台詞の空行

10-13)かえす

「今度行く場所はねぇ、ちょうどお話にいく前だったんだ。でも大丈夫、こっちは僕だけで出来るから。上手にするよ、今度こそ、返すよ、泣いちゃうもんね、さみしいものね、だいじょうぶ、だいじょうぶ、だいじょうぶだからねえ今度こそ」

きりさん」

 声があふれ出すのを止めるように、静かに山田が声を落とした。平時よりも穏やかな声は、それでもよく通った。

 ぱち、ぱち。瞬く桐悟の瞳に山田が映っている。ただの瞬きだというのにまるで捕食じみた所作に、横須賀はつい鞄の紐を握りしめようとして自身のワイシャツをひっかいた。いつもの太いベルトの硬さではなく手の中に埋もれる布地に、はく、と息が詰まる。

「私はよくわかっていないんです」

 あくまで穏やかに山田は言葉を落とす。うん、と頷く桐悟は笑ったままだ。月のように歪んだ瞳がただただ怖い。

 ぽて、と叶子が椅子から降りた。

「もう少し話をしましょう。私は貴方の目的を知るに足りていないんです」

 重なる言葉に、桐悟は首を傾げた。頷いたり傾げたり、その頭はいくらか動くのに、瞳だけはずっと山田を捉えて離さない。

 ひくつく喉を宥める様に横須賀は少しはみ出たワイシャツにぐるりと手を丸めこませた。平時にあるはずの重みがないことで行き場の無い手がざわざわとしたままだ。胸元のポケットにできた空白も落ち着かない。揺れそうになる視線は、ざわつく黒い月に張り付く。

「おにーちゃん、いたいいたい?」

 唐突な声に、ひゅい、と喉が鳴った。山田が横須賀を見る。――正確には、おそらくその左向こうに来た叶子の方と言えるだろうその視線に、横須賀はワイシャツを握っていた手を離した。

 山田の少し歪んだ顔を視界の端に入れながら、横須賀は張り付く月から叶子に視線を移す。

「いたくない、よ」

「いたくないの」

 叶子の夜空がじっと横須賀を見る。口角をつり上げた横須賀の情けない笑みをただただ見返す瞳に、横須賀は黒目をほんの少し逸らした。

「たっくん、お話?」

「竜郎さんじゃありませんよ彼は」

「うん、たっくん、違うね、違う違う。お話、お話は僕とさっちゃんだね」

 軽やかな声で桐悟が繰り返す。叶子はきょときょとと瞬いてから、さきほどの椅子に戻っていった。それでいて座る際に少しだけ揺れた椅子が、先程よりも横須賀達が対峙する机に近づく。

 にこにこと、桐悟は笑った。

「知るのは大事、大事だよ」

『情報を渡す義理は無いだろう』

 どうしても手がペンを、メモを探してしまう。置いていくように言われた理由には納得しているのだが、もうほとんど横須賀にとっては癖の様なものだ。

 常に身につけていると言ってもいいそれらは、がらんどうの横須賀にとって縋る唯一に近い。だからこそなにもない今空っぽの横須賀だけがここにいるようで――横須賀は自身の思考に唇を引き結んだ。厚い睫が伏せられ、切れ長の瞳に影を作る。す、と消えた表情は平時よりも硬く、その双眸の元来の鋭さを見せた。

 空っぽでいい。だから横須賀はここにいる。

「教える、教えよう。ええとなにを。なにがいいかなあ。治す、治さなきゃ。ああそうだたっくん、ちがう、おにーちゃんだね、ないないくん、いたいいたいならなおす? おくすり、ああでもまだない、できたらだね、できたら、まだいたい、いたくない? いたい、こんどは」

