20. 有難う
* * *
「せ、んぱい」
驚いたように見開かれた瞳が、揺れている。だろうな、と思った亜樹は、ただ微笑むだけにした。その動揺を指摘するのは、亜樹ではない。
「お休みなのに有り難う」
「いえ! 寧ろ私の方こそ、わざわざお時間頂いて」
「お願いしたのは僕だよ」
下がった視線を追いかけず、それでも佐藤から視線は外さないまま亜樹は言葉を落とした。佐藤の両手が落ち着き無く自身の手を揉むように動いて、それからぎゅっと固く閉じられた。
沈黙。言葉を発すべきは亜樹だ。そろり、とようやく亜樹を窺うように視線を上げた佐藤に、亜樹は微笑む。肺が少し、苦しい。
「僕は君に恋をしていない」
圧を感じさせた空気を、言葉で吐き出す。形になったのは存外穏やかな声のみで、亜樹は安堵した。恋をしていない。けれども、佐藤に感じる物は冷たいものではないから、音がそっけなくならなかったことは幸いと言えるだろう。
ただ、佐藤にとってどう聞こえたかは、亜樹には分からない。目を見開いた後、ぎゅっと表情を険しくした佐藤は苦しそうだ。その苦しさを、亜樹はどうともできない。
するためになにかを選べないし、軽率に選んでもいけない、と思う。その考えは亜樹の身勝手さで、それでも亜樹にとっては大切な、亜樹の決めごとだった。
「返事はいい、って言っていたのに、時間をくれて有り難う。……僕は君の気持ちに答えられないし、君の気持ちをきちんと理解も、できないと思う。それは佐藤さんだから、じゃなくて、僕がよくわからないんだ。そういうの」
言葉を重ねたところで結果は変わらない。変わらないけれど、言葉を選ぶ。言葉を聞く佐藤は苦しそうなままで、それでも言葉を遮ることはせず、亜樹をじっと見て、見つめて。
少しだけ、視線が下がりかける。それでも佐藤は視線を下げきる前にきちんと戻して、懸命に、亜樹を見る。亜樹も、その目をじっと見つめる。亜樹に重ねられるのは、言葉だけ、でしかない。
わからない、というのは事実だ。亜樹は、結局、わからない。かといって、佐藤の感情が恋だということ自体を、亜樹は否定もしない。
わからないのは単純なのだ。ただ、ただ単純。佐藤の感情が恋だと受け入れても、恋という感情を亜樹が理解することは、また別だということ。それは亜樹にとって佐藤が恋愛対象ではない、という限定的なものではなく、亜樹は光介のモノも、照信の思いだって本質的には理解しない。理解できない。
思考を重ねれば重ねるほど、断る言い訳、のようにも思う。けれども亜樹にとってそれは、言い訳ではなかった。身勝手だと思いながら、それでも佐藤をじっと見つめる。
「冷たい言い方になると思うけど僕にとって佐藤さんは、ただの後輩だった。可愛いとは思うけど、特別じゃなかった」
「……はい」
噛みしめた佐藤の唇の隙間から、小さな声が返る。小さいけれども、それでも確かに返る音だ。亜樹にはない、誠実さのかけらが音に乗っている。
亜樹は微苦笑で下がった眉をさらに下げて、困ったように笑った。
「佐藤さんにそういう気持ちを持てないけど、多分僕は、佐藤さんのこと忘れられないよ」
佐藤の体が震える。その感情がなんなのか、亜樹はわからない。恐怖なのか後悔なのか、もっとポジティブな物もののか、単なる理解出来ないものからなのかなのかも。
亜樹は首後ろに手を当てて撫でた。さり、とした襟足は、随分軽くなったものだ。
「佐藤さんが嫌でも、僕はきっと、ずっと覚えている。佐藤さんが教えてくれたものは僕には理解できなかったし、正直混乱した。――混乱したけど、佐藤さんが一生懸命だったから、僕は混乱できたんだ、と思う。訳分からないと思うけど」
佐藤の瞳に、涙が浮かぶ。歯を食いしばったままでも震える唇は、音を出さない。
「同じ気持ちになれなかったけど、もらった言葉が、僕には特別だった。……有り難う」
ひゅ、と息を呑む音に揺れて、ぽたり、と涙がこぼれ落ちた。同情や憐憫ではなく、ただ、ああ、と亜樹は内心で呟いた。ああ、としか亜樹には受け止められない。
綺麗だ、という感想は、あったかもしれない。けれどもそれは佐藤が慌てて拭ったのに合わせるように消えた。合わせるように拭わねば彼女の涙に失礼に思えたから、ちょうど良かった。
