台詞の空行

二月十五日(Side:B) 1

 恋人たちのイベントごとに馴染みはない。上司部下でのやりとりも義務にならないようにと自分のところでは禁止としているから余計である。ただ特例隊メンバーでは飲み会代わりに昼のお茶会をたまにやるため、そこに並ぶ菓子が少しイベントに倣うことはあるが、それくらいしかないとも言える。

 人の生活という点では祝日・イベント事を把握する必要があるし忘れることはないのだが、実感は薄くなる。基本仕事で、休日だって別に恋人がいるわけでもないのだから当然で――そこまで考えて、言い訳じみている事実に思考を無理矢理止めた。馬鹿馬鹿しい、と思う。

「日暮刑事」

 声に、ぎくりと心臓が跳ねる。タイミングが悪い。いや、別に問題はないんだ。どうせ顔には出ないんだから。

「プライベートだ」

「これは失礼。偶然だな」

 振り返ればくつりと笑う表情とかち合う。小さな顔を覆い隠すように真っ黒い、瞳が透けて見えることのないサングラス。かっちりと固められたオールバック。歪められた口元。小柄な身長とアンバランスなそれらはすべて山田太郎を作っていて、正面から見ると威圧感を与える外見だ。

 格好は平時と同じだが、山田の側にはいつもの相棒がいない。一歩分下がって山田のスペースを空ける。コンビニ前とは言え、邪魔にならないようにするのがマナーだろう。山田は隣に並ばないまでも、やはり邪魔にならないように壁に寄った。こういうひとつひとつが逸見で――いや、目の前は山田なのだ。ずれかける思考を直すように山田を見下ろす。

「山田もプライベートか」

「ああ、今日は休みだ。休みに会うのも珍しいな」

「そうだな」

 会話は続かない。それもそうだ、山田にとって俺は仕事以外で話す相手でもないだろう。酒を飲まないのに居酒屋に誘ったりもしたが、あれはそもそも情報の為でかつ相席という形で会話が喧噪に飲まれる場所だからである。山田から礼といって誘われたときも結局居酒屋で、あのときは相席という形ではなく一緒にだったが――これまでのこと、これからのこと、そして共通の話題になるお互いの部下のこと。そういう雑多な会話で終わって、だから今更こういう場所で話すこともないはずだ。

 けれども山田が声をかけてきた。それを断る理由はないし――じゃあ、といってすぐ帰ることが出来るほど自分はあっさりしていない。

「調子はどうだ」

「それなりだ。まあなんかあったらアンタたちの部署に話が行くだろうくらいだな。最近で言うなら横須賀さんもなんだかんだ逞しくなったように思うし……ああ、横須賀さんと言えば昨日バレンタインでな」

 バレンタイン。その言葉が山田から発せられたことについ心臓が騒ぐ。いやただの雑談だ。宥める心地で山田を見下ろす。山田は山田だ。自分にとってそれ以上には成り得ないのだから、動揺は山田に失礼だとも言える。……まあ、俺の表情は幸いというべきか変わらないから気付かれようはないのだろうが、それでも、だ。

「なにか渡したのか」

「俺が渡す意味はねーだろ。いやまあ、三浦さん達と一緒に菓子食いにはいったし、そういやそのあともあったな」

「……三浦」

 聞こえた単語は名字だが、俺が知る限りなら男のものだ。なんでそいつが。そういう疑問でもって復唱すると、おう、と山田は軽い調子で返してきた。

 おうじゃない、なんでだ。眉間に皺を寄せると、は、と山田が笑う。

「覚えているよな刑事さんじゃ。まあ、問題があるわけじゃないんだ。事件の後も付き合いがあってな、横須賀さんと親しいんだ。それに俺も巻き込まれることが多いっちゃ多いが、悪い人じゃネェよ」

 そう警戒するな、と言われてはっとする。山田が誰と付き合いを持とうが俺には関係ない。警戒、という言葉が被害者とはいえ特例隊案件の事件関係者だったから導き出されたものだとわかるしそういう理由でなら気にしてもいいが、それと関係ないところは俺の範疇外だ。

 伝えるために作った皺を消す。そんな主張したところで俺の内心を山田は知りはしないし――いや、そもそもその内心はなんだ。俺も知らない。山田が逸見として生きていれば別だが、今は山田として生きている。だから、それは違う。

