台詞の空行

18. 理解できない


 好きだよ、という言葉は、身勝手だ。理解できない物を身勝手に振りまいて、そうして自分勝手に完結する。理解できないものには蓋をすればいい。恋情は世界の外側だ。

 人影のない三階、校舎の片隅。ほとんど終わりつつある片づけは文化祭の余韻を楽しむ時間になる。遠くの声に近づいて、戻ればいい。なのに廊下から一歩、進むことすら叶わない。座り込んでしまえば、亜樹の背丈でも見えなくなる。


 好きだよ。言葉は、呪いだ。廊下には窓が連なって、ぽっかりとしたうろを成している。

 好きだよ。

「緑静」

 低い声が、一個の空白を作った。一個分の空白に、はくり、と呼吸がなされる。驚いたような光介の顔は、すぐに固い表情にしかめられた。

「調子が悪いのか」

 大股に近づく光介の言葉に、亜樹は首を横に振った。光介の険しい顔は鋭く、ともすれば怒りすら感じてしまえるだろう。けれどもそれが怒気を含んだものでないことは、静かだが少し焦るような声でわかる。

 案じられている。取り繕うように笑いかけ、亜樹は半端な表情で止まった。

 光介は取り繕うことを望んでいない。亜樹は、取り繕うことを望んで――しかしどうすればいいかわからなくなってしまった。

 亜樹のそば、半歩分の距離で光介が止まる。そのまま膝をついて亜樹を見下ろした光介は、開いた唇を固く閉じた。

 おそらく、かける言葉を探しているのだろう。亜樹は光介のことを理解しないが、これまでの様子からの推察だった。光介は、とある一線で踏み込まない。聞かない。

 さり、と、布のすれる音が響く。そうして光介が隣に座り込んで、そしてその顔は亜樹を見なかった。

「……いて、いいか」

 静かな問いに、亜樹は是とも非とも言わなかった。だから、光介も動かない。

 拳三つ分の距離で座る光介は、前を向いたままなにも言わない。人の気配があるからか、内側に反響したあの音はどこか遠くなった。まだ浅い呼吸のまま、ようやく、ようやく佐藤の言葉をもう一度繰り返した。けれども亜樹にとってそれはやはり理解できないことで、ぐらり、と思考が安定しない。

 光介は、黙している。

「告白、されたんです」

 隣で少しだけ音がした。それは動こうとしたというよりも驚いただけの反応だろうもので、光介の拳は固く握られていた。立てた膝にぺったりと上体を預けた亜樹は、息苦しさを吐き出すように再度口を開く。

「ちょっと理解できなくて動けなくなっちゃって。僕にってのもそうなんですが、それ以上にちょっと、わかんなくて」

 なぜこんなことを話しているのか、亜樹にもわからなかった。ただ呼吸を成すための行為だと思う。涼香には言えないだろうことを居合わせただけの光介に言うことは良くないだろうと思いながら、記憶の中でコーヒーが香った気がしてしまう。

 けれど、それはきっと気のせいだ。亜樹は香りを思い出すなんて器用さを持たない。

 ただ、光介の沈黙は一つ分の空白に。香った妄はもう一つ分の空白に。そうして空白分、言葉が零れてしまう。

「好きだからそれでいいって、わからなくて。好きってもっと、勝手でしょう」

 好きだよ。繰り返される言葉は、相手を思うものでないと亜樹は知っている。恋とはそういうものだ。自分勝手で、身勝手で、自分自身しか見えないもののこと。

 なのに、そう言いきるだけで酸素が不足する。亜樹自身、ひとつ、わかってしまっていることがある。

「それでいい、じゃないのか」

 静かな声で光介が尋ねる。勝手という言葉を否定せず、尋ねるにとどめるのは優しさだろう。矛盾を内包したまま、亜樹は眉を寄せた。

「それでいい、のかもしれません。好きだと伝えるのも感情も、全部身勝手で、相手がなくて良いという意味なら」

「相手がない?」

 話を促すように、言葉を返される。ほんの少しのいぶかしむ声に首肯し、しかし浮かんだ佐藤の顔が亜樹の言葉を止める。

 相手がなくていいのなら、あんなに苦しそうに告げるだろうか。浮かんでしまう疑問は、息苦しさで留まる。二つ分の空白が、埋まってしまう。

「……照信は、水沢を見ている」

 言葉は、先の亜樹の言葉を否定するものだった。にもかかわらず、一緒に否定できる矛盾までは形にしないものでもあった。

 はくり、とあえぐように呼吸をし、亜樹は口元を歪めた。歪めることができたはずだ。笑えている。

「足りないか?」

 言葉は端的で、疑問の意味をいくつも作ってしまう。頷くことも首を振ることもできずに、亜樹はもう一度意識して息を吐いた。呼気は短く、肺の中の酸素を出し切るには足りない。

