台詞の空行

1-2-18)祈りの先の、

 泥野の思考をなぞるように、山田が言葉を投げた。そう、それは確かだ。泥野は笑みを浮かべたまま、傾げた首を反対に動かす。こてん、とした動きは、糸で繰られた人形の滑稽さにも似ていた。

「暴力は終いに相応しくないさ。幕引きはアンタが選ばなきゃならない」

 選びませんよ。そんな言葉がともすると出そうになった。くつくつと泥野は笑う。

「私にはなにも出来ませんよ」

「泥野家は、泥神を繰り返している」

 否定に対して山田が続けた言葉は、断言よりも静かだ。単なる事象の説明に近いだろう。新聞の見出しを読み上げるだけのようなあっさりとした音に、泥野は傾げた首をゆっくりと戻す。

 山田の表情を、泥野は読み取らない。ただ、人間であることは確かだ。

「百戸森に伝わる泥神信仰。信じる人間だけなら問題ない。ただ、アンタ達はずっと、泥神を繰り返す。泥神を亡くせとは言わねぇが、増やすな、繰り返すな、もう忘れちまえ」

 そしてこの人間は、泥野があざ笑う理由を持ち得なかった。もったいないというこれまでの嘆きが消える。泥野は無邪気に、それこそ宝物を見つけた子供のように、一等嬉しそうに笑った。

「彼らは選ばれた証なのですよ。返してさし上げなければなりません

 足を擦る程度ではない。泥野は明確な意志で、扉の前に下がった。開いた距離を山田は埋めない。扉には触れないまま、泥野は天井を仰いだ。

 客人達の部屋は、泥野にとって大切な場所だ。

「死に返りは、正しく死に返りです。あの方々は死ぬのではない。正しい形に返るのです」

「死ぬだろう、人間は」

 山田の声は静かだ。泥野は眉をひそめたまま眉尻を下げた。嘲笑と、憐憫。

「そこまでわかっていて、何故貴方は理解しないのです?」

 素直な疑問は糾弾でもあった。山田太郎は知っている。知らないことをあざ笑う必要はなくなった。しかし、知っているからこそ理解しないことへの嘲笑が代わりに浮かぶ程度に、目の前の探偵は選ぶ先を変えない。

「屋代家及び親族は、泥の子を受け継いでいる。その時点で、普通の人間ではないのに。彼らの体は泥神様のモノなのに」

 やはり、と言うべきか、山田は動揺しなかった。その瞳が揺れていたとしても泥野からは見えないが、しかし鼻を鳴らした山田の態度は泥野の言葉を疑問に思わないことを示している。

「人間の定義について語るのは学者先生の方が向いているだろう。俺はしがない探偵だ。死ぬのをそのまま是とは言わない程度にそこそこ良識的な、ね」

 その見目の割には自己申告通り良識的な判断は、しかし退屈だ。興味などとんと持たないと言いたげな素っ気ない声でありながらも、探偵の追求は変わらない。見目と声からは離れたいびつで人間的な内容に、泥野は苦笑した。それは正しく、苦みによる笑みだ。

 一般的な善性というものは非常に面倒だ。人間は社会を営み、その活動にイレギュラを求めたがらない。病死、事故死、災害死。老い以外で生命が終わる機会はいくつもあるのに、搾取を嫌う。

 優れた死、というものを理解しない。

「ほとんど変わりませんよ。入れモノはそのまま。中身が少しだけ、良くなるだけです」

「たった少し、でそんな選択をしてきたのか?」

 山田の問いに、泥野はついに失笑した。たった少し。しかしそれは、繰り返された。伝承はその為にある。拒絶を許さない絶対性。

 その結果が、屋代覧だ。

「私は屋代家の為にありますから。泥神様の偉大なる力が屋代家にある為に必要なことです。彼らはそもそも末端だ。末端が脳を生かすのは当然でしょう?」

「屋代家の為に、親族が死ねばいいってことか。本当は人間として死ねるのに、殺し続けてきた理由はそれだけか」

 確かめるような声は、静かで、よく通った。二階までには響かないだろうが、やけによく響く。まるでそれだけがこの場所の音のようだ。

 そこまで考えて、ようやく泥野は思い至った。雨の音が凪いでいる。これまでと違う一点の理由を泥野は知り得ない。泥野はいつも、繰り返すだけだった。

「泥野さん」

 山田の言葉に、泥野は意識を前方に戻す。たかが雨だ。そう言い捨てるにはざわつく内心を自覚したが、そもそも雨の必要性を泥野は伝え聞いていない。だから結局、問題である目の前の探偵に意識を向けなおした。

「仕方ないでしょう」

 言葉は、泥野にとってなんの飾り気もない事実だった。雨、泥神。そういうどうしようもなく遠いものを切り離せない程度に、屋代家では常に繰り返されることがある。終いにするということは、屋代覧を切り捨てることだ。泥神の恩恵を人が受けるには、全てこれらは最初から変わらない。

 それに所詮、彼らは末端の泥濘でいねいだ。

「彼らは生まれたときから決まっていたんですよ。外側でしかないんです。にも関わらず、彼らが死なねば返せない。だから死んでもらうしかない。でもそれは死であって死ではありません。死ぬのは人間だけですから

 言葉に、山田が笑った。片方だけではなく、あえて両方の口角をはっきり持ち上げる行為が示す意味を泥野は知らない。知らないことをあざ笑っていたはずなのに、知らないことばかりが示される。

「ああ、十分だ」

 そうして泥野は知らないまま、知り得てしまった。山田が落とした十分との言葉の後、その視線が後ろに動き――そうして視線の先から鳴る、杖の音で。

 床をひっかく杖の音は高く、それでいて這いずる音は布の擦れる音を食い尽くした低音。

「博」

 穏やかな声は、酷く掠れている。泥が落ちる。そうだ、そう。可能性はわかっていたはずだ。あの男は知らないことが多すぎる、と探偵が言った時点で。

 贄である人間が知り得ないことすら目を逸らせない位置にいながら、だからこそ人ごときから隠し続けていたのだ。それが務めだ。泥の子を泥に返す決め事の為だ。

 繁栄と衰退は神にとってどうでもいいことだからこそ、我々が成すべきことはひとつだった。

「十分だよ」

 山田の言葉と同じものなのに、それは絶望の宣告だ。望みを絶つもの。低い音が床すら食い尽くすような、そうしてその端からボロボロとこぼれ落ちる異常さ。

 泥野家は泥神に尽くす。その本質をねじ曲げたのは博だったか、父だったか、祖父だったか。泥野博にはわからない。ただ、もうはじめから、も許されないのだということは理解した。

「すまなかった」

 欲しかった言葉はそれではない。後ろ手で扉を開ける。外に逃げるつもりはない。それでも開けたのは、知るためだった。

 ――雨は、凪いでいた。