台詞の空行

10-12)思惑

 * * *

 色薬という目的がある以上、殺されることはないだろう。そう言い切った山田に対する言葉を、横須賀は持たなかった。

 ある意味では極論。ある意味では最低限。隠れながら探ってきたというのに山田は大胆さを隠さない。それは山田曰く優先順位で、横須賀にはどうしようも出来ない基準だ。

 殺されはしないが、それだけではないのか。太宰桐悟が利用している叶子は相手の生死を上手くコントロールできているように見えない。巻き込まれたら? 彼の望む形が失敗になったら? 重ねたい言葉はいくつもある。しかしその失敗の結果を兄で見ているだろう山田に問うのはあまりにも無意味で無遠慮だろう。山田はわかった上で選択している。

『色薬に利用するってことは、あっちには殺さない制限があるってことだ。そして利用する為だからこそ、俺が乗り込んだときにすべき事が定まっていなければ会話する時間がある』

 山田は静かに言い切った。定まっていたら? その問いも無意味だ。山田の並べる提案を横須賀はぐるぐると頭の中で繰り返し、しかし繰り返すだけで終わった。

『こっちの望みははっきりしている。新山叶子が子途を呼べないようにすること、儀式の中断だ。ずっとこちらは受け身だったようなものだが、ようやく、はっきり動ける。だからこそあっちがわかる前に動く。目的さえ果たせりゃ俺のモンだ』

 元々山田は一人で乗り込むつもりだったのだから、ある意味でその選択は当然なのだろう。なんの躊躇いもなく言ってのける山田を、横須賀はじっと見下ろした。あの場所で伝える言葉を横須賀はもっていなかった。ワトスンである。そういう形でもって、横須賀は選択したのだから。


 小さく、細く。息を吐いた横須賀は、両手を膝の上で握り直した。正面に座った男――太宰桐悟は瞳を月のように細め、横須賀の右隣にいる山田からずっと視線を外さない。

 いくら思考をしてもさほど変わらない。山田と桐悟の関係になにか言葉をかけることなど横須賀には無理だ。それでも横須賀はあの時を繰り返す。

 これは復唱だ。横須賀の決めごとを変質させないための復唱。アバラの内側、肺の手前。拳一個分の息苦しさを持ち続けるためのもの。

「さっちゃんが手伝ってくれるなら頼もしいや」

 くすくすと笑う桐悟の声に、横須賀は眉をしかめた。対する山田の表情は真隣故に横須賀にはわからない。

 手伝う、の意味を桐悟はどこまでわかって言っているのだろうか。無邪気な声音から悪意は見えず、黙した山田の心情を横須賀は探りきれない。

 落ち着かないまま指先を何度も握り直す。見る先は正面にいる桐悟とその後ろの椅子でぱたぱたと足を揺らす叶子くらいで、それでいてうろの様な瞳は見続けるに落ち着かない。

 だからといって棚にあるものを観察するのは山田から止められていた。なにがあるかわからないということと、その横須賀の視線が桐悟にどう映るかわからないからだ。確かに、と納得しながらも見ないという選択肢を横須賀は持ちづらく、結局桐悟と叶子に視線をやるばかりになってしまう。

「新山さんのところで会ったときは、ごめんね。さっちゃん怒ってたから。怒ってない?」

「話をしに来たので」

「そっか、よかった」

 桐悟は穏やかだ。病院の一件、過去の事件。それらをまるで遠くにおいて無くしてしまったかのような穏やかさ。けれども無くすことなど出来るはずもなく、横須賀はじっと伺い見る。

『支離滅裂にはなるが完全に会話が出来ないわけでもない。そもそもあの口振りからしてアイツは俺の為、だと思ってる可能性もある。なら話すだけの余地はあるはずだ』

 山田はあくまで静かな調子のまま断言した。逃げた相手の家を訪問するということを好ましくは思えないが、横須賀は眉をひそめるだけに留めた。

 正直に言えば止めたい。だがそもそも殺されはしないという言葉に疑問を挟むことが出来なかったのだから、そこに言葉を重ねられるわけなど無かった。横須賀はその場所に共にいることを許されただけに過ぎない。

 結局この場所で共にいることが出来るだけで奇跡じみている。

 隣で凜と背筋を伸ばす山田に恐怖がないとは思わない。逃げてしまうのではないか。そういう自分を殴って止めろと言う山田は、当時の恐怖と自身の行動を忘れていない。山田の中で簡易で確実な選択だっただけで、だからこそ横須賀は眉をひそめるだけだった。

