台詞の空行

二月十一日 1

 日本人はイベントごとが好きだ、というのは、閉じた世界しか知らない人間が言うには身勝手すぎる言葉だろう。海外の諸事情を知る由はなく、仕事以外で出歩く機会もほとんどなかった人間が言うのは随分と間抜けな色がある。そう考えながらも、しかし周りにあふれるイベントに山田は息を吐いた。

 ハロウィン、クリスマス、正月、節分とバレンタイン。店を歩かなくても世間はコロコロと色を変える。

 悪いことではない。どちらかというと、逸見五月はそういうことを好んでいた。山田太郎は太宰竜郎が声をかけない限りほとんど関係なかったが――今までは随分と遠い印象だったそれらがやけに色鮮やかに目に入るようになったことを、サングラスの奥で時折目を細める程度には嫌っていない。

 ただまあ、それは眺める立場だからこそとも言えるわけで。

「相談する相手を間違えてるんじゃネェのか三浦さん」

 喫茶店の一角で、山田は静かに声を落とした。少し責める調子のある音に、目の前の三浦は眉を下げてへらりと笑う。

「間違えてないです、これでも選んでいるんですよ。無茶なお願いとは思うんですけれど」

 隣に座っている横須賀はよくわかっていないような表情で、三浦が机に置いた紙を眺めている。基本的にあるものを見、そのまま読む癖があるのだからその行動はおかしくないのだが、その紙が問題だった。

「無茶かどうか以前に選んでいるってのも納得いかねえ。女の匂いがすると思うのか」

 山田の言葉に三浦の目が泳ぐ。そのまま逸れていく視線に、山田は大げさなため息を吐いた。

 テーブルの上にあるのはコーヒー三つ、そして三浦の正面に置かれたやけにカラフルな紙切れ。長方形の光を反射するチケットは随分愛らしいもので、一八〇を越える長身に顎髭を生やした男には少し華やかすぎるようにも見える。だが目の前でゆるく笑う顔と三浦という男について少しでも知っていれば似合っていて、しかしだからこそ解せない。

「思ってねえならおかしいだろ。他に繋いでやるならせめて俺よりもリンのがまだ可能性ある。日数が無い以上に仕事以外の付き合いはあんましてねーんだよ」

 バレンタイン限定のスイーツコラボ、と書かれたチケットは、いわゆるカップルで楽しむものだろう。別にカップル限定とも女性限定とも書かれていないが、二月十四日、お菓子会社の商業利用とチョコレートを楽しむ人間たちの様子は毎年のことで想像が付く。

 なんでわざわざそれを選んだ、と思った以前のアリスコラボの時も女性は多かったし男が居ようと同じものを楽しむ人間に悪意を持つ人間がいないのはわかっている。もしネガティブな感情を向けられたところで気にもしないが、楽しみに来た人間が他人を気にすることがそも稀なのだからそんなこと些事だろう。

 しかし、しかしだ。それでもいくらチケットが余っているからといって、恋人がいない山田と横須賀に相談するものでもないはずだ。しかも今日は十一日。夜とはいえ平日である十四日に予定が合う人間を探すのにも時間がない。恋愛沙汰と縁が遠い人間に相談するより、手当たり次第恋人がいる人間に当たる方が無難だろう。

 その程度のこと想像が付かない三浦でもないだろうと山田がじっと見据えていると、そろそろと逸れていた視線がゆっくりとテーブルに戻った。そのままかちゃりとコーヒーが右端に退けられる。腕を組んで山田が三浦を睨むと、三浦が指でその紙に触れた。

 親指と人差し指と中指がとんと立つ。短く切られた爪は三浦らしく、三本指が紙の端をさりと摘むとバラバラに離れ――机の上には、同じデザインのチケットが三枚。

「一緒に行ってください!」

 両手が机に乗ったかと思う間もなく、三浦が額を机に置いた両手にのせるように付けた。机にぶつけなかったのは揺らさないための配慮だろう。コーヒーをわざわざ横にどける辺りも三浦さんらしい、まで考え、山田は一瞬ずれかけた思考を慌てて正面に戻した。

「……あ?」

 間抜けな音にならないよう、唸るように声を出す。意味がわからん、と伝える為の山田の一音に、三浦は頭を下げたままだ。隣で横須賀が困ったように二人を見比べている。いや俺を見たってわけがわからないのは一緒だ、という言葉は形にせず、山田は眉間に皺を作ると眉尻をつり上げた。

「なんでそうなるんだ」

「妹ちゃんからチケットを頂戴しまして」

 そろり、と三浦が顔を上げた。妹ちゃん、との言葉に三浦の部屋を見たときのことが思い浮かぶ。三浦は弟妹をだいぶ可愛がっており、部屋の中にも身につける物にもそれが見てとれるのでどうでもいいことではないだろう。――まあ、そんな物を見なくとも三浦とある程度話すようになればいやでも会話で知る機会が増えるのだが。

