台詞の空行

17. 言葉

 * * *

 人に、甘えない。人に、関わりすぎない。人に、押しつけない。

 感情、自己主張、願い。それらは人との関係に意味を作る。だから亜樹は、してはいけないことを決めていた。そしてそれらに抵触しないようにするには、無難に・適度に・それなりに、が、丁度よかった。

「先輩のお役に立てて嬉しいです」

 言葉に嘘などないというように、本当に嬉しそうに佐藤が笑う。亜樹は笑みを返すだけなのに、この後輩は感謝することに長けているように思えた。

 自分のキャパシティを越えてしまわなければ、佐藤は佐藤が思うよりも能力が高い。役に立てただけで頬を染めて喜ぶのはやや大げさな気もするが、少女らしい愛らしさと言える。

「有り難う。ごめんね、手伝ってもらっちゃって」

「いいえ! いつも助けていただいているのに、先輩になにも返せていなかったので……この間も言いましたけど、お手伝いできることが寧ろ嬉しいんです」

「返せてないなんてそんな、佐藤さんのお礼可愛いからそれだけで十分だったよ。お返しなんて気にしなくていいくらいもらってたし、そんなこと言うとそれこそ僕の方が見合うお礼が出来ないくらいだ」

 きらきらとした瞳、華奢な体、柔らかい髪、まっすぐな好意。どれもこれもそれだけで華がある。可愛らしいとはこういうことを言うのだろう。

 亜樹とは違う。そのことが、ひとつ呼吸を楽にする。そういう意味でも、亜樹は佐藤に対して気楽に構えられる部分があるのかもしれない。

「先輩、ひとつ聞いていいですか?」

 照れくさそうに笑った佐藤が、ふと窺い見るように亜樹を見上げ尋ねた。亜樹が問いを促すように首を傾げると、ぱちり、という瞬きと一緒に佐藤の視線が少し下がる。

 逸らされた、というだけでなく戸惑いのある瞳は、しかしもう一度の瞬きで、また亜樹を映した。

「先輩って、恋人、いるんですか?」

 こいびと。奇妙な言葉に今度は亜樹が瞬いた。

 笑顔は崩さないまま、寧ろそれを笑い飛ばすように息を吐いて苦笑する。肺の圧迫を吐き出すことは容易い。

「なにそれ、いないいない。突然どうしたの? 相談事?」

 亜樹とその単語は酷く似合わないものだ。そういう風に、亜樹は過ごしてきたつもりだ。残念ながら体は確かに女性的であるだろうが、亜樹が選ぶ所作は女性をエスコートする側のはずである。男性的な態度をしているわけではないが、それなりにレディ・ファーストを意識してきた。そこに、自分を含めない点も含めて。

 だから考えるならば、佐藤が恋慕の話題を選びたいとするのが普通だろう。ありえない。それを強く重ねるように笑みを深めながら、佐藤の瞳を亜樹はのぞき込んだ。

 きゅ、と小さく結ばれた唇が、亜樹の態度で少しだけ解ける。

「男の先輩と、一緒にいるの、見て。先日外でお会いしたときに一緒にいた人、です。大きい人。……最近、少し変わった、気もしますし」

「ああー」

 もぞもぞと応える佐藤に、亜樹はなるほど、と言うように声を伸ばした。あくまで特別な色を出さないその声音に、佐藤がまた唇を結んでおずおずと亜樹を見る。

「違った、んですか」

「違うよ」

 きぱり、と亜樹は断定した。まだどこか不安げな佐藤の様子に、亜樹は「ああ」と今度は納得の声を出す。納得と、微苦笑。

「もしかしてあれか、心配させちゃったか。大丈夫、友達の友達の友達って感じ。メンバー複数いたでしょ? あの女の子のほうが僕の友達で、僕は付き添いってやつだよ」

 心配、との言葉に佐藤の表情に動揺が見え、亜樹は目を細めた。まいったな、というのは純粋な気持ちだ。光介は頓着があるようで無いから気をつけねばと思っていたが、こうして実害を見てしまうとそれなりに困ってしまう。

 流石に他人の恋慕を邪魔しかねない状況は、亜樹とてどうでもいいとは言い難い。特に、光介にはそれなりに関わってしまっている自認もあるから余計だ。

「一緒に荷物運んでいるのも見たんです」

「あー、うん。去年同じクラスだったくらいの付き合いだよ。今年は別なんだけど時々手伝ってくれるんだ。律儀な人だよねぇ」

 案の定、と言える言葉に亜樹はからからと笑った。それでもまた佐藤の表情が陰るのを見て、浮かべた笑みを苦笑に変える。

 どんな相手でも誤解は丁寧に解くのが光介へのなけなしの礼儀だ。さらに言えば、佐藤なら光介の誠意を捨てないだろうから、余計。彼女の好意に応えるかどうかは亜樹の判断ではなく、しかし可能性を潰えさせてはいけない。