「バレンタインに菓子を食べにいったのか」

 逸れかける思考を遮るために言葉を口にする。ああ、と頷く山田は素直だ。こちらのことなど気にせずあっさりとしている。いや、気にされても意味はないんだが。

 特別な意図はない、はずだ。

「諸事情で男三人バレンタインイベント中の場所にだったからまあ多少目立ったな。いやまあ話すのはこっちの話題じゃないんだが」

 男三人。まあ、見た目で言うならそうだろう。山田太郎は男として立っている。以前に比べてあまり隠そうとする様子は見えないが、それでも山田太郎は山田太郎だ。

 だからこそこの関係は、変わらずに続いてる。

「リンに恋人がいない時は、毎年バレンタインに付き合っていてな。横須賀さんも今年は誘ったんだ」

 思考がぎくりと固まる。リン、という呼び名だが正確には太宰竜郎という名前の男は、逸見と親族で、山田太郎に寄り添った男だ。

 山田の為だろう情報屋まがいのことをしながら、バー経営をしている。太宰コーポレーション社長の息子であり、そちらの仕事もしているのだから器用な人間で――浮かぶ姿に、酸素が足りなくなる。

 山田太郎が山田太郎となる前、逸見五月という少女だったとき。彼女の家族に不幸があり、その時寄り添っていた男の姿。今と違い短く切った髪と、相変わらず美しい顔立ち。俺の後悔を思い出す度、その姿はあって――そうして山田太郎の側に相も変わらず彼はいる。二人を結ぶのは恋慕の情ではない。それでも、ずっと。

「リンへのお返しじゃなくても日頃の感謝で、なんて言って花束贈りたいいいだして三浦さんと頭抱えかけたんだが――日暮さん?」

「なんだ」

 呼びかけで意識を会話に戻す。つるりと返した声は相変わらず平坦で、俺の内心とは結びつかない。山田が少しだけ口を結んだ。

「くだらない話をしたな」

「いや、微笑ましい。彼はイベント事に馴染みが無いんだな」

 逸れていた意識は置いておく。慌てる内心も声には出ず、ただはっきりとした事実だけを伝えることは出来る。

 少なくともバレンタインについてはそうみたいだったな、と軽く返す山田は素直だ。あまりにふざけた言葉選びをすると流されるが、それでも山田はこちらが真っ直ぐ伝えれば信じてくれる。

 変わらない、と続きかけた思考を飛ばす。

「しかし花束は大仰だな」

「リンは誤解しないだろうけど、なんかあった時に本人に気がないのにややこしくてもな、とは思ったからどうするかって話になったが、まあ道理に適ってる理由で止めるのも問題だろうしってことで横須賀さんと一緒に俺と三浦さんもって形にはした。リンのほうから説明はしてくれたし、喜んでいたから問題はねーけど中々バレンタインに花はな」

「まあ、誤解しないとわかっている範囲で試せたのはよかっただろう」

「ああ」

 返った同意は穏やかだ。日本ではまだそこまで広まっていないが、それでも最近では海外の習慣として話題になって知名度がそれなりに出てきている。具体的には知らないが、まあ花屋でも広告に使ったりしだした程度の知名度だからこれから更に広がる可能性も高いだろう。

 バレンタインに女性がチョコを送るように男性から花を送る習慣が広まりだした事情から、誤解があってもという心配を山田たちがしただろうことは想像に難しくない。更に言えば花束を贈ることがあまり日常には馴染みがないので、海外の習慣関係無しに誤解されやすいとも言える。

(にしても)

 バレンタインに貰うだけでなく、送った。それも、相手が太宰竜郎。恋慕でないとはっきり理解しながらも、あの日が浮かぶ。

 逸見に相応しくないと思ってしまった自分と、一枚の絵のように似合っていた二人の姿が。

「日暮さんはバレンタイン、忙しかったか」

 山田の言葉がまた思考を遮る。ふ、と落ちた言葉は気になると言うよりも世間話の流れだろう。バレンタイン。たかがイベントの単語が、もう一度内側で巡る。

 逸見から言われたらきっとまた別の感情があったのだろうが、それは昔だ。あの当時はクラスだって違ったし、クラスが同じになった夏にあの事件があった。

「……仕事だったからな」

「そっちじゃなくて、アンタもそれなりに貰う方だろう?」

 少し呆れたような、それでいて呆れには優しい笑み。揶揄するには足りず、しかし真剣な話題でもない雑談に紛れる声音は山田の見目よりもその内側を見せるようで、頭の内側、頭蓋骨の表面あたりがつきりと痛む。

「貰わないな。義理付き合いはあまりエスカレートしてもまずいものだろう」

「ふうん」

 それ以上は山田も聞くつもりはないのだろう。あっさりとした声に右手を少しすりあわせる。とん、と自身の脚を指先で叩いて、見下ろす。

「山田はなにかしたのか」

「しねぇよ。そもそも俺がしてもおかしいだろ。リンへの花も渡したって言うよりはついでのカンパみたいなもんだしな」

 眉を寄せて山田が笑い捨てる。こちらは先ほどと違い吐き捨てるような色があった。それでも嘲笑というよりは馬鹿馬鹿しさを笑い捨てるに近く、こちらへの攻撃的なものではない。

 山田だ、と思う。こういう表情は、はっきりと彼女ではない。