台詞の空行

甘い一日(Side:横須賀) 2

 * * *

 会った時に三浦さんが言ったのは、「休日ですよ今日」だった。言われたのは俺じゃなくて山田さん。山田さんはいつもと同じ白いシャツに黒いジャケット、ズボン、赤いネクタイ、サングラスという格好。「仕事でもないのにスーツですか」って言った三浦さんの格好は白いセーターに暗い色の灰色がかった緑のズボン、紺色のコート。革靴だけれど山田さんと違ってかっちりしていないやつで、カジュアル、というものだと思う。あまり服装には詳しくないので違うかも知れないけれど、靴のつま先部分が少しデザインが違って、革でも生地がしなっている感じだから多分そうかな、と思った。

 山田さんは三浦さんの言葉にいつもの顔で「文句があるなら二人で行け」と言い、「それじゃあお礼にならないでしょう」と三浦さんが返して、その話題はおしまいになった。

 多分、お墓参りの時と違って『山田太郎』の休日だからだと思う。山田さんはその方が便利だと言って逸見五月を選ばなかった。俺は山田さんは山田さんで、逸見五月であるとかないとかは正直あまりに気にならないのでそうかと思ったけれど、休日は山田太郎でない方がいいのかな、と三浦さんの言葉で考える。考えるけれど決めるのは俺じゃなくて山田さんで、どんな格好でも変わらないからそれでいいや、と思って終えてしまう。三浦さんもそれ以上気にしないからそれでいいかなあと思うのだ。

 山田さんは必要になったら逸見五月という形も選ぶだろう。山田さんと逸見五月さんは名前と形が違うだけで、その人は全部同じ山田さんだ。だから一緒にケーキ屋さんに行ける、それだけで俺は十分に思えた。


 二人のやりとりは楽しくて(といっても三浦さんがたくさん話しかけるので会話の割合は違うし、三浦さんは俺にもいっぱい話しかけてくれるからふたりだけでもないのだけれど)、ケーキ屋さんまではあっという間だった。お店についたら他の人に迷惑にならないように、あまり話はしなかったけれど。きらきら、きらきらとしたお店の中は本の中のようで、そこに俺が入ることは非常に奇妙にも思えた。

 店の中を観察する自分に気づいたのは少ししてで、なんだかそれがくすぐったい。元々俺は、世界を眺めるのが好きではあった。俺の届かないもの。ありえないもの。知らないこと。そういうものはすぐそこにあって、でも話しかけたり触れるようなことは決してできないもので。だからいつも見るのは人だった。人を見るのは好きだ。そこに物語があって、想いがあって、自分の知り得ない優しい世界に触れられる気がして。眺めるきらきらを中心に世界を観察していた。だからいつも、視線は人だった。

 いわゆる職業病なのだろうか。今の仕事になっていろんな場所を観察することが増えた。人を見なくてもそこに物語はある。だからやっぱりそういうものを見るのは好きで――でも、今はもっと違う気がする。

 本棚を眺めることはあった。それよりももっと近い。俺がここにいる。なんだか当たり前が奇妙で、この場所を覚えたい、と思ったのかも知れない。メモをするのは休日だし躊躇って、でも、俺は今日ここにきたのだ。三浦さんの好意と山田さんの判断で。

 きっと俺は、ここに来たかった。

「三名様の三浦様」

「はぁい」

 よく通る女性の声に肩を揺らすと、三浦さんのやわらかい返事が一緒に聞こえた。見過ぎていた、かもしれない。相変わらず俺はひとつのことにしか集中できない。でもそれじゃあいけないことはなくて、そうじゃなきゃいけない、ということもないんだ、と最近じんわりとわかってきた。この人たちは声をかけてくれて、仕事じゃなくても見るしかできない俺をそのまま流してくれるから。置いて行かれることはなくて、ついていっちゃいけないこともない。

 俺のそういうところを指摘しないことに、興味がないわけではなくて受け入れてもらっているように感じるのは、少し贅沢すぎる勝手かも知れないけれど。

「ショーケースにあるものが本日のケーキです。メニューは写真でも確認できますが、お席で選ばれますか? それとも先にショーケースで確認してケーキを注文されますか?」

「あー、えっと」

「ショーケースでお願いします」

 三浦さんの悩む声に、山田さんのはっきりとした言葉が重なった。

「わかりました、こちらです」

 女性の言葉で視線を動かす。きらきらに視界が少しぼやけそうになる。少し強めに目を閉じて、すぐ開ける。

 ショーケース。この場所からも見られるけれど、目の前に立てるとなると胸がぎゅっとする。少し苦しい。でも、嫌なんじゃない。緊張して、怖くて、胸からおなかになにかが引っ張られる。酸素が少し薄い。それでも、これは、嫌じゃないんだ。

