第三話 猟奇嗜好者の恋
1-3-1)板垣和真
警察署から出てきたのは、頬のこけた男だ。元々くせっけだという髪だが、おそらくさらに奔放に跳ねているだろう様子と銀フレームの眼鏡の奥で暗いクマの色が男の疲労を伝えている。
「板垣」
「……どうして一緒にいるんだ?」
矢来の声かけに、板垣と呼ばれた男は驚きに丸くした目をいぶかしむように細めた。対する矢来は、マイペースに肩を竦める。
「グーゼン、な。スマホ見てねぇの」
「見れなくなる、つっただろ。参考資料みたいなもんだよ。貸し出し
ため息は多いものの、板垣は矢来の言葉にぽんぽんと答えている。疲労はしても思考が止まるほどではないか、本来の気質だろうか。四白眼故動きのわかりやすい小さい黒目は、面倒くさそうに矢来を見もしない。矢来の隣でじっと板垣を見下ろす横須賀の手が緊張したように鞄の紐を握っているのを見、山田は少しだけ三人から距離をとった。
板垣を見送っただろう刑事は、見間違いでなければおそらく特例隊の
だが、だからと言って山田が情報を得られる立場かというとそれは別だ。山田自身が情報を持ち得ずに関われるほど刑事達は軽くないし、下手に警戒されるよりも近づかない方が面倒がなくてすむ。
「しばらく自宅待機。仕事任せてワリィけど急用は無いはずだし、なんかあったらパソコンにメールくれ。そう言うわけだから横須賀、聞いたとは思うけど、ワリィけど約束は無しだ。スマホ戻ったらまた連絡するから――」
「話せないことなのか」
珍しい、と言えるだろう。固い声で横須賀が板垣の言葉を遮った。少し目を丸くした板垣は、ぎゅっと眉をひそめて息を吐く。
「話すっつってもどうこうなるもんでもねぇし。正直どうしようもないからな。なんつーか、ちょっと普通じゃ手に余るんだよ、警察だからとかそう言うんじゃなくて。お前が探偵事務所で働いてるのは聞いたけど、こんなの依頼してどうなるもんでもないっつーか」
「普通じゃ手に余るなら丁度いいんじゃねーの。山田太郎案件方面なら余計ちょうど良い」
早口で言い切る板垣に対し、矢来があっさりと言ってのけた。不審そうに板垣が矢来を見、ぱちくりと瞬いた横須賀はややあって振り向いた。板垣の視線が、山田に向く。
反射で山田が眉間に皺を寄せたのと、矢来が山田を顎で示したのは同時だった。
「噂の山田太郎。横須賀サンの上司だってよ」
「……は?」
あ、面倒なことになる。素直な山田の直感は、板垣の怪訝な声で確信となった。
* * *
机の上に出したままだった本を横に置くと、板垣はため息を付いた。入り口側に座った山田だけ飲み物は無く、横須賀と板垣の前に置かれたコップには茶が入っている。
一応気遣ってきた板垣に、水すらいらないと言ったのは山田だ。他人の家ほど落ち着かないものはなく、そもそも招かれたと言っても山田はあまり踏み込むつもりもない。
そしてそれは、おそらく板垣も同じだ。無理に山田に飲み物を勧めることはせず、横須賀の視線に何度か頭を掻きながらため息を付いた姿は少し投げやりにも見える。
「矢来のこと、真に受けなくてもいーんだけど。しばらく自宅待機で俺も待ちだしさ」
「でも、警察に呼ばれたんだろ」
「終わった終わった。次必要になるなら弁護士。山田太郎先生を煩わせる必要ねーっての」
もーめんどくせー、と唸る板垣を、じっと横須賀が見つめている。壷の件でやりとりしたときに横須賀が漏らした、友人だったんだろうかという疑問の相手が板垣だというのは山田も聞いた。実際どのような関係かまでは分からないが、敬語ではなく常体で話す横須賀の物言いは珍しく横須賀らしくない。
