台詞の空行

甘い一日(Side:横須賀) 4

「お待たせいたしました。ダージリンのお客様」

「あ、はい。俺です。有難うございます」

 三浦さんが手を上げて答える。三月ウサギのタルト、と言って置かれたお菓子にはウサギのクッキーが乗っている。タルト、も不思議な存在だ。味が想像できないけど、外側がクッキーと似ているからクッキーが乗っているのだろうか。

 アッサムティーと言われて、慌てて俺も小さく手を上げる。三浦さんと違って少し間があって申し訳なかったけれども、店員さんは笑顔で置いてくれた。

「ショートケーキです」

 テーブルの上に置かれた白は、ふわふわしてみえた。実際はふわふわしていないのかもしれないけれど、なんだかすごくやわらかそうだ。甘い砂糖の色。

 俺がイメージするショートケーキはホールケーキというやつで、それの切り分けた物が目の前にある。断面のスポンジは柔らかい黄色で、生クリームとイチゴが見える。中央には生クリームのクッションに大きなイチゴが座っている。

「しょーとけーきだ」

 言葉にしたらなんだか目がしぱしぱした。少しのどの奥が苦しい。いやなんじゃない。なんだか内側から水が昇るみたいな、変な感じ。吐き気でもない。もっとあったかい、不思議なもの。

 誕生日に子どもが食べるお菓子が、目の前にある。

「大丈夫です、有り難うございます」

 三浦さんの言葉で顔を上げて、すぐに頭を下げる。注文の確認を終えた店員さんはするりと戻っていった。視線を戻せば、目の前にケーキはある。

「いただきます」

 あまり大きくない声で三浦さんが言ったので、俺も慌てて小さな声で続けた。それから、山田さんも。

 いただきます、と言ったけれど、でも、なんだかもったいなくて手が動かない。

「食べないんです?」

 三浦さんの言葉に、少しだけ指が動く。でもそれ以上にならなくて、ショートケーキを見続けてしまう。見ているだけではいけないんだけれど、なんだかきれいなものを崩してしまうみたいで差し込む場所がわからない。

 聞かれたことに答えなければ、と思いながらも、食べます、というにはケーキとても完成されていて。

「どうやって、たべようかな、って」

「ああー、慣れないとそうなりますよね。端っこからがお薦めかな?」

 にこにこと三浦さんが教えてくれる。はしっこ。三角形のとがった先を見る。きれいなかたち。

「でもまあ、食べやすく食べれば良いんですよ。だいじょーぶですって」

 ぽん、と楽しそうに言った三浦さんは、俺もおっこっちゃってますしねえと笑っていた。落ちたといってもお皿の外ではないのだけれど、上手じゃなくても大丈夫というような三浦さんに頷く。フォーク、ケーキ。瞬きを繰り返しても消えてしまわない。

 端っこ、端っこ。三浦さんが教えてくれた場所にフォークを乗せる。力を入れると形がゆがんでしまうので難しい。切る。切ると言うよりなんだかすくうみたいになった端っこを、口に入れる。

 少なすぎたのか、最初はよくわからなかった。そっと上顎に押しつけるように舌を動かすと、甘味が口の中を湿らせる。溶ける。

 あんまり噛まなくてもそのまま飲めてしまった。は、と息を吐くとそれも甘い気がする。三浦さんと山田さんが俺を見ていた。甘い。

「あまい、です」

 感想を、と思ってでたのはそのままな言葉だ。三浦さんがやさしい目を半熟卵みたいにふにゃりと溶けさせる。

「甘いですねぇ。イチゴも一緒に食べると味が変わりますよー」

「え、あ、はい」

 三浦さんの言葉で今度は切り口を確認してイチゴの場所を目印に切り分ける。結構多くなった。さっきはさきっぽで、イチゴがなかったみたいだ。口にいれる。

 溶ける甘味と、スポンジの感触と、イチゴが歯に当たる感覚。さっきよりも多いから、噛みしめる。甘さに酸味が広がる。味が変わったみたいで、不思議だ。見ると三浦さんがまだにこにこ俺を見ていた。

