10-14)当たり前の話
「藤くんをかえしてあげるんだよ。ひとりぼっちじゃさみしいでしょう? ずっとずっと、かえさなきゃっておもっていたんだ。藤くんとさっちゃんは一緒だ。たっくんも僕も、藤くんもさっちゃんも、だから僕は、藤くんを返さなきゃ、泣いてほしくないんだよ、ねえ、うれしいよね、だいじょうぶ、安心して。さっちゃんにかえしてあげる」
「……兄は」
ぽつ、と漏れた声は少し震えていた。さり、と床を滑る横須賀の足の音を消すような呼気が落ちる。床に吐き捨てるぎりぎり手前の音に、桐悟が不思議そうに瞬いた。
「すみません、少し……いろいろと驚いてしまって」
「うん、ようやくだもの、びっくりしちゃうね。もっと早くに教えて上げられたらよかったんだけれど、さっちゃんずいぶん違ってたから。わかんなかった、本当びっくりしちゃったんだよ。でもよかった、さっちゃんも藤くんをかえそうとしてたんだよね、すごく遠回りになっちゃったけど、ようやく一緒、一緒だ。今度は失敗しない」
桐悟ははっきりと言い切った。支離滅裂にも思える言葉の羅列を本当にするような言い切りは真っ直ぐ山田に向かっている。
ひたすら優しく、甘く、身勝手な言葉だ。逸見五月を思うのに、逸見藤悟を求めるのに、あまりに薄気味悪い物を求めている。
そもそも逸見五月がいなくなったら、逸見藤悟は誰にかえされると言うのか。
「貴方の神様は、なんで以前は成功させなかったんでしょうか」
「僕がうまくわからなかったから。ごめんね、びっくりちゃったよね」
桐悟はそこで眉を下げた。申し訳なさそうな表情に悪意はない。
多分、だからこそ一等薄気味悪い。
「僕と藤君が神様に会いに行ったとき、藤君は知りすぎて、考えてしまったんだと思う。僕は考えなかった。知った神様が全てで、藤君はそうじゃなくて。おしゃべりができなくなっていた。だから神様は藤君を先に逸見さん家に帰したんだ。神様は僕にとっての藤君を知っていたから、上手にお願いをすれば治し方を教えてくれる、そう言った」
訥々と言葉が落ちる。申し訳なさそうに伏せられた長い睫がその虚のような瞳を隠すようだった。蛍光灯の光が睫に少し反射して、虚が震えたようにも見える。
けれども次に持ち上がったとき、それは水に歪んだ月の形をしていた。弓なりのそれが、山田を見ている。
「神様は神様を呼ぶ方法を教えてくれた。藤君を大事に思っている人がいいって言っていた。おばちゃんは上手にしてくれて――でも、おばちゃんはおかしくなっちゃった。せっかくできたのに壊れちゃったから、仕方なかったよね。ごめんね」
謝罪はあっさりしていた。風船が飛んでいってしまったことを謝るような軽い言葉に、山田はなにも返さない。
叶子が横須賀を見上げる。ぱちり、とした瞬きに自身の表情を自覚した横須賀は、細く息を吐いた。横須賀がすべきことは、今はない。ぐるぐるとざわつく内心を宥めるように、よどんだものを静かに吐き出す。
「神様は、別の神様に手伝って貰う方法を教えてくれた。でも僕、呼べたけどね、神様のことを信じていただけで、そっちの神様には手伝って貰う、って気持ちだけだったから。神様に怒られちゃったんだと思う。やり方も正しくなかった。どっちも、どっちも理由。でも、今度は大丈夫。安心して」
桐悟が言葉と一緒に、叶子の肩に手を置いた。叶子が背筋を伸ばす。胸を張るような所作と作られた笑みは、なぜかちぐはぐに見えた。
嬉しそう、というよりは、そうであることがきまりごとのような形。
「この子は神様に選ばれたから。僕の神様じゃなくて、手伝ってくれる神様に選ばれている。だから大丈夫」
「選ばれた、というのはどうしてわかるんですか?」
それまで黙していた山田が静かに問いかけた。声はずいぶん静かで、はっきりと届く。
「神様を呼べるでしょ? この子はね、神様の道を持っているの」
こくり、と叶子が頷く。端的な言葉は説明には足りないようで、しかし十分でもあった。叶子の中から出てきた物を横須賀と山田は見ている。神様の道から通るものを、すでに知っている。
星空は無邪気で、静かだ。
「兄がかえってきたら、その道はなくなるんですか」
「なくなる?」
山田の問いに、不思議そうに桐悟が聞き返した。手のひらのざわつきを宥めるように、横須賀は両手を重ね合わせる。
叶子はただただ笑っている。すがるような問いの意味を理解するのだろうか。理解していないように見えてどこか底知れず、しかし多分、どうしようもないのだ。そう思いかけ、横須賀は顔をしかめた。
