1-2-19)屋代と泥野
* * *
「結局どういうことだったのさ」
雨は止んだ。そもそも通行止め自体が個人で成されたことなので降っていたところで帰路に進む障害にはならないが、車内の会話が困難とならない理由にはなるだろう。そうして後ろから投げられた素っ気ない声に、山田は助手席で肩を竦めた。
「どうもこうもねぇさ。屋代覧は泥野の行っていたことを知らなかった。そして泥野が行い続けるには、屋代の否定は障害だった。主人に忠実な犬ってトコだよ」
「絶対足りてないだろそれ」
不満を込めた矢来の声は、しかし追求ほどの強さを持たない。それ故かそもそも最初から足りさせるつもりがないのか――恐らく後者だろうが――まあな、と答える山田は特に気にした様子を見せなかった。
屋敷の電話を借り警察に連絡だけ終えると、屋代覧をはじめとした佐藤達当事者に残りは任せて山田達は立ち去ることを選んだ。矢来も当初の望みを変えることなく早期の帰宅を選び、しかし車を中山の家に置いてあるとのことでそこまでは乗せていく羽目になったのが現在である。全ては終わったことで、横須賀にはいくつか教えたものの、矢来に口にするのははばかられる故に山田はそれ以上言葉を重ねない。
「……まあ、記事にするには個人が関わり過ぎてるけどさ」
矢来が息を吐いた。下手なゴシップ記事を書くつもりはないのか、その点は山田にとっても都合がいい。中山の原稿は使えても、今回の件と関係させるつもりもないのだろう。
元々、事件については面白味のないものだ。調べていけば山田の立てた推論よりも細かくわかるだろうが、特例隊が入れば山田は深く入れ込む必要を持たない。念のためリンに話を伝える程度で終わりだろう。泥神というものは、強大でありながら随分と小さいものでもあった。当初洞親子の時にあった直臣のような形を心配したが、近くてもそれは違う。もっと土地と人に結びついてしまったもの。
「泥野って執事がいなくなれば終わるもの、ってのは間違いないんだよな?」
「多分な」
ある意味雑とも言えるような山田の言葉に、矢来が眉をしかめた。ええー、と言ううめき声に似た抗議はやけに素直に聞こえ、山田は小さく笑う。
「あとの仕事は警察の管轄だろ」
道中話を聞いた中で判断すれば、矢来は日暮のことを随分信頼しているようだった。信頼、というよりは懐いていると判断していいだろうことを山田が指摘すれば、そうだけどさ、とあっさりとした首肯が返る。ただ、首肯をしても不満が晴れるわけではない。
「雨彦がやることを心配するつもりはないけど、もやっとはすんだよすっきりしないっつーか」
「雨彦に取材すりゃいいだろ」
「答えるわけないし困らせるつもりもないからアンタに聞いてんだよ」
山田の提案に矢来が唇をとがらせた。目つきは随分と日暮に似ているが平坦ながらによく動く表情にもそれなりに馴れたもので、つい和らぎそうになる笑みを飲み込んで山田は肩を竦めた。
「仕事以上の話しをするつもりはネェし、どうしてもっつーなら泥野から取材をもぎとれよ記者さん」
「必要に応じてそっちもやるけど基本は編集者だし、今知りたいのは記事にできるネタじゃなくて俺の知的好奇心なんだけど」
「ガキを構ってやる優しさはネェな」
山田の言い捨てに矢来はため息をつく。そうしてからちらりと横須賀を見るが、運転中の横須賀は特に気づいた様子を見せない。
「でも横須賀サンには聞くなっつーでしょ」
「いや? 他人の行動を制限するなんざ無駄だからな。どうでもいい」
「え、まじで」
山田の言葉にばっと矢来が全身を向けて横須賀を見る。前を向いたままの横須賀と少しでも視線を合わせようとするのか、後頭部ではなくバックミラーを見て矢来が少し体を乗り出した。
「横須賀さん、後で話聞かせてよ。一緒に泥にまみれた仲だしもう少し俺いたわられてもいいと思うんだけど」
「……え、と?」