「さっちゃんならきっと喜んでくれると思ったんだ。怒っていると話すのが難しいから、本当によかったよ」

 桐悟が言葉を重ねる。横須賀はあの時二人の様子を見たわけでは無いのでなにがあったのかはわからない。ただじっと瞳を弓なりにしたままの桐悟の穏やかさは、コップに満ちた水のようでもあった。

 そうして多分、その水が零れたときが横須賀の知る太宰桐悟なのだろう。

『会話さえ出来るなら知ることが出来る』

 山田ははっきりと言い切った。もうほとんどが決まった物事だからか、山田の説明は説明と言うより断言で、そぎ落として残した物を並べた言葉になっていた。山田が選択を変えない理由を伝える様な過去の話と違い、そぎ落とし準備した結果の羅列。

 横須賀の不安や戸惑いを拾い上げるのではなく、自身の決定を並べ命じる為のもの。

「さっちゃん?」

「……ああ、ごめんなさい。どこからお話を伺おうかと考えていました」

 静かに、山田が言葉を返した。こと、と首を傾げる桐悟はにこにこと山田を見続けている。隣にいる横須賀のことが見えているのか不明なほどで、横須賀はまた細く息を吐く。吐いた隙間で酸素を取り込む。

『アレの目的がはっきりしている以上、こっちは動きやすいんだ。――知ったあとは、化け物さえでなきゃ問題ない。新山叶子が動かなければ、アイツはただの人間だ。俺が始末する』

『始末』

 不穏な言葉に、横須賀は復唱した。少しだけ眉をひそめ歪めた山田の笑いは、ひきつって見えた。サングラスの奥の瞳は相変わらず見えなかった。けれどもそのひきつったものは、嗚咽になる前の痙攣にも似ていて。

『殺す訳じゃねぇさ。アイツはそれに及ばない』

 吐かれた言葉は、表情とは反対に静かだった。ああ、と横須賀は頷いた。その言葉で横須賀にとっては十分だった。可能性でしかないと思いながら、それでも十分、わかってしまった。

 わかったからこそ、決意はなにも変わらない。

『今のところ、アイツは実行犯に成り得ない。その力がない。だとするならば、アイツが外に出られないようにすりゃいいだけだ。私刑をする必要はない。その先は警察の仕事で、俺がするのはヤツのやってきたこととヤツを揃えて置いておくことだけだからな』

 山田はそこで言葉を切った。そうして出来た沈黙を、横須賀は埋めなかった。

 ややあって一度逸れた山田の視線は、その後に続いたため息と一緒に戻った。

『ただまあアンタに手伝って貰うって事は、アンタの人生に泥が付くって事だ。それなりのことをやることは確かで、俺はアンタの人生を保証する気なんざない。こればっかりは使う責任を俺は持ちきれねぇが――』

『大丈夫です』

 山田の言葉が途切れた一瞬を縫うように、横須賀は言葉を差し入れた。口を噤んだ山田が、二秒後眉をひそめて口角を歪めた。

 憐憫じみた表情だった、と思う。横須賀はあまり人の感情の意味に気づきにくいが、なんとなくそう感じた。感じた理由は横須賀の頭の片隅で、横須賀は唇の端を噛んだ。

『今更か』

 ふ、と山田は小さく呟いた。横須賀に投げかけるには足りない声だったが、横須賀はその時はっきりと頷いた。

 そう、だから横須賀は今、ここにいるのだ。

「どこから、どこからかぁ」

 ふわふわと桐悟が言葉を繰り返す。悠然とした余裕は、山田を信じて疑わないようにも見えた。横須賀の存在を見ないまま、桐悟は笑う。

 異質さを目前にしたところで、相手が人であることに違いは無い。あのよくわからないものがどうであれ、利用しているだけの人間を横須賀は異物と言い切るだけの力は持たなかった。

 本音で言えば、半分は異物と思っているだろう。理解できない、恐ろしい、薄ら寒いような不安。それらは大事な物を台無しにしてしまう。

 けれども人なのだ。叶子の父親に横須賀が憤ったことの身勝手さ、残忍さ。それらが許されないように、ただ自身の身勝手で断じることなど出来ない。犯罪だとか罪悪だとかは、あったところでそれを裁く力を勝手に振るってはならないのだと思う。

 どんな理由であれ、山田にも横須賀にも権利はないのだ。山田は分かった上で選択している。日暮刑事がいないタイミングを見計らう程度には、望まれない行為だとわかっている。だから桐悟に向かう不信感は赦しの理由にはならず、しかし対峙する覚悟として有り続ける。ぐるりと巡る思考は、咥えた尻尾のようだ。ぐるぐる回るだけで、結局答えは決まっている。

 横須賀とて、その尻尾を離さない為にここにいるのだから。