これまで見ていた範囲が狭いのもあるだろうが、横須賀の言葉選びはどちらかというと敬語でなくとも柔らかい。相手を伺い見、言い切るには足りないが寄り添うような言葉選びが横須賀の性質を表していると言えるだろう。だが、その言葉選びが板垣に対しては随分とはっきりしたものであることが山田には少し新鮮でもあった。
「せっかく久しぶりにって誘ってくれて嬉しかったけど、タイミング悪かったわ。また今度頼む」
「今度はいつ」
「しばらくして落ち着いたら。スマホ戻ってオマワリサンの話聞いて、そっからだなそっから」
「板垣」
低い声が、短く名前を呼ぶ。ともすれば鋭いだろうその眼光に見据えられても、板垣はひるむ様子を見せなかった。ただその四白眼を面倒くさそうにそらして、舌打ちをする。
「しつけーぞ横須賀」
「聞きたくないなら、黙る。けど、今言いたいことが多くある」
板垣の言葉に、静かに、ゆっくりと横須賀が宣言を並べた。逸らされていた四白眼が横須賀に向き、一度山田を確認し、それからもう一度横須賀に戻ってまた逸れる。
響いたのは大仰なため息だ。
「待ってろ、紙出す」
「うん」
板垣が立ち上がりケース棚に向かうと、ようやく横須賀は少しだけ息を付いた。緊張しているのだろうが、山田は横須賀に手を貸すつもりはない。横須賀と矢来はどうにも山田の介入を望んでいるようであるが、山田からすれば板垣の態度が一番道理に適っていると言えた。
はっきり言って、警察沙汰になるような現状は山田の手に余るのだ。太宰コーポレーションというツテがあったところで、さほど協力な武器にはなり得ない。なぜ警察に疑われているのかはわからないが、その点から考えるならまずは弁護士が一番だろう。疑惑の元がどこかにいってしまっただとか探し人が必要となれば警察だけでなく他からも手を伸ばすのはまあ心情的には理解できるが、山田のこれまでの仕事は探偵と言うには少し浮いている。
山田自身目が良くないので確実とは言えないが、見間違えなければ特例隊案件ではある。そういった点からは、確かに多少はなにかできるかもしれないが――しかし、山田の仕事はあくまで調査であり、警察の仕事以上は本来ほとんどないのだ。屋敷の件だってそうだ。あれはほとんど悪手の悪手。屋代の人柄にベットしてはったりで駆け抜けたような、誰かが聞けば眉をしかめられるだろうと分かっているもの。あんなのが探偵などと言ったら、他の探偵に失礼だろうというのが山田の自認だ。
あくまで会話に入るつもりはない、のスタンスのまま見守っていると、板垣が紙とペンを運んできた。紙はA3サイズのもので、複数枚重なっているのがわかる。そうして横須賀の前に縦長に置くようにすると、板垣はその前に座り直した。
横須賀は二十三歳。同い年だという板垣も含めて、二人は去年までは大学で机を共にしていたはずだ。ゼミが違えどもたまに声をかけてくれたのが板垣、と聞いている。だからある意味ではそれほど珍しくないのだろう光景は、二人を知らない山田にもなんとなく馴染んで見えた。
ボールペンのノック音。それから、トン、と紙を叩く音。
「準備いいぞ」
「うん」
す、と息を吸い込んで、横須賀が口を開く。
「板垣が変だと俺は思う。弁護士って聞いて俺は不安になる。なのに板垣は、そんなことどうでもいいって言う」
板垣がペンを走らせる。変、弁護士、どうでもいい。どうでもいい、に丸をした板垣が、さらりと「事勿れ」を書き加える。
「別に悪いことしたわけじゃねぇからな。ことなかれ主義って奴。フツーだろフツー」
「板垣は神経質、って自分で言ってた」
変、の隣に横須賀が神経質と書き加える。ぐ、と口の端を少し引き結んだ板垣は、は、と空気を吐き出すようにして笑った。
「全部が全部神経質じゃねぇよ。俺はそれなりにどーでもいいことはどーでもいいんだよ。高校の部活連中が聞いたら納得するね」