突然の言葉に少しだけ不思議そうに瞬いて、横須賀が困惑の声を漏らす。視線は前を向いたまま尋ねることもうまくできない横須賀に、うんうんと矢来は勝手に頷いていた。
「あの泥の祭壇なんだかわけわかんないのも話せない子供もすげー困ったもんな。あんな仕事ばっかなの?」
「え、と、仕事の話、は」
「守秘義務じゃない範囲でいいから。つーか今回俺がやったことと結果っつーか泥野がなんだったのかとかそーいうやつ」
「ええと……」
困惑したようにバックミラー越しに横須賀が山田を見たが、山田は顎で前を示すだけだ。前を向くので、と断った横須賀に「後でな」と念を押す矢来は満足したようだが、山田は横須賀が押しに弱いようで決めたことは守り通す性質だと知っている。矢来が思うほどの情報は得られないだろう。
少々面倒を押しつけた故の謝罪は心内にあるが、しかし年頃が近いようだし会話は悪いことではない、というのは山田の勝手な判断だった。交渉事を横須賀に任せるつもりはないが、無害と分かってる人間との会話くらいはある程度気負い無く出来るようになればという勝手な願いはある。
それが余計なお世話であるのをわかっているので言葉にはしないが、屋敷での様子をみる限り文字に対する真摯さなどは近しいところがあるようなのでそこまでストレスにならないとも踏んでいる。横須賀の文字へのまっすぐさよりも矢来は随分と熱量が多いようだが、話を聞いている横須賀が楽しそうなのでまあいいだろう、という雑さも自覚しながら、山田はそこで思考を投げた。
矢来も横須賀と同じくそれなりに好奇心が強い様子だが、不機嫌を表しても子供のように感情を叩きつけることまではしないという安心もある。日暮のように自覚して一線守りきると言うよりは相手を傷つけないかという不安が足を止めさせるような根のお人好しも含めて、山田は矢来をそこまで警戒していないのだ。
ならば教えてくれてもいいんじゃないか、と矢来が聞けば思うだろうが、それはそれ、これはこれだ。今回の事件は非常に単純で、故に人に踏み込みすぎる。
屋代家当主は代々泥子と呼ばれる形状を成す。かさぶたのようについた泥が年齢と共に浸食するものだ。そして泥に全て覆われると、生まれ直す。代々、と言ったが自分はなにものなのだろうな、と自嘲した当主に返す言葉を山田は持たない。たとえ持ち得たとしても、言葉にする立場ではないだろう。
直臣について知ったときに浮かんだのはロックの靴下、テセウスの船、スワンプマン。崩れていく体を補うために他人のパーツと入れ替えられた彼は、僕は僕なのと問うた彼はどちらかというと靴下や船の方だろう。そして屋代家当主については、スワンプマンが浮かぶ。それは泥ン子さんという民話からだけではない。何度も繰り返す彼の問題だ。
しかしスワンプマンに足りないのは、屋代覧は生まれ直す度記憶を有しない点だろう。スワンプマンは雷に打たれて死んだ男の記憶も姿もすべてまったく同じ男が泥から出来た場合、同一人物になり得るかという問題。屋代覧は記憶を有さず、そもそも生まれ直す故に姿形も変わる。ただそれでいて幾ばくか残るものがあり、浮かぶものがある。異常を異常と知りながらもなにものかもわからない中で、屋代覧は生きてきた。
そうして、そういう屋代を支えたのが泥野家だ。泥神の恩恵を受けながら、浸食する泥を減らす為、剥がす為に儀式を行ってきた、というのが事件の根本。
どういう理由かは分からないが、屋代家の親族には泥を有する子供が産まれる。正確には、泥を内側に持つ、という形だが。細かい点は特例隊が調べるだろうし、もう山田は関わるつもりなどないが――もし屋代当主を人でないとするのなら、彼ら親族もなにものかわからないと言えかねない程度のものがあった。
屋敷にいた人間は、その泥を多く有する。内側に満ちた泥は、しかし宿主である人間を飲み込みはしない。意外にもそれらはおとなしく――だからこそ死に返りが起こされる。中山は自身の内側にあるだろうものに気づき、それに全てを奪われることを恐れたというのが恐らく真実だ。
