10-16)遠くの顔
見上げているのに、その顔が見えない。単純な事実に背筋が震える。
なんて事はない、横須賀と山田の背丈が違いすぎるのだ。横須賀の身長は一九四センチ、だったか。四〇センチ以上違う上背でも平時はその顔がよく見えた。理由は難しくない。あの猫背と覗き込むような癖が横須賀一の心情をまっすぐ伝えていたからだなんて、考えずともわかる。
目を懲らそうとするのに、視界は滲む。サングラスの中で、眼球に熱がこもる。
山田太郎になったことによる不利益は少なくなかった。その内のひとつとしてあげられるのは視力の低下。逸見五月のどちらかというと穏やかに分類されるだろう目を隠すサングラスは濃度が高く、日の高さに関係なく一日中つけた故に元来良かった視力はあっさり低下していった。
開いた瞳孔が得る情報量は自覚するよりも多いのだろう。調整のろくに出来ない環境でぼやけた視界をそのままにすることは不便だったが、見えすぎてもアチラに囚われる。そういう言葉で自身を慰めて、山田はそれで良しとしていた。
けれど今、見えないということが山田の喉を圧迫する。
「考えたんです。山田さんが求めることと、結果。俺はその結果をどうしても見たくなくて、でも山田さんの目的ははっきりとしていて。それを止める術を俺は持てません。山田さんが選択したことを、無理矢理なくすことは出来ない」
語る声は静かで、朗々としていた。横須賀は言葉を選びすぎるのか、よくつっかえるような話し方をする。それでいて常にぐるぐると考えすぎるその思考をそのまま吐き出すように並べるときの言葉は意外にも饒舌とも言えるような形になることを、山田は知っている。今は少しだけ途切れるものの後者に近く――山田の思考を横須賀の低い声が撫でていく。
「――どうせ止められないなら、俺が代わればいい」
声が出ない。
「やめなさい、横須賀君」
静かに平塚が名前を呼ぶ。その神経を圧迫しない様にひそめられた声に、横須賀は優しく笑んだ。おそらく、笑んだはずだ。
「大丈夫です、俺は出来ます」
「その選択はおかしいだろう」
「おかしくありません。山田さんは、選びました。その選択はきっと俺にはどうしようもできない。山田さん自身が選んだことは山田さんしか変えられない。なら、俺も選べば良いんです。俺も、選んだだけです」
叶子の首の前で重ねられた指先は、力があまり入っていない様に見えた。それでも叶子は動かないまま、ただじっと黙している。叶子は横須賀を所有物のように言う。だからか。しかし横須賀の所有物では無いはずだ。ぐずり。ずれそうになる思考に山田は口内を噛んだ。
手の中の異物が重い。横須賀とは逆に白んだ指先を、見ずとも山田は自覚していた。震え落ちそうになる物から手を離すことも、奪われることも選べない。そのくせ目の前で起きていることを山田は是と言えない。
言えるわけなど無いだろう。山田のケジメは山田のもので、それを奪われるわけにはいかないのだ。だから本当は横須賀だって置いていこうと思った。横須賀が叶子に自身を重ねていると、山田は理解していたからだ。
だというのに、何故今横須賀はその重ねる先である少女の細い首を覆い隠すのか。思考に悲鳴のような感情が重なりかけ、それでも冷静な思考は記憶を改竄などしない。
確かにあの日、横須賀はワトスンであろうとした。山田を選ぶことを示していた。その意味を、可能性をみなかったのは山田で――しかし横須賀一という男が選ぶにはあまりに歪な状況に、横隔膜がひきつる。
「俺が選んだことは、俺のものです」
「……最初から決めていたのか」
なぜ、どうして。感情で重ねたくなる問いを飲み込んで、山田が呻いた。はい、と頷く横須賀の顔は相変わらず見えない。静かな声だ、とだけわかる。引きつりもせずただただ穏やかな肯定は酷く優しい。本当に、酷く。
「俺、一生懸命考えたんです」
素直な子供が教師に誇る様な声。顔色を窺わない声が今落ちることは、皮肉に思えた。ひゅ、と平塚の呼吸が揺れる音がする。
「山田さんがしてしまうことは一番苦しいと思いました。だからそれを止めるには人が必要だとも。多分俺は、出来ないから」
「だから、私に連絡した」
「はい」
横須賀の言葉を引き継ぐ様な平塚の言葉に、横須賀ははっきりと頷いた。穏やかな低音は、よく通る。
「刑事さん達のことは、山田さんから少しだけ聞いていました。特例隊の方があまり多くないこと、特殊なお仕事であることも平塚刑事と山田さんのお言葉でなんとなくですがわかっています。そして平塚刑事が慎重な方だということも、お話しして俺は知っている」
見えない表情が原因か、はたまた伸びた背筋が原因かはわからない。その声なのか、話す調子なのか。どれもが遠く、しかし対峙する男は横須賀一である。
支離滅裂だとか、感情の激情でぶれたものもない。寧ろ静かすぎるくらいで、まるで文字を読み上げる様に一辺倒の優しさだけが転がっていく。
「事件の現場と、その先の話。俺が濁すだけでも平塚刑事は真剣に聞いてくださいましたし、重要な場所という言葉に小山刑事と松丘刑事の二人がそちらを選んだ。特に何も無いんです、といいながら伝えたこちらには、念のため平塚刑事だけで。急なのに一人できてくださって、本当に良かったと思っています」
「私が君を止めるとは思わないのか」
問う時点で、その可能性は殆ど無いだろう。山田の判断をなぞる様に、横須賀はあっさりと頷いた。
「山田さんが選び続ける限り、それはあり得ません。山田さんは太宰桐悟さんに対するために道具を選びましたし、今持っているナイフが答えでもあります。山田さんは自身のケジメの為に今を逃すことを肯定できない。山田さんの体格でなにも持たないことは選ばないことになってしまう。
そして平塚刑事、貴方は以前俺に教えてくださいました。貴方はわけのわからないものが苦手だと、そう言った。恐怖は慎重さでもあります。太宰桐悟さんがそこにいるのに、ナイフを持った山田さんから貴方が離れられるわけがない。山田さんに動けば俺から意識はずれる。直接的な脅威を持つ山田さんを貴方が無下にできるわけがないことはわかっていました。今この状況が答えです」
山田のナイフの背が、脚を引っ掻く。いつのまにか随分と引いていた手に山田は顔をしかめた。ざりざりとしたノイズのように横須賀の言葉は連なって、それでいて全部本当はクリアだ。まっすぐとした、意図のはっきりとした言葉。
山田の選択を繰り返し告げる意味を考えないわけではない。こめかみが痛む。それでも過去が、山田の背を引っ掻く。
「幸い、俺は大きいですから」
声はひたすら静かだ。背を丸め小さくなる青年の言葉にはあまりに違和のある言葉が、ただ事実を告げるように落ちる。
「平塚刑事が山田さんを気にする限り、大丈夫です。先に山田さんをどうにかしてからと思っても、多分」
首を折るくらいなら、できます。
穏やかに落とされた言葉に、平塚の顔から血の気が引く。顔に出やすい刑事を揶揄する言葉を、山田は持たない。招いたのは山田だ。判断を誤ったのも、山田だ。