台詞の空行

10-11)想い

 資料から手を離し、山田がソファに深くかけ直した。浅く座ったまま頷く横須賀と対照的だが、ふ、と漏れる息は少しだけ弱い。

 蛍光灯を見るように少しだけ上がった顎、反った細い首筋はつるりとしている。山田太郎という人をじっと見たまま、横須賀は紙のはしに小さくペンを走らせた。

 手の中に隠れてしまう文字を見る人は、誰もいない。

「俺のケジメは、俺のモンだ。アンタには悪いが、俺が失敗しないか手伝って貰う。けれども、それ以上はアンタにはさせねぇ。アンタに止められる義理もない。……二十三年だ。渡すにも捨てるにも、でかすぎる」

 吐き出すような言葉に、横須賀は何もいわずただ山田を見返した。知っている。多分横須賀は、その場所だけはわかっている。調べた物事、年月。山田の感情や目的までは横須賀の推測できるものではない。けれども調べたからこそ、その年月と執念だけは過去が語っているのだ。

 だから横須賀は山田の言葉に言葉を挟まない。

「新山叶子についてどこまでヤツが話すかわからねぇ。調べる時間もないだろうが、あのイカレた男の本にはなかった。ただ、イカレてはいるがヤツが今日まで求め続けたