10-18)おしまい
ガン、と巨体が倒れる音。のしかかる平塚の下、うめき声が漏れる。
「馬鹿な真似はするなよ山田太郎!」
「残念ながら私は小市民でしてね、素手でどうこうは無理ですよ。そこの縛られている男ですら貴方が止めるだけの猶予はあるでしょう。そもそも正直に言えば近づきたくも無いくらいです」
両手を上げて山田が答える。そうして大仰な所作で自身の敵意の無さをアピールしてから、倒れていた椅子を持ち上げて深く腰掛けた。腰掛けながらも、山田はじっと横須賀を見下ろす叶子の様子だけ気を配る。
叶子は不思議なくらい、始終穏やかだった。
「君、危ないから」
「おにーちゃん」
床にうつぶせに押し付けられた横須賀の傍に、叶子がしゃがむ。片腕を背中に捻り上げられながら痛みに声を上げる横須賀に対しても、やはり声は穏やかだった。
平塚が横須賀の両腕を背中で掴む。床にぶつかった時に受け身をとり切れずぶつけたようで、右頬から顎にかけて少し赤みが見えた。
「いっしょにいけないね」
「一緒に?」
叶子の言葉に平塚が困惑したように呟いた。ひゅ、ひゅ、と呼吸を整えながら、横須賀が横目で叶子を見上げる。何か言おうと動く唇が、しかしうめき声で形にしきらない。
「刑事さん、そいつはもうなにもしないですよ。目的が終わったんだ」
「……貴様の代わり、と言っていた」
「俺が選択したことをそいつは止められないから代わりを選んだ。逆に言えば、俺が選び直せばそいつは終わるんだ」
ちらりと桐悟を一瞥して、山田は笑った。自嘲というにも情けない笑みはあきらめのような色も含んでいて、平塚が怪訝そうに眉をひそめる。
横須賀を見る。痛みに目を閉じ耐える姿は、先ほどの底知れなさとは無縁だ。
「俺の二十三年分に代わる価値があると考えてたとはな」
は、と笑い捨てた山田の言葉に、平塚が少しだけ手を緩めた。詰まっていた息を吐き出して、横須賀がひきつった顔で笑う。
「山田さんは、優しい人です、し、俺は、ワトスン、でしょう?」
「とんだ相棒だ」
はは、と山田が声に出して笑った。今度の笑いは随分とすっきりしたものだった。本当に、ただ笑うしか無い。
おそらく山田の二十三年に対し、自身の存在一つだけで本当に見合っていると横須賀は思っていないだろう。それは山田の性格、本質を加味した故の判断だ。逸見五月は他人を踏みにじる覚悟を持たない。山田太郎は他人を踏みにじる様で、結局切り捨てるだけで終えている。そして覚悟して切り捨てようにも踏み込みすぎたワトスンを――それだけ自身が関わり引き込んだ人間を捨てられないのだと、横須賀は判断したのだ。
自分の価値を低く見積もりすぎず、かといって押しつけるには足りない。最後の最後、縋る言葉――『|俺はワトスンですから《おれをえらんで》』を無視するには、山田のケジメは理屈に合わなかった。凝り固まった感情を肯定するには、多くが足りない。
どうしようもない。手の震えも異物も、結局人を殺さずに済んで安堵するような心地も何もかも。それらを笑いに変える山田をいぶかしむ平塚の下で、横須賀が顎を持ち上げて叶子を見る。
「ないない、じゃないよ」
「うん」
「叶子ちゃんも」
「叶子も?」
横須賀の言葉に、叶子が不思議そうに首を傾げた。二人の会話は端的でわかりづらい。それでも訥々とした言葉は、叶子の為に選ばれている物だ。思考を流し並べるのでは無く、対峙する相手の顔を見、考え、選び、並べる不器用な文字。
「俺の名前をつけた人が、どう考えていたのか、俺にはわからない。もしかするとないない、かもしれない。でも、俺はハジメ、だよ。だから叶子ちゃんも、叶子ちゃん」
「叶えないといけないのに?」
「叶えなくても、叶子ちゃん、だよ。呼ぶから、呼ばれたら、名前」
「よぶ、の」
平塚がゆるりと腕をほどく。うう、と小さく声を漏らした横須賀は、それでも痛みに顔を伏せること無く飲み込んで、そのまま「うん」と頷いた。
「かくれんぼ、名前があった方が見つけやすい、し。会ったときに俺、お名前呼んでるでしょ?」
ひどく当たり前のことだ。かみさま、と小さく呟いた叶子が、眉を下げる。
「かみさまはよばない」
「うん」
「おにーちゃんはいっしょにいけない」
「うん」