「警察沙汰がどうでもいいって言えるの」
「ちょっと参考資料を提出しただけだ、内容知らない癖にしつけーぞ」
参考資料、という文字が書き加えられ、線が一本引き出される。
「参考資料ってなんの」
「箝口令」
「警察が?」
「どうだっていいだろ、俺はもうなるようになるのを待つんだよ。矢来とお前があんまり言うから家に入れたけど、そう気にすんなよ。山田先生の時間がもったいネェだろ」
板垣の言葉に、横須賀が紙に文字を書き加える。横須賀は元々同時に複数の作業をすることが得意ではない。そういう意味では山田からすると奇妙なやりとりは、しかし最初に感じた馴染んだ様子と同じくさほど違和感にはならなかった。
「事件への心当たりは」
「無い」
「無いなら矢来さんに連絡をなんで取れたんだ」
先に書いた事件への心当たりという文字の隣に、無い、という文字。横須賀の質問と一緒に疑問符が書き加えられたが、先ほど書かれた参考資料という文字の隣に板垣が『協力』と書き加える。そして小さく押収と追加し、そこにはバツがつけられた。
「あくまで参考資料、協力ってだけだからな。それだけ打たせて貰ったんだよ」
「データが必要なだけだったってこと?」
「そーそー」
「じゃあ、返却がいつかわからないってのは変じゃないか? データをとるだけで時間かかるものじゃないだろ。協力しているんだからパスワードがわからないわけでもない。警察署に行って、時間がどれだけかかるかわからないって連絡して、変だろ」
板垣がノック部分で頭を掻いた。面倒くさそうに吐かれたため息は露骨だが、横須賀はペンを止めない。
「あくまで参考、っていうのにそもそも板垣は自宅待機だ。言ってることと時間がおかしいって感じるのは俺が詳しくないから? それに、誤魔化すなら板垣もっとうまくやるだろ。さっきから言ってることがあっちこっち言ってて、そのくせ話題が変わらない。なにか気になっている、んじゃないか」
文字と言葉が一緒に動く。横須賀は考えながら話すことが得意ではないが、このやりとりは逆の意図があるのだろう。話しながら考えているのだ。その為の二人の紙で、手段だ。板垣の為かどうかまではわからないが、言葉の発露が遅くなりやすい横須賀にとって馴染んだペンを使わせる手段。ならばつっけんどんではあるものの板垣に会話の余地はあるはずで、横須賀の言葉は山田からしても見当違いではないように思えた。
そもそも、平時の言葉選びが穏やかな横須賀がこれだけはっきりとした言葉を使うのも珍しい。板垣の粗野な言葉選びから考えるに、おそらく紙自体は横須賀に合わせた手段であり、その中でも横須賀は板垣の真似をしようと少しでも言葉選びを近づけているのだろう。じっと見つめる横須賀に、ようやっと板垣が向き直った。
「俺が言ってどうなるもん、でもねぇんだよ」
「山田太郎案件でもないのか」
「山田太郎案件だけどよ……」
横須賀の言い方はおそらく矢来の言葉を使っただけなのだろうが、がくりとうなだれた板垣にまで言われるとなんとも言い難く山田は無言で腕を組んだ。固有名詞のように言われているが、現在山田はオカルト事件を選んではいない。過去の傾向から言われることは仕方ないとはするものの、そこまで言われるほど目立ってきたつもりもない。
外見の強烈さは選んではいたが、出版社の人間に変なカテゴリをつけられるほど目立ってきたつもりはないのだ。ないが、現状そう言ってすみそうもない。
少し反省をしなければ本当にオカルト以外の依頼がこなくなるな、と思いつつ、確実になぜか受ける羽目になりそうな現状に山田は息を吐いた。
「依頼を受ける筋合いはネェし、弁護士案件なら俺は手をださねえぞ」