「あまくて、すっぱい、です」

「おいしいです?」

 感想を言うと、三浦さんが嬉しそうに聞いてくれる。好きなお店だから嬉しいのか、甘い物が好きだから嬉しいのかわからないけれど、本当に嬉しそうで俺も嬉しくなる。

 なによりおいしいか聞いてくれる人がいるところで食べられるのは、あまりにも優しすぎて、恵まれている。

「おいしい、です」

 俺も、嬉しい、が声にでた気がする。三浦さんが嬉しそうというより楽しそうに笑って、ふへ、と俺もそれにつられる。山田さんも笑っている。うれしい。

 こんなにうれしい中で、そいつは。

「食べられるんですね」

 ほとんど忘れていた、小さい頃。物語の中の食べ物だと思ったはじめてのきっかけが浮かんで、そのまま言葉になった。書庫にいさせてくれるから、お婆ちゃんの家は俺にとって心地よかった。本は時間を忘れさせてくれる。なにも考えないでいい。そんな中で見つけた食べ物達は、不思議で。幼稚園、小学校。行った先で本の中のそれらが物語だけじゃないらしいと知って、でも、俺には物語と同じだった。ああいうものは不思議で想像できない、空想の食べ物に近くて。知りたい気持ちは現実のものというよりもっと外側。絶対に得られない、自分にはあり得ないもの。

 奇跡だ、と思う。けれども同時に、奇跡じゃないのだ。だって当たり前にここにあって、これは。

「そりゃ食いもんだからな。金さえありゃなんでも食えるさ」

 俺の思考を掴むみたいに、それでいてつぶすんじゃなくて当たり前をなげるように、山田さんが笑い捨てた。考えるだけ無意味だと言うような音は、粗雑ではあるけれども軽蔑ではない。もっと優しい。もっと、そっけない。

 今更すぎる実感を嘲うようで突き放さない音の意味はわからない。山田さんが俺のこれをどう見ているのかもわからない。けど。

「そうですね」

 昔なら、出来るわけがなかった。でも、今は出来ている。多分三浦さんや山田さんがいなくても、コンビニにだってケーキは売っていて。買っても咎める人などいなくて。

 そうなのだ。山田さんの言葉はいつも当たり前で、あまりに優しすぎて、今更で。

 俺は。

「おいしい、です」

「甘い物って幸せになれますしねえ。また今度誘っても良いです?」

 大丈夫。そう言うには話が飛びすぎる。だからかわりに噛みしめながら呟けば、三浦さんがするりと尋ねてきた。

 こんなに幸せなのに、次。本当に当たり前みたいに続いていく。これが当たり前でないと、俺は知っている。でも同時に、多分当たり前なのだとも思う。頷くと、三浦さんが喜びの声を出してくれる。

 へんてこな矛盾は、わかりやすく喜んで見せてくれる三浦さんで肯定されるようだった。ああ、甘い。

 いつか、いつか。叶子ちゃんも誘えるだろうか。勝手な印象だけれど、多分彼女も、もしかすると彼女の方が、あまりこういうものを知らないかもしれない。

 俺が嬉しかったからって、彼女がどうかはわからないけれど。多分、俺も彼女も、こういうものが欲しくて、だから。

「あ」

 思考していたせいか、ケーキが崩れる。ああ、綺麗だったのに。

「たおれちゃった」

「綺麗に食べるの難しいですよねえ。よくあります……」

 こぼれた自分の音は、耳で聞くとやけに幼かった。むずむずする音を気にした様子もなく、三浦さんが同意してくれる。想いを馳せるような調子だから、三浦さんもケーキが崩れたことがあるのだろうか。きれいに、は難しいのかも知れない。

「食えれば良いだろ」

 当然というような音で山田さんが言って、ケーキを口に運ぶ。山田さんは一口ずつ小さく切り離しながら食べていて、上手だ。表情はサングラスでわからないけれど、嫌いなものなら頼まない人だから、きっとおいしいのだと思う。

 口に運んだ紅茶は、教えてもらったとおり渋みがある。緑茶とは違うけれど、おいしい。

 は、と息を吐く。少しだけ震えるような手の腹は、むず痒いような暖かさでじんわりと滲んだ。

 甘い、甘い一日は、多分きっとこれきりではない。残すことが増えていく。話すことが増えていく。

 紅茶で暖まった息がしあわせという言葉を形作るようで、むずがゆさが口に上って、俺は笑った。