「神の道を開いたままは落ち着かない気がするんです」
あくまで穏やかな声で、山田が言葉を続ける。意識して吐き出されるような静寂に、桐悟は首を傾げた。叶子はそのまま見上げるだけで、その視線も山田だけではなくぼんやりと全体を見ているようだった。
「たとえば、
「大丈夫だよ、この子は授かったんだ」
桐悟を見ていても、多くをわかることはないだろう。不思議なくらい表情が一辺倒だ。かといって変わらないわけではない。
日暮のような生来の動かないものとも、山田のような笑みに隠した感情とも違う。笑い、不思議そうに首を傾げ、瞬き。ことり、きょろりと変わるそれらは、しかし真っ黒い瞳がどうにも歪さを隠さなかった。
笑顔と言い切りが、その黒い瞳が作る月の形で歪んでいる。
「……道はそのままだと? 儀式をしなくなっても、アレは出てくると」
「神様の知った通り道を、人間がなにかできるわけないでしょう?」
首を傾げているものの、その言い切りは断定だった。当たり前を疑わない言葉に、山田がほんの一秒ほどの小さな呼気を落とす。
横須賀は山田に倣うように息を吐き出すと、瞼を閉じた。明かりがある中視界を遮ったところで、完全な黒はあり得ない。
瞼の裏で、文字をなぞるように眼球が動く。実際には文字と言うより思考だろうが、どちらにせよそれは長く無かった。
「治し方はないんですね」
「授かった物をなかったことになんて出来ないよ。当たり前でしょう」
「そうですね、当たり前のことです」
山田はため息と一緒に頷いた。横須賀は半歩分椅子を引いて、隣の山田を見下ろす。
浮かんだ笑みは静かだ。ため息を吐くどころかつい飲み込んでしまう横須賀は、ずり、ともう半歩椅子を左にずらした。
時計を見る。長針の先が揺れたのを見て、横須賀はポケットに指先を立てた。とん、と布地を押す程度の音は響くに足りない。それでも届くには足りている。
「――当たり前の話をしましょうか」
山田の左手人差し指と中指が、揃って机を叩いた。背筋を伸ばし直した山田に桐悟が微笑む。山田は唇を引き結ぶと、右手をジャケットの裾に滑らせた。
「逸見藤悟は死んだ」
凄むような音でなされる断言に、桐悟が瞬く。桐悟の歪さは、恐らく感情の表現でありながら思考が全て閉じているような、外と繋がるための表情を見ている側が理解しきれないところにあるだろう。
その閉塞した思考を山田は踏みつけるように、言葉を一音一音選ぶ。
「死んだ人間が帰るわけがない。アンタの後悔はアンタのものだが、後悔は後悔で終えるべきだった。その後悔を無くすためにすがったモンはただただ状況を悪化させる悪手。信仰は有る一面で救いであるだろうが、そこに他人を使ったアンタに救いなんざネェ」
「藤君はかえるよ、かえさなきゃいけない」
「返すってそもそも誰にだ? アンタが利用しようとする逸見五月は逸見藤悟が帰ったところで死ぬだろう。作り替えるってことの意味をわかってるのか? 逸見五月が逸見五月でなくなるってことだ。アンタは逸見藤悟を選ぶ変わりに逸見五月を」
「さっちゃんにかえすよ!」
絶叫のような声だった。そこでようやく、感情が向いた。椅子から立ち上がった桐悟のつり上がった眉と揺らぐ瞳が机の先にある。叶子が胸を撫でるようにしながら見下ろすのを見て、横須賀は椅子を二歩分ずらした。
桐悟は山田を見過ぎている。気づかないと言うより本当のところ桐悟にとって横須賀はいてもいなくても変わらないのだろう。桐悟にとってなにもないのだから当然で――横須賀はだからこそ桐悟を見ながら、叶子に近づいた。
「アンタ理屈がおかしいんだよ。行為と結果が目的と合致していない。どうせ目的を追うなら一個だけにすりゃいいじゃネェか。逸見五月のことなんてどうでもいい。逸見藤悟を取り戻せばいい。そこにあるのはアンタの主観だ」
桐悟の薄ら寒く美しい顔立ちが激しく歪むのを見ながら、そっと横須賀は叶子を手招く。
「喧嘩じゃないよ」
「ちがうの?」
「うん」
悪い子、と言い出させない為の言葉は嘘ではない。喧嘩と言うには、もっと一方的だ。
立ち上がった桐悟と座っている山田の体格差に、手のひらがざわつく。けれども一番の問題はここで、二人ではない。
「アンタの願望を
静かな声には激情が押さえ込まれていた。燃えるように唸る声。だいじょうぶ、と横須賀は呟いた。
呟きの向かう先がどこか、横須賀は自覚している。その時が、ずるずると迫る。
「僕はさっちゃんの為に!!」
「誰も願ってねえよクズ野郎!」