「おにーちゃん、よぶ」
「うん」
「おにーちゃん、きょーこの?」
それまで首肯するだけだった横須賀が、叶子の問いに眉を下げた。横須賀は平時の人の良さそうな下がり眉のまま、首を横に振る。
「叶子ちゃんのじゃなかった、ごめんね」
「おじちゃんの?」
「違う。おじちゃんのだったら、多分俺はここにいないから」
叶子が首を傾げる。背中から平塚がゆっくりと下りて、横須賀はようやく半身を起きあがらせた。
「俺は、俺だよ。ヨコスカハジメ。じゃないと、苦しいから」
きょとりと叶子が瞬く。ぱちりと弾くように動く睫は長く、星がその中で何度も揺らぐ。
「叶子ちゃんは、叶子ちゃんの。叶えなくても、叶子ちゃん。なりたくても、無理だよ」
誰のものにもなれない。ともすれば残酷な否定は、しかし随分と優しかった。
ぎゅ、と、叶子の眉が寄る。
「ごめんね、酷いこと、したし、言った。神様のところに、一緒に行かないのに。俺は叶子ちゃんのじゃなくて、山田さんのでもなくて、俺は勝手だから。だからってしちゃいけなかった、ごめんね」
「叶子、いいこじゃない」
横須賀の謝罪に返ったのは、返事というにはずれていた。眉根を寄せた叶子の星空が、ぐらぐらと揺らいでいる。
「いいこじゃなくても、かなえなくても、叶子、は、……」
「叶子ちゃんは、叶子ちゃん」
途切れかける言葉に、横須賀が声を重ねた。うん、と頷いた叶子の顔が上がらない。
「ごめんなさい、したから、ハジメおにーちゃん、いいよ。ゆるしてあげる。だから」
また、おなまえよんで。呟く叶子に、横須賀は頷いた。へにゃり、と叶子が笑う。泣きそうに煌めく夜空は、ゆらゆらと水の中で笑っているようにも見えた。
「……あー、と、だな」
んん、とやや大げさな咳払いに、横須賀が平塚を見る。叶子は特に気にしないようで、座り込んだままの横須賀の手を取って、指を撫でていた。
山田が先を促す様に顎をついと動かす。
「話しているところ悪いが、応援が来る。そこの男はもとより君たちにも移動してもらうぞ。正直やらかしたことはやらかしたことだ、それなりに対処させてもらう」
「すみません」
ぺこり、と横須賀が頭を下げる。んん、ともう一度咳払いをして、困った様に平塚は後ろ頭を掻いた。
「まあ、君の行為に叱責するのは今ではない。弁明は後で聞こう。立ち給え」
「は、い……えっと」
返事をしてから、困ったように横須賀は平塚を見、山田を見た。ぱちくり、と瞬く平塚から手元に視線をやると、う、と小さく呻く。
とん、と山田が立ち上がった。
「ワトスン言いきるわりに覚悟が足りねぇんじゃねーか」
は、と馬鹿にしたように山田が言葉を投げる。語調は随分と呆れを含んでいて、にもかかわらずその表情は随分と柔らかかった。平塚の視線が山田に向く。
「? 何を言って」
「腰抜かすほどビビるならやめときゃ良いんだ」
平塚の問いに答えるつもりなど無いというように、山田は横須賀の方を見て笑い捨てる。対する横須賀は困ったように微苦笑を浮かべていた。
「大丈夫、だと、思ってました、から」
「の割にしゃっきりしねえな」
「頑張った、ん、ですけど」
へにゃり、と微苦笑から気の抜けた笑いに変わる。山田が怪訝そうに眉をひそめた。
「向いてなかった、みたいです」
は、と小さな息が漏れた。それは多分山田のもので、苦笑したのは平塚だ。
「おにーちゃんへたくそ?」
「違いねぇな」
トドメの様な叶子の言葉に、山田が馬鹿馬鹿しいとでも言う様に笑いながら同意した。
引きつった恐怖も後悔もどうしようもない罪悪も、なにもかもきっと変わっていない。それでも。
「立てよデカブツ。まだ付き合って貰うことは多いんだからな」
「それはこちらの台詞なんだがな山田太郎!」
抗議する様な平塚の言葉に山田は肩を竦めた。飄々とした様子に平塚が唸る。
差し出された小さなその手に、大きな手が重なった。
「お付き合い、します」
穏やかに笑う横須賀と終わらせなかった結末は、それでも多分、選んだ結果なのだ。
だからきっとこの事件はおしまいで、これからのはじまりだろう。
探偵山田太郎の追いかけた事件は、この日確かにひとつの区切りを迎えた。
(第十話「なまえ(後編)」 了)
(リメイク公開:)