には思えてしまう。亜樹への言葉だけでない。どうでもいいと思っていたところで、関われば結局見てしまうのだ。光介も、照信も、西之も。涼香だけでない。結局、亜樹は至らなかった。その事実を、ただ、光介は静かに拾い上げる。

 そうだ。それらは実際に交わした言葉だ。拒絶するには内側過ぎる、他者から与えられたものではない亜樹の実感だ。

「……変えなくていいんだ」

 喫茶店の木目が浮かぶ。香りは、今度は浮かばなかった。喫茶店の色が浮かんだのは、光介が静かだからか。静かに、言葉が多いからか。思考してもわからない。そもそも、おそらく思考すべきは別だ。

 けれども光介の言葉は亜樹を見ているのに相変わらず距離があって、思考もなにもめぐらない。ただ、言葉だけを置いているようなそれは、亜樹を見ているのに亜樹を圧迫しない。

 なにも答えない亜樹に、光介は一度目を伏せた。それからもう一度開かれた瞳は、ただ、静かで。

「緑静の知ってるそれと、今違ってたそれに、俺のもあって。照信だって、違って。そういう、どれも違って、多分、そういうものでいい。どう受け取ってもいいけど、俺も、照信も、多分緑静に告げたその人も、緑静が知っているの、も、同じ名前、なだけで。他の人はどうか知らないけど、俺は、好き、で、緑静と話せると嬉しい。照信は高校でだめだったら諦める、って、言っていた。俺、は。……俺は、緑静がそうじゃないの、わかるから。もしかしたらって思ったことはあったけど、今は、無理なんだってわかる。そういうふうに、見てくれなくてもいい、んだ。……ただ、緑静が嫌じゃなければ、これからも、卒業しても、緑静と話せたら嬉しい、と思う。緑静がひとりでなくて、前みたいに笑ってたら、って、勝手に思う」

 繰り返される言葉は、あくまで光介のものだ。たとえばよくある物語のように、胸がときめくことはない。それでいて嫌悪でもない。理解できないそれは、佐藤の言葉と違う。男の物と佐藤は違って、佐藤と光介も違う。ならば光介は男のそれと同じかと言えば、やはり違う。光介の重ねられる言葉はおそらくそう言うことで、しかし亜樹は動けなかった。

 是、とも、否、とも言えない。光介の眉間に皺が寄る。ほんの少し下がった眉尻は、どういう感情を乗せているのか。

「違っていては、だめか」

 首を横に振る。うん、と、光介が短く頷いた。

「その人が、どうかはわからないけど。俺はそれでいいと思う。……俺の勝手、だけど」

 光介がまた、背中を壁に預けた。わからない。そのわからないがなににかかるかもわからないまま、亜樹は顔を覆った。長い呼気が、少しだけ体を震わせる。

「一人にした方がいいか?」

 差し込まれた問いかけに、亜樹は二度呼吸を繰り返した。深呼吸のようなそれを止めて、三度目の呼吸を言葉に変える。

「教室に、戻ります。一人で戻れるので」

「そうか」

 頷くと、光介はあっさり立ち上がった。話題はそこでぷつりと途切れたようで、亜樹はもう一度長く息を吐いた。顔を覆った手をそこでようやく下ろす。

「……返事はいい、から。関わりたくない、とかだったら教えてほしいけど」

 はくり。吐いた息を飲み込むようにして、亜樹は眉をひそめた。ひそめ、そして笑った。笑えてしまった。

「謝罪じゃなくて、よかったです」

 今言えることはそれだけだ。なかったことにならない。そのことに少しだけ笑うことができた。笑えるのだ、とわかった。

 今更だろう。懸命に意味を成さない形を探り多くを切り離そうとしたあの当時ですら、亜樹は笑っていた。笑顔を作る、という意識だけでなく、確かに、楽しんでいた。

 どんなに苦しくとも、人は同じ感情だけで生き続けることはない。

「じゃあ、また」

「ええ、また」

 同じクラスではないのだから、すぐに会うことはない。それでも、また。繰り返された言葉に同じように返したのは、社交辞令ではなく事実からだ。そして事実と言うだけで告げられたわけでもないだろうことは、亜樹とてわかる。

 まだ関わるという言葉の代わり。四肢を伸ばして光介の後ろ姿を見送ると、今更その耳が赤くなりだしていることに気づく。本当なんだな、と、嘘と思っていないくせに、やはり今更なことを亜樹は心内で呟いた。

 佐藤の言葉、照信の様子、光介の行動。光介の言葉は混乱を増やしただけでもあるのに、けれども亜樹はようやく、そうか、という一言を零した。

 子供のなんでどうしてが繰り返される時期、理由を説明するより事例を多くあげたほうが、そうなのか、と認識することがあるという。理由はわからなくとも、世界がそうであると納得するのだ。


 亜樹にとって男の感情は、男が持って行った。類似した物を見てもそれは別となり、特別でもなんでもないのにそれだけがあり続けた。未だに、亜樹は寄せられた思いに胸を躍らせることなどないし、亜樹にとって特別な人間など、友人である涼香くらいしか浮かばないのだけれど。

 息を吐く。そのまま立ち上がり、亜樹は意識して笑みを作った。大丈夫。その言葉は取り繕えたことのものではなく、けれども取り繕わないものでもない。

 緑静亜樹、という人間はどうあがいてもそういう人間だ。そんな人間を、佐藤は好いた。光介も、佐藤とは違う視点だろうが、取り繕ってきた亜樹を見て、好いた。

「いいんだ」

 ぽつりと落ちた言葉は、許しのような実感だった。