台詞の空行

10-17)選んだ名前

「……やめなさい」

 細い声は平塚の生来のものだろう。いつもの作った舞台役者の声には足りず、繊細なその本質を吐き出す音。

 その音を拾い上げる筈のお人好しは、ただまっすぐと見下ろしている。節ばった大きな手は長身に見合ったもので、叶子のような細い首は簡単に隠れてしまう。

「横須賀さん」

 名前を呼ぶ声は落ち着いている、はずだ。山田は自身を律することに注意を払ってきた。思考を繰り返し、行動を繰り返し。感情は悪ではない。しかし激情は判断をずらすことがある。その感情を露出する時を誤ってはいけない。

 山田は呼吸を整えようと細く繰り返し、指先に意識を向けた。ナイフを握りすぎて感覚がなくなりそうな手は、それでいてはっきりと異物を主張している。固くなりすぎた指先はまるで曲がったままの指先が当然というように固執して動かないまま、無機質な感覚がそこにあり続ける。

 見下ろすその顔を見ようと、いつも以上に山田は背筋を伸ばした。平塚は横須賀が言うように臆病なきらいがある。しかしそれを責めるのは愚だ。実際問題、この状況は厄介なのだ。山田は明らかに凶器を持っている。その対象となる男と少女がいて、男は今身動きが取れない。殺さないと言ったところで口約束。一番危険なものに気を配るのは道理だ。

 さらに面倒なのは、対象となる少女が横須賀の手元にいることだ。叶子は横須賀から逃げない。子途という理解できないものの通り道であるのに以前見せた腹を膨らませるような兆候を見せる気配もなく、横須賀から逃げようとする様子もない。

 横須賀は凶器を持っていないが、ある一面で言えば横須賀自身が凶器とも言えるだろう。横須賀が平時申し訳なさそうに身を縮こまらせるその体自体が、暴力じみている。決して暴力に使わなかっただろうその体躯は、はっきりとした危険でもあるのだ。

 大きさはそれだけで武器だ。横須賀が宣言するように首の骨を折ることは流石に難しいものだとして、しかしあの体躯で、全力で叶子の細い首に圧を加えたとしよう。――その結果がどうなるのか、軽率に試すことは出来ないのが道理だ。

 平塚の判断として言えば、山田と横須賀という問題に対して救援が来るまで様子を見るしかない。それはこの状況で最小だが最善に近い。

 しかし山田にとって救援は、もうどうしようもないことだ。諦めなければならないということ、それでいて、諦めるに足りないこと。横須賀に言われなくても山田ははっきりと自覚している。二十三年。固い決意と執着によって求めたケジメの先。それが果たされない限り、山田は納得しない。出来る訳がない。逸見五月として生きた時間よりも長い時間をかけて追い求めたケジメが、たかだかそれだけで機会を失うなんて。そもそも叶子をどうできるのだ。終わらせなければならない。逸見藤悟が巻き込んだ太宰桐悟、太宰桐悟が巻き込んだ逸見咲子、そして逸見咲子が殺した逸見裕也。事件が終わった後太宰桐悟が求めたものに巻き込まれた新山、新山が招いた事件。

 数珠つなぎのように、多くの事件があった。そのすべてを山田は山田の責任と言い切ることはできないが、それでも始まりは逸見藤悟だ。慕った兄が被害者だと言い切れず、しかし加害者だとも言葉にできない。そういう中でも、はじまってしまったことをなかったことになど出来なかったから山田はここにいる。桐悟の存在に怯えながら、それでも選んできた。自身は何も助けられないと切り捨てた罪も、非道も覚えている。だからこの手からナイフを降ろすにも、固すぎた。

「俺のケジメは俺がつける」

 無理だとは、わかっている。それでも説得するため絞り出した言葉に、横須賀は指先に少しだけ力を込めた。

「駄目ですよ。俺が丁度いい」

「これは俺のケジメだ」

「だめです。だって貴方は、求められている」

 静かな言葉は、しかしはっきりとしていて否定を許さない色があった。ぐ、と山田が唇を噛む。横須賀は小さく息を吐いた。

「俺は貴方にいてほしい。貴方の未来があってほしい。俺だけじゃない。山田さんが居てほしいと求める人はいるんです。それなのに、山田さんは全部なかったことにしようとする」