 していけないことじゃないんだ。山田さんは当たり前に、ショーケースを選んだ。

 なんだか変な感じがする瞼に何度も瞬きを繰り返す。案内されたショーケースは当たり前にそのままきらきらしていて、ライトも白さも眩しい。どうしよう。どうするかなんて決めてあって、なのについ言葉が浮かぶ。

 どうしよう。いいのかな。

「いろいろありますね、なににします?」

 三浦さんが大きく口角を持ち上げて笑いながら尋ねる。いいんですよ、なんて、言われてないのに勝手に聞こえてしまいそうで、でも多分、聞いたらきっと笑ってそういう人だとも思う。

 知り合ってそんなに時間は経っていないけれど、三浦さんは好意を、思考を丁寧に並べてくれる人だ。

「こっちが通常メニューで、こっちがイベントのです」

「えっと」

 それでも名前を言うのに躊躇いがあって先にでたのはそんな音で、けれど三浦さんは笑って頷いた。

「決まらなかったら見ておいて、席で悩んでも大丈夫ですからね」

 三浦さんの声はいつも優しいし、楽しそうだ。そのままイベント用のケーキの棚を見る横顔も相変わらずで、いいな、と思う。三浦さんの表情は、見てるとほかほかする。

 隣からみたイベントの棚もきらきらだけれど、でも、俺はこっち、だ。

「三月ウサギのタルトをひとつ」

 じっと目的のケーキをみていたら、三浦さんの声が聞こえた。煩くないけど耳にすっと入る声で、そのまま溶けてしまうみたいな穏やかな声はするりと店員さんに拾われる。俺も言わなきゃいけない。でも、まだ見てしまう。

「オレンジチョコレートをひとつ」

 山田さんが、とん、と声を落とす。耳に馴染む穏やかさは、仕事の時のわざと作ったものよりも少し余白がある。無防備、っていうとなんだか言葉がよくない気がする、けど、優しい音。秋くんに向けた優しさいっぱいの声ではないけれど、人を攻撃しないし、命令とも違う、なにか意味があるというよりも投げるだけの音は投げるけれども静かで、とがっていない。

「え、と」

 店員さんの所作を見ていたら目があった。微笑まれて声が漏れる。決まってる、決めてある。いいのかな、なんて何度も浮かんで、でも、いけないなんてことはなくて。鞄の紐を握る。布地は簡単にひしゃげてしまうけれども、この圧は少しの安心があった。

「しょーと、けーきを」

「え」

 ようやく音になった言葉に、三浦さんの声が聞こえた。いけなかっただろうか。でも、三浦さんはそういう、だめ、って言うひとじゃないとおもう。でも、ならなんで。

 俺にはやっぱり、似合わないのだろうか。だめかな、でも。

「えっと、お金とか気にしないで、好きなの選んでいいんですよ?」

 ひどく穏やかな声で三浦さんが首を傾げた。疑問というより俺の猫背にあわせるような所作は優しい。やっぱりだめって理由じゃなかったことに安心する。

 俺が選んだショートケーキは値段も外見もシンプルで、イベントだしって思ったのかも知れない。合わせた方がいいだろうか。ケーキをもう一度見る。はじめてケーキ屋さんで食べるケーキ、だ。三浦さんはだめ、って言わない、から。

「しょーとけーきが、いい、です」

 なんとか決意を形にする。大丈夫なのに責め立てるような、似合わないと言う声に謝罪も続けてしまった。三浦さんの希望に添えずごめんなさい。三浦さんはそういうふうに受け取ってくれただろうか。そういう意味も、ある。似合わない。違う、それはない。だから、今日は、俺は。

「ええ、と」

「飲みモンはここで決めるのか」

 三浦さんの声が、山田さんの声で止まる。さっきよりも少し落とした声色の呟きは頭の中によく通った。飲み物、という言葉を咀嚼する。ケーキしか考えていなかったから、決めてなかった。

「こちらでおきまりでしたらこちらで。お時間かかるようでしたらお飲物はお席で決めても大丈夫ですよ」

「じゃあ席でお願いします」

 三浦さんの声はとぎれたままだったけれど、同じように飲み物の話題だったのかも知れない。山田さんの言葉でそのままとんとん話が進んで、席に案内された。

 店員さんはやさしくて、歩くのも自然だ。遅い、わけじゃないけど。山田さんが普通に歩くペースと同じ。追い抜かないように席について、座ると少しほっとした。けーき、はもう決めた、から。言った、んだ。