 にしても妹から。内心で繰り返し、山田はつり上げていた眉を少しだけ水平ぎみにした。それは少し、踏み込むには失礼だろう。

「一緒に行かないんですか?」

「時期考えろ横須賀さん」

 きょとり、と不思議そうに尋ねた横須賀に山田があくまで平坦を装いながら指摘する。バレンタインに出かけるチケットだ。それをこんな急に貰った――使わなくなったという意味くらい、少し考えればわかるはずである。

 横須賀に考える力がないとは山田は思っていない。それは過去からの積み重ねで確信しているもので、しかしぱちくりと瞬く顔はまったく想像がついていないようでもあった。

(まあ、そもそも横須賀さんはイベントごとに疎いところがあるか)

 知識という物にはばらつきがあり、また必要なときに必要な物を引き出せるかどうかが知恵でもある。だからこそ能力以上に求めてはいけないが、しかしこれは勝手に他人が言及していい問題でもないだろう。

 バレンタイン直前に不要となったチケットと聞いて浮かぶ理由などそう多くないとしても、だ。

「えっと……?」

 山田が言葉を続けないことに、横須賀がううんと更に首を傾げる。さてどうすべきかと考えていると、「ははは」と三浦が笑う。

「浮気野郎に早く気づけてよかったですよ」

「隠さねえのか」

 横須賀に教えるようで投げやりな言葉に、つい山田が口を挟んだ。三浦の瞼は元々厚ぼったいが、平時は笑顔で和らぐ瞳がどちらかというと暗く影に落ちているのは笑っているのに中々淀んだ感情を見せつけるようでもあった。

 少し冷える心地にまああれだけ可愛がっている妹だしな、と山田がため息を吐くと、めでたいことです、と暗い目で三浦が笑う。

「そういうわけで一緒にどうですか」

「訳はわかったがだったら横須賀さんだけ誘えばいいだろ。なんでそれ三枚もあるんだ、バレンタインなら普通二枚だろ」

「妹ちゃんからのプレゼントです」

 きっぱり、と言い切った三浦に山田が眉間に皺を寄せる。言葉で聞かない代わりに表情が伝える問いに、三浦は少し思い出すように遠くを見た。

「妹ちゃんが『バレンタイン滅べ』って言いつつも、『にーちゃんは友達と楽しんでね』ってわざわざ用意してくれたんですよ……無碍に出来るわけ無い……」

「八つ当たりだよなそれ」

 明確だが指摘していいか不明な現実だったものの、巻き込まれる側である山田ははっきりと指摘した。というかこんな期限ぎりぎりに貰い手を見つけるよりも余っているチケット一枚を見つけることのほうが難しいのではないだろうか。執念過ぎる。それとも兄にプレゼントを考えて準備していたのか――どちらにせよ、わざわざ三枚というあたりは完全に状況を予想して渡している。

 当然三浦自身もわかっているのだろう。山田の言葉には特に頷きも返事もせずに、鼻と口元を覆うようにして両手を合わせる。

「兄ちゃんと友達の写真もほしいなって……本当可愛い顔で、ねだって……」

「嫌がらせだろ」

「そういう訳で横須賀さんケーキ屋さん好きですよね! 行きましょう!」

 山田の続いた指摘からぐるっと目をそらすように、三浦が両手を机に下ろして明るい顔で横須賀に向き直る。突然名前を呼ばれた横須賀は驚いたように目を見開くと、ぱちぱちと瞬いた。

「そっちに聞くのか」

 別にどうだっていいのだが、三枚ということは三人分だ。これまで山田に向いていた言葉を突然横須賀に向かわせたのを見て、山田が疑問に満たない投げやりな言葉を放つ。

 山田の態度に、三浦はへらりと笑った。

「将を射る前に馬かなあって思いまして」

「その馬最初から膝折ってるだろ」

 おそらく、だからこそ三浦は横須賀に問いかけたのだろうと思いながらも山田が重ねて指摘する。きょときょとと瞬いていた横須賀がへらりと笑うのはわかっていないのもあるだろうが、実際問題横須賀は他人との食事を好むところがあるから当然の結果とも言えた。

 横須賀一という人間についてまだ山田は多くを知っていないと自認しているが、人と食事をすることをやけに有り難がること、自身で選ぶことはあまりしないからこそか、外食で見慣れない店に人と行くと不思議そうにしながら楽しそうなことはわかっている。

 バレンタイン、という時期についてはそういうもの程度で特に躊躇いもないだろう。三浦という親しい人間からの誘いを断る理由もない。