「治す、ことについてですが」

 段々と浮き出す言葉の風船を掴む様に、山田が声を出した。うん? と首を傾げて、立ち上がりかけた桐悟が座り直す。

「そもそもどうやって治すんでしょうか。なにを治そうとなさっているんですか? 桐さんの目的を、私はまだ把握できてません」

「できてないの?」

 きょと、と桐悟は瞬いた。それから首を横に振る。

「さっちゃんはできている、よ。だって手伝ってくれるんだもの」

「なにをどう手伝えばいいかまだきちんと教わってませんよ」

 ううん、と唸った桐悟を宥める様に、山田が言葉を重ねる。叶子が首をこてりと傾げ、長い髪がさらりと揺れた。

 ややあって桐悟が、だって、と少しだけ困った様に声を出した。

「失敗しちゃった、泣いちゃう、なおさなきゃ、かえさなきゃ。ちゃんとかえしてあげる。大丈夫だよ。怖くないよ。さっちゃんが泣かないように、返してあげるんだ。だいじょうぶ、約束だよ」

 返す。散々繰り返される言葉を発する桐悟の表情はあくまで真っ直ぐだった。光の無い真っ黒い瞳は相変わらずで、その語調は優しい。

 だからこそ、横須賀は山田を見ようとしなかった。見てはいけない。見る先は、桐悟だ。だって、この言葉がそのままなのなら。

「神様に教わったから、大丈夫。――ふじくんを、かえしてあげる」

 甘い飴玉を転がす様に、桐悟は言い切った。

 三秒の空白。呼吸の音すら聞こえず、横須賀自身の指先の方がよほど音を運ぶように思えた。けれどもそれはきっちりとした三秒で、山田はあっさり空白を埋めた。

「兄は死にました」

「死んでないよ」

 山田の言葉に重ねるように桐悟が言い切る。布を擦る音。

「二十三年前の病院で、兄は死んだように見えましたが」

「神様のところに行っただけだよ。だからほら、かえってくるんだ」

 桐悟の視線が叶子に向いた。叶子がぱちりぱちりと瞬いて、それから笑う。

「きょーこ、よべるよ」

 ぽん、と足を前後に振った勢いで椅子から下りる。子供のような所作だが、叶子の背丈では床に足が着くのでジャンプには満たなかった。隣にきた叶子の頭を桐悟が撫でる。

「君はいい子だ。おかげでだいぶ助けられているよ。準備をすれば、おしまいだ」

「叶子はいいこ」

 桐悟の言葉に叶子は目を細めた。酷く大事そうに、柔らかく。水滴が丸く歪むような笑みが瞳を形作る。

「準備といいますが、なにをですか」

 山田が問いを重ねた。穏やかさからだんだんと平坦に近づく声に、桐悟は相変わらず笑うばかりだ。

「薬の準備。まだ足りないんだよ。大丈夫、これはちゃんと僕が出来る。さっちゃんは待ってていいよ。さっちゃんのお手伝いは、もうちょっと先」

「先、ですか」

 山田が確かめるように言葉尻を捕まえる。うん、と桐悟は頷くと、叶子の髪に指先を通した。梳くような所作に、叶子はじっと黙している。

「先。前のはちょっと急ぎすぎたから、神様が連れて行っちゃったんだよきっと。今度はちゃんと調べたから大丈夫。薬を全部準備する。そうして揃えたら、さっちゃんに使って貰えばいい。かえすんだよ、かえさなきゃ。さっちゃんひとりぼっちじゃさみしいものね。藤くんがかえってくるよ、大丈夫、なおすんだ」

「私に使うとどうなるんでしょうか」

 連なる単語を気にとめる様子を見せず、ただ静かに山田が聞き返す。うん? と首を傾げた桐悟は、うん、とまた頷いた。

 ゆらゆらと黒が揺れている。

「作り替えてくれるんだよ」

 つくりかえる。言葉を横須賀は内側で繰り返す。意味の分からない返答に、山田の服が擦れる音が小さく混ざった。

私を兄に作り替えるということですか」

 山田の言葉に、横須賀は身を硬くした。反射のように右隣を見下ろす。身長差から前を向く山田の表情は見て取れない。それでも身動きが出来なくなる横須賀の右足を、とん、と山田の足が押した。室内に入った際にスリッパといったものは渡されなかった故に感じる肉の小さな感覚に、横須賀は一度だけ目を閉じると前に向き直った。

 相変わらず山田ばかりを見る桐悟の隣で、叶子の大きな黒目もぼんやりと山田を写していた。