台詞の空行

二月十五日(Side:A) 3

「少し待っていてくれ」

 とん、と落ちた無機質な日暮さんの言葉が唐突すぎるように感じて、不可思議な心地で見上げる。待つ、というのはいいが理由がわからない。

 返事もまたずコンビニに入っていった日暮さんの背中を視線だけで追う。なんとなく、時折あるこちらにガムを渡す時を思った。思ったが、別に今は煙草を吸っていない。香りもないはずである。その背から視線を外して思考を巡らせるが、意図は分からない。

 まあ、日暮さんの考えがわからないのは今に始まったことじゃない。特に害も無し、腕を組んで待つ。

「山田」

 声がかけられるまで時間はさほどかからなかった。自動ドアから出てきた日暮さんに、おう、と短く返す。

 日暮さんはそう歩数もない距離なのに大股で近づいた。まあ長身だから余計そう感じるのかもしれないが、なんだかいつもよりもせわしなく思う。隣に並ぶまでと思って視線を外したのに、すぐこちらを見下ろすからまた向き直るまでさほど間がなかった。

 なんなんだ、と問おうとした言葉を遮るように、日暮さんが袋を差し出す。

「……あ?」

 間抜けな音になりそうな声を凄む声になんとか変える。それでも迫力は足りなかったが、この人がそれに突っ込むこともないだろう。

 とりあえず意味が分からないのは事実なので、袋に視線を向ける。ガムにしては大きい、というか四角い。正方形の意味で。

「プレゼントだ」

「は?」

 少しいつもより早く感じたが、声自体はいつも通りのっぺりとしたものだ。焦る理由もないだろうし、こちらの気のせいかもしれない。しかし、理解ができない。

 不審を伝える為眉間に皺を寄せると、袋がこちらにさらに押しつけられた。

「貰ってくれ」

「なんでだ、なんかあるのか」

 尋ねながら袋を受け取る。理解はできないが、受け取ったからといって不利益を与えるような男ではない。

 中を見れば、洒落た包装紙で飾られた箱があった。

「特に理由はないが、世話になっているしな。気持ちだ、値引き物だしな」

「バレンタインを?」

「売れ残りの安いコンビニチョコだ。日付は過ぎているんだし、ただのお裾分けだと思ってくれ」

 いぶかしむような声で尋ね返せば、日暮さんが言葉を重ねた。この人は敵意のなさを伝えるためか、自身の感情を補うためか説明をする。するのだが、どうにもその内心までを語らないので足りない。

 それでも悪意はないし、お裾分け、という言葉を内側でなぞる。

「開けてもいいか?」

「……ああ」

 日暮さんが頷いたので、包装紙を指で撫でる。こんな場所で開封するのも、と思うが、しかし貰っておしまいというには微妙だろう。

 見た目で言うなら男同士、日付が過ぎたとは言えコンビニ前でバレンタイン用のチョコレート。山田太郎としてどうなのかと思うが、まあ悪意も敵意も他意もない。お裾分けだと日暮さんが言うのならそれ以上でもないだろうし、これまでのように親しい人間が竜郎さん以外は存在しないというスタンスを貫く必要もない。

 日暮さん的にはどうなのだろうか、という考えはなくもないが――まあ、誤解をされたのならそれを正すためにこちらが協力すればいいだけだ。

 包装を剥がした箱には銀箔で装飾があり、綺麗だ。小さな箱をそっと開ける。

「随分と洒落てるな」

「今時のコンビニは凄いな」

 つい、感嘆が声に出てしまった。対する日暮さんは平坦で、それでも凄いという感情は彼の物だろう。

 たった三粒の、コンビニでも数を少なくすることで高級志向が窺えるチョコレート。包み紙は緑色で、それすら装飾となっている。

 菓子細工、という言葉が相応しい、美しいセピア色をした薔薇の粒。薔薇の砂糖菓子があるんだっけ、と昔の記憶がふと浮かんだ。

「……好きだろう、そういうの」

 平坦に落とされた言葉に、口にしない感情を代わりに落とされたような心地を覚える。確かに、逸見五月は、好きだ。可愛らしいと考える気持ちも、今だってある。

 可愛いだなんて、山田太郎は言わないが。

 どうしようか、という言葉はどうしようもない、という事実でもあった。浮かんだそれは山田太郎に似合わなくても確かに存在していて、なにより、好きだろう、と日暮さんが言った。