人が死ぬことで、泥に体を返す。その儀式を行うことで、泥神に人の形を覚えさせていく。泥神が人を覚えないから屋代は半端に繰り返すのだと言うのが泥野の主張で、そして泥神が人の形を覚え、この世界に降り立てば祝福があるのだと言うことだった。また、泥に体を返すことで、泥神から泥が分譲される。それは屋代の浸食を遅くさせるとも、泥野は信じているようだった。
泥神への崇拝と屋代覧への救済を望む感情はいびつで、山田からすれば歪んでいる。しかし泥野にとってはきっとひとつの正しさで、寧ろまっすぐなものなのだろう。山田はそれを否定する立場だからこそ、屋代に対する救済を別の形で示せないことに固く目を瞑った。
山田は選ぶ。故に、自身の行動が人を傷つけることも覚悟していた。
「あ、っと、電波入ったか」
通知音に矢来が声を上げる。携帯端末に恐らくメッセージがきたのだろう。思考から浮上した山田は気づかれない程度に息をひっそりと吐いた。横須賀は相変わらずまっすぐと前を向いている。
佐藤達の持つ難しい問題を含めて、横須賀には伝えてある。これまでなにも伝えずに来たが、例の問題が片づいてからも勤めると聞いてからは仕事仲間として情報の共有は出来る限りするようにしていた。横須賀はある一点では素直で、単純だ。屋代や親族についても、そして保護した妹の千重についても、すべてに対して生きていたことを喜び、良かったとあっさり安堵する。
横須賀の生への素直な肯定は、山田にとってひとつの救いじみていた。それに救われることが身勝手なことだと思いながらも、山田が行動したことが、山田以外にとっても好ましいことであるという事実が安堵をつくる。
よかった、で思考を止めることは出来ない。けれども同時に、自分にとってはこの結末を選ぶしか無く、自分の望みを忘れないことがさいわいであり、その感情を否定することも不誠実だと山田は考える。
盲信など山田の信念から逆のものはしないが、それでも山田にとっての横須賀は、ひとつの倫理だ。たとえば社会の道義から外れれば、日暮が、警察が止めるだろう。横須賀はもうひとつ、人としての純然たる倫理のような、そういう基準。
思考を止める気はなくとも、もし足がずれたときのひとつの基準は、得難い幸いだとも思う。
「横須賀さん」
ふ、と、固い声で矢来が横須賀の名を呼んだ。先ほどまでの不平不満はあくまでマイペースなものだったはずで、バックミラー越しに山田も後ろを確認する。きょと、と瞬いた横須賀が、「なんでしょうか」と不思議そうに尋ね返した。
尋ね返すだけの間があった、ということだ。
「もし違ってたら気にしないで欲しいんだけど。――
横須賀の手が、ぴくりと動く。それでもきちんとハンドルを握りなおして前をむき直したのは、おそらく意識が後ろに行きすぎてしまわないように、だ。自制するような所作は、返すはずの言葉を先に伝えている。
「板垣、という名字の知り合いは、居ます。大学の時に一緒で、えっと、板垣
「ちょっと頬こけてる、メガネのくせっけで、背ちっさいやつ」
「はい」
矢来が大きく息を吐いた。そのまま視線を落とし携帯端末をタップして、そのあとも顔が上がらない。明らかに知り合いが同じだろうに、偶然を喜ぶ様子も面白がる様子も見えない。
横須賀がハンドルを切る。ややあって、ようやくだ。ようやく、矢来は顔を上げた。
「俺の同僚。アンタと会う約束していたけど、既読も付かないから俺にも一応連絡入れてきた。携帯しばらく見られない可能性があるって」
「え?」
視線がバックミラーに向いて、それから慌てて横須賀は前を向き直した。山田から見て取れる横須賀の表情は素直な困惑。矢来は矢来で眉間にしわを寄せて、もう一度大きく息を吐く。
「あの馬鹿、警察の世話になってる」
矢来の呻くように低く静かな言葉が、やけに響いた。
(第一冊目 第二話「此の度、探偵宿泊に付き。」 了)