「なんというか随分なとお人好しな人なんだよ。僕が特別ってわけじゃなくて、ただ僕がひとりでなんとか出来ることが気になるみたいで、ってやつ。あんまり一人で抱え込むなって言われたけど、自分で言うのもアレだけど一人でそこそこやれるとからなかなか難しいよねぇ」

 改めて言葉にするとひどく今更だ。正直亜樹にとっては、一人で行動する方が気安い。それでもつい一人で作業すると、言い訳のように仕方ない理由を考えてしまうようになったことは流石に自覚している。光介と関わるとどうしても誠意を捨ててしまうのは直せないから、ささやかな努力と言えるかもしれない。

 今年は他クラスだからだいぶそういった機会は減ったが、見つかるとややこしいと思う程度の意識はある。だから今も佐藤に頼んだわけだ。

「……まだ、大丈夫ですか」

「まだもなにも、そういうんじゃないよ。ちょっとお人好しすぎる人だから、話しかけるのは難しくないんじゃないかな」

 言外に応援するスタンスを含めて亜樹は笑う。だが、安堵したようなそれでいて少し寂しげな佐藤の様子に、ぱちり、と尋ねる意味を持って瞬いた。

「なにか不安?」

 佐藤の頭が左右に振られる。はらはらと柔らかい髪が動き、小さなため息のあと佐藤は顔を上げた。

「いえ、変なこと聞いてすみません。その人のおかげで亜樹先輩が頼ってくださるようになったなら、感謝しないとな、って思っただけです」

「僕、無茶するように見えた?」

 佐藤の答えは亜樹の疑問を解決するものではない。それでも踏み込むものではないだろう、と判断し、亜樹は少しおどけて尋ねた。軽やかな物言いに眉を下げた佐藤は、いえ、と短く答える。

「無茶、はあまりイメージにないです。でも、さっき先輩も言いましたけどなんでも出来ることが多いから、いつも助けてもらうばかりで、私もお手伝いしたかったから」

「ありがと。佐藤さん優しいね」

 気にしなくていいのに、という言葉は飲み込む。利用できるなら使えるだけ使ってくれて構わないし、気にせず喜ばれるのが亜樹にとっては一等気楽だ。それでもそんな風に言ってしまうのは、今懸命に伝える佐藤に対して失礼だろうことくらい亜樹にもわかる。

 いつも素直に喜んでいる佐藤も地味に気にしていたのか、という反省は、しかし佐藤の喜び方がまっすぐだからこそ、してはいけないという思考にはならない。そういった点は、佐藤の愛嬌であり美点なのだろう。

「優しいのは先輩です」

「そういってもらえると嬉しいよ」

 少し照れた様子でぽそぽそと伝えるところも含めて可愛らしい後輩、という形が似合う。相手の親切を喜んだ上で相手を思って動きたいと願えるあたり、光介と佐藤はお似合いなのではないだろうか。実際どう動くかはわからないし当人同士の問題だが、想像するには好ましい。

「佐藤さんのおかげでとりあえずいいかんじかな。文化祭が終われば一段落だ。僕たち引退するからその引き継ぎはあるけど、とりあえずもう一踏ん張りだね」

「はい。……あの、亜樹先輩」

 もごり、と少し躊躇う様子に亜樹は首を傾げた。視線を動かす佐藤を急かすことなく待つ。

 ややあって佐藤が、決意したように亜樹をまっすぐ見上げた。

「お願いが、あります」

 * * *

 その声は固い声、と言うべきものだったのだろうか。亜樹はその時、真剣な音だけを拾い上げた。神妙な顔のお願いは一般的に言えば可愛いものだろうことで、亜樹にとっては拒否する必要のないものだった。だってそうだろう。ただ委員会が一緒なだけで懐いてくれた後輩のお願いだ。それも、文化祭の片づけが落ち着く頃でいいから時間が欲しいというささやかなお願いでしかない。

 亜樹にとって最後の文化祭はやはり動き回るだけのものだったから余計、だろうか。

 涼香の教室だけは見に行くと決めていたが、それ以外は声をかけてくれる人にそのまま呼ばれて覗くだけの、緑静亜樹という人間そのもののような惰性の流れ。

 西之に呼ばれたついでに光介にも会っただけの、特になにもかもかわらない、そんな一日で。

「……ごめんなさい、先輩」

 震える声に、亜樹は思考を止めた。戻した、と言っていいのだろうか。油断すると思考は別の方向に流れてしまう。だからかといって、過ぎ去った日中に思考を飛ばして良いものでもない。

「答えはいいんです。伝えたかっただけなんです」

 震えながらも、佐藤の声は静かだ。なんで、どうして。ぐらぐらと揺れる亜樹の思考は、呼吸すら不器用にする。後ろ髪を縛るヘアゴムが、やけに髪を引くようにすら感じた。

「ごめんなさい、それでも、好きなんです。――亜樹先輩のことが、私は」

 亜樹の喉は、震えるだけで言葉の形を忘れていた。