かわりに、笑みと声を落とす。
「それだけ、言いたかったんだ。聞いてくれて有り難う」
ごめんね、という言葉はしまう。もしも辛いと言われたのなら謝罪しようとは思うが、まだ、佐藤はなにも答えていない。彼女の負荷を思えばそうしたほうが良いようで、けれども亜樹にとって優先したいのは礼だった。
亜樹が、優先したいと思ったのは、礼なのだ。
有り難う。佐藤は知らなかった。過去と佐藤は関係なく、それでも佐藤が告げた言葉が、あの日が、亜樹にとってきっかけだった。
なにもかも、事実は変わらないけれど。でも。
「おしえ、て、くれて、有り難うございます」
ひゅ、ひゅ、と浅い呼吸に喘ぐようにしながら、佐藤の声が漏れる。また零れた涙を押し拭うと、佐藤は顔を上げた。赤くなった目尻をそのままに、佐藤は笑って見せた。泣き笑いのようなそれは、確かに微笑みだった。
可愛らしい、人から愛される後輩の、はっきりとした笑みだ。
「私も、忘れません。先輩が特別に感じてくれたこと、絶対、忘れません」
「うん」
「今日、は、本当に、有り難うございます」
「こちらこそ、有り難う」
お互いに頭を下げて、そのやりとりに佐藤がくすくすと笑った。時折こぼれる涙を拭いながらも、亜樹にとって佐藤は楽しそうに見えた。実際どうかはわからなくとも、そう、感じることが出来た。感じさせてもらえた、のかもしれない。どちらかはわからない。どちらとも、なのかもしれない。
素直に言ってしまえば、亜樹の選択は自己満足でしかない、とは思う。亜樹が選んだことは、亜樹がそうしたかっただけだ。けれども亜樹が言葉を探し伝えたことで佐藤の気持ちになにかあれば嬉しいと思ったのも、本当なのだ。
なかったことに、ただの勝手にしてしまうには、そこに、佐藤がある。それ自体が身勝手だと思いながら、行動しない惰性よりは、と選んだ今にある笑顔が、じんわりと巡る。
「……先輩、髪切ったのは」
少しの空白に、佐藤がそっと言葉を差し込んだ。気になる、という様子と、聞いていいのかというような音に亜樹は笑う。
亜樹にとって、あの長い髪は、どんな意味があったのか。意味など無かった。そういいながらも残ったもの。そこに意味はないけれども、ちり、と、頭の内側、頭蓋骨の裏が揺れもする。でも、それだけだ。亜樹にとって、意味は、やはりなかった。残す理由には、ならなかった。
だから、どうにか亜樹にとっての髪を言うならば、それはただの識別記号だ。それ以上の意味はなくて、たかがそれを切っただけでなにか変わる訳でもないものだ。亜樹が、亜樹でなくなることもなければ、亜樹であることを示すものでもない。
切ったところで、何の意味も、ない。それでも。
さり、と、襟足をさわると、くすぐったさにも笑みがこぼれる。
「切り損ねていたんだ、実は。ようやく切れた。佐藤さんのおかげ」
「私の?」
どうせなら、自分がしたい、形を選びたかった。惰性の形ではなく、亜樹自身が、そうしたいと選んだ事実を残したかった。
不思議そうな佐藤に、亜樹は目を細める。
「うん。……切る理由が、欲しかったんだ。だから切る理由にしちゃった。勝手に甘えちゃったね」
わからない、というような表情が、眉尻を下げた優しい微笑に変わった。佐藤にとって理解できないだろうに、佐藤はそれ以上聞かない。ただ、泣きそうな笑顔はやはりやさしくて、ぎゅっと胸を押さえた手と震えた唇は、亜樹では読みとれない感情だった。
「特別、ですもんね」
「うん、特別」
佐藤の唇が笑顔を作り損ねて、そのまま顔が下を向く。固い拳。亜樹は、それ以上かける言葉を持たない。持たないなら、無理にかけてもいけない。
特別だ。なんだか一等大切な言葉に思えて、その特別、を亜樹は繰り返す。
特別。きっと亜樹は、貰った言葉も、理解できないことも、それでいいとした言葉も忘れない。特別な理由をきっかけにもらったことは今の亜樹にとって幸いで、今できる精一杯でもあった。
菓子の違いが分かっても理解できないように、コーヒーの違いは未だにわからないままのように。出来ないまま、それでも、とくべつで。
「似合ってます」
「有り難う」
次に持ち上がった時佐藤の顔はもう一度笑顔を作っていて、亜樹は笑った。