「ケジメだ」

「だから俺がやります」

 はっきりとした言葉は、それまでの穏やかさよりも口早に山田の言葉尻をかすめた。山田の眉間にしわが寄る。

「……俺が丁度いいんです」

 横須賀は静かに言い切った。言わせてはならない、という震えはしかし止める言葉を見つけられずに声までには成り得ない。

 山田は知ってしまっている。横須賀の過去を。それでいて山田は知らない。横須賀の現在を、知るには足りない。山田が知る横須賀の現在には、常に山田がいるのだ。

「山田さんは求められている、待っている人がいる。その人のところに山田さんは帰らなければならないんです。俺は、無い」

 はっきりとした言葉は、低く、暗い。穏やかさよりも強い低音はよく通り過ぎている。

 無い。その言葉を肯定するものを、知識として山田は知っている。聞いてしまっている。

「わ、たしは」

 平塚のひきつった声が響いた。は、と山田がそちらを見れば泣きそうな顔がある。情けない顔のまま、それでもまっすぐと平塚は横須賀を見ていた。

「私は君の罪を好まない、グレさんだって、今日来たのはそれもあるんだ、あの人が言った、横須賀君を気にしておけ、と」

「刑事さんは山田さんの罪だって好まないでしょう」

 おだやかに、諭すように横須賀が言葉を返す。う、と怯んだ平塚は人が良すぎるのだろう。説得に向いているかといったら、ある一面では向いていて、ある一面では向いていない。今は、後者だ。

 そもそも目の前の男はすでに考えて選んでいるはずだ。短絡的に行動できる人間ではない。説得するには、余剰が足りない。

「人を殺す、ってことは、いろんな事があるんです。行う人も行われる人も。だから駄目です。過去も未来も全部、全部怖い。でも俺なら、俺は誰もない。最初から、ずっと。そいつだから大丈夫です。この子が出入り口としてしか存在しなかったのだとしたら、そいつはきっと終わらせるために存在した。山田さんと違うんです。山田さんは駄目です、選ぶ人がいる。そいつなら、終わるだけだ」

 横須賀の言葉に、叶子が笑った。晴悟から聞いた言葉が頭の中でぐるぐると廻る。横須賀一は選ばれなかった人間だ。見守られながら誰かが誰かを選ぶときに落ちていく。

 だから、いや、なら、

「なんでそこまで君がしなきゃいけないんだ」

「大丈夫です」

 横須賀の言葉は答えになっていなかった。問いを吐き出した平塚の眉間に皺が寄る。いぶかしむ表情に、横須賀は大丈夫、と繰り返した。

「俺はワトスンですから」

 選ばれなかった人間が縋った言葉。凝らした目、歪んだ視界。その中ではっきりと理解する。

 横須賀一は山田太郎を見据えている。

(ああ)

 山田太郎はおそらく、他人が思うよりも多くのことを知らない。横須賀一という人間について、全く知らない。横須賀が山田に追求した言葉のひとかけら分も知っているかどうか。

 山田が伝え聞いた過去では答えにならない。共にいた時間は横須賀を知ることがあっても探るには足りなかった。何故か、なんて単純だ。探らなくて良い人間を側に置いた。山田の意識は過去にあった。横須賀はずっと、そこで山田を見ていた。それ以上は必要なかった。

 知らない男は、しかし山田の言葉を選んだ。真っ直ぐ見据えるその目は、山田の側に常にあった。

 山田の視線が落ちる。視界に入るナイフは無感情だ。無機物なのだから当然とも言えるが、しかし山田は笑った。映る絵を目視しきれなくとも、見えてしまったからだ。

「悪いな刑事さん」

「なん、」

「気張ってくれ」

 カチン、と大げさな音を立ててナイフを鳴らす。見開いた平塚の目と、じっと見下ろす横須賀の目。ああ、馬鹿馬鹿しい。引きつる喉とざわつく背筋とこめかみの痛みは、どうあがいても存在する。馬鹿馬鹿しい、馬鹿馬鹿しい、馬鹿馬鹿しい。繰り返しながらも、もう、それでいいのだと思う。

 口車に乗るのも、悪くない。

「っ!」

 畳んだナイフが手のひらから落ちる。それを平塚が追いかけるより早く、山田は平塚側に蹴飛ばした。平塚の足が軽くナイフを弾き、姿勢を低くした平塚はそのまま左手で拾い上げる。山田が見据える先で横須賀は右足を引いた。その足に従う様に半身だけ下がった叶子の首に添った指先は相変わらずで、山田は口角を歪める。

 もうなにも握っていないのに、右手はまるでその形を覚えたかのように曲がったままだ。

 選ばされた。それでも、確かに選んだ。