 たった半年もいなかった二十年以上前のクラスメイトが園芸委員だったことを、覚えているのだろうか。そんなに話をしたわけでもないのに、本当にお人好しと言うべきか。つらつらと浮かぶ思考はなんとか根っこを逸らそうとして、逸らしきれない。

 そうだ。私は、好きだ。

「ああ」

 優しさに感情が漏れるのを、それで良しとした。人通りはさほどなく、見ているのは日暮さんくらいだ。他人に見られてもこの程度別に、どうとでもないだろう。本質を隠すのに、サングラスとオールバックはずいぶん便利でもあった。

 だから今は、これでいい。同じ言葉を重ねられないけれども、この愛らしいチョコレートと日暮さんの優しさに浸ることくらい、きっと許される。この人は、それ以上踏み込まない。

「嫌いじゃない」

 すべてを言葉にしきれなくても、甘いかけらをせめても伝えるために言葉を選ぶ。箱を日暮さんに向けて差し出すと、やはり表情の読めない顔がこちらを見返す。

 人に与えるくせに、それで終わりにするのだけはなんとかしてほしいものだ。甘えるのも礼儀だとは、思うけれど。

「一個ぐらい日暮さんも食っときゃいいだろ。安いっつってもこの個数で売られるようなもんだ。奢られるにしてもアンタが食わないのは落ち着かねぇ」

「ああ」

 頷いた日暮さんが、一粒チョコを摘む。ぱかり、と口を開けて放り込まれたチョコレートは、「甘い」という呟きと一緒にかみ砕かれた。

「そりゃ甘いだろうよ」

 なんとなく愉快な心地で返す。当然のことをそれでも言葉にする日暮さんらしさは悪くないが、少しだけ幼く見えてしまった。

 中学の時からとんで、再会は自分が山田太郎となり、日暮さんが刑事になってから。成長過程を知らないせいだろうか。なんとなく、昔の姿が重なったように感じてしまう。

 そんなものはないのに、なんとも奇妙で不可思議で、少し眩しい。

「返すモンねぇぞ」

「俺も貰ったから必要ないだろ」

 奇妙に浸る心地から多少は浮上しようと言い切れば、もごもごと咀嚼した日暮さんにあっさりと返される。なんともお人好しな言葉だ。渡したのは日暮さんなのだから、貰ったとは違うだろうに。

「日暮さんが寄越したんだから貰った、っつーのも……いや、そうだな」

 否定をそのまま口にしようとして、言葉を止める。渡して、それを貰った。肯定しづらいが、それでも日暮さんが言うのならそうとした方がいい気もするのだ。くれた物を貰った人間のものではない、というのも失礼だろう。

 だとすると、この状態は。

(ああ)

 馬鹿馬鹿しい思考だが、悪くないと思えた。わざとらしく片頬だけつり上げにやりと笑う。

 まったくもって彼の望みではないだろうが、それはもうこのタイミングでそういうものを渡した日暮さんが悪い。

「貰った時点で俺のモンだし、そこから日暮さんにやった、って考えるならおあいこだな。日付も色気も準備もねえがハッピーバレンタインってやつだ」

 興味ねえだろうけどな、と日暮さんの意図を誤解していないことを明示するために続ける。日暮さんの表情は変わらない。まあ、変わるわけがない。それでも迷惑がるような人ではないだろう、冗談を自分でも言う人だ。この人は、素直に受ける。

 なんとなく子供じみた、くだらないことを言っている自覚はある。けれども、だってそう、仕方ないだろう。せっかくのこの甘い物を、それだけで投げるには勿体ない。

「ああ」

 やはりというべきか、日暮さんはあっさりと頷いた。お人好しすぎて横須賀さんとは別の意味で心配になるが、この人は芯がだいぶしっかりしている印象だから大丈夫だろう。下手に流されて相手も自分も困ると言うことはない、という安心感がある。

 食べるのも勿体ないくらい愛らしい薔薇のチョコを摘んで、口に入れる。舌で転がすと優しい甘さだ。

 悪くない。もう一度心内で呟いて、日暮さんを見上げる。のっぺりとした能面の男は相変わらずまっすぐと立っていて、やはり少しだけ、眩しかった。

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