「緑静」

 触れはしない。その距離を保ったまま、光介が亜樹の顔をのぞき見る。

 不安そうだ、と思えた。それが正しいのか、亜樹にはわからない。不安になる理由もわからない。困惑、というほうが状況としては正しいだろうに、不安、のほうが浮かんでしまった理由もわからない。

 好きだよ。その言葉の意味が、歪んだ意味がぐわんぐわんと頭を揺らす。体は揺れていないのに中身が揺れるような感覚は、三半規管をぐちゃぐちゃにするようでもあった。

「……知っています」

 なんとかこぼれた音は、それでも取り繕えている。平時と変わらない音で、素っ気なく、どうでもいい内心がにじみ出てしまう程度のものだ。人の良さそうな声で、そのくせ無関心で。緑静亜樹という人間はその程度の、薄っぺらい人間だ。

 だから、優しく、自分の芯があり、人を見据える涼香が亜樹と世界を繋げるもので、それだけでよかった。彼女ははっきりとしていて、内心を探る必要が無く、なにがあっても両足で立てる人だから、それだけでよかった。

 それなのに、結局のところそう上手くいくはずもなかった。

「知ってますよ、それくらい」

 照信の好意について、最初はそういうものでよかった。自分勝手に外見で判断して、自分勝手に気持ちを押しつけて、自分勝手に動く。単純明快な、世界の中心が自分であるもの。涼香を見るというには足りない。相手を思いやるには自分の気持ちばかりで、亜樹の知るものと同じように思えた。涼香が傷つかないか、それだけを見れば良かった。ただただ身勝手で自分本位な、恋という名の自己愛。

 そう理解しているだけで、よかったのに。

「……でも、分からないです」

 うめくようにこぼれたのは、本音には足りない。本当は、分かりたくないのだ。考えたくない。

 照信は確かに自己の感情を主軸に動く。けれども涼香の恋心を無理に自分のものにしようとしない。ときめいたかどうか聞いたりする程度で、否定されれば笑って頷くし、じゃあ楽しかったかと聞いて、肯定されればやっぱり笑う。楽しい、という気持ちを、勝手に恋慕に置き換えない。

 涼香の友愛を、照信はあくまで友愛として受け取っている。そう思い知らされる程度に、照信ははっきりとしていた。涼香のために学校では控えているが、涼香への好意自体は隠さない。好意を恥じず、片思いであることにも恥じず、友愛には友愛で返し、そのくせ自身の恋慕を無くそうともしない。

 照信が涼香を見ていない、というのはおかしい。だから、亜樹が先ほど言った「好きだからそれでいいということがわからない」というのは、おかしいのだ。分からない、分からないけれど、分からないと言い切るには、足りない。見てしまっていた。そのことこそが、どうしようもない事実として二人の間にあるだろう。照信はそれくらいに、はっきりと示してきた。

 それでも。

「分からない」

 震える声で、繰り返す。好きだよ。その言葉は、軽薄だ。恋慕は、自己愛だ。亜樹は知っている。思い知っている。

「気持ちが、嫌なのか」

「分からない、だけです」

 嫌だ、と言うのは、佐藤を思い出すとはばかられた。亜樹は別に、どうでもいい、で成すことはできる。けれども嫌、という感情は、向けられない。涼香のように特別でないにしても、委員会が終われば関わらなくなるにしても、わざわざ声をかけたいと思わなくても、見かけなければ普段思い出さないにしても、どれだけ大多数の一人にしても。大多数の、一人だからこそ。そして、大多数の一人だとしても、名前も顔もよく知ってしまっている、今、を共有する一人だからこそ。

 彼女の気持ちを嫌えない。なのに、言葉を受け止めきれない。それは彼女に恋慕の情を自身が持たないからではないことを、亜樹は理解していた。

「……なんで分からないんだ?」

 光介の言葉は、問いかけでしかなかった。どう答えてもそこで終いになってしまいそうなほど、一つの問いかけにしかならなかった。亜樹の呼吸を促すだけのようなそれは、光介の疑問というにはあまりに静かな音しか成さない。

 気持ち悪い、という言葉は、亜樹の内側、ぐるりとした、ぐずりとした場所から喉を狭める。

 どういえばいいかわからない。拾い上げたくない物が、そこにある。ただ、そこにあるものが佐藤の気持ちと照信の行動と違いすぎて、その差が気持ち悪い。佐藤の気持ちが、ではない。知っているものと今のこの大きな違いが、ひとつの言葉にあることが、左右で見え方の違うレンズを覗くように、気持ち悪い。

 ぐるり、ぐるり。そうしてぐちゃぐちゃの三半規管の中に、酸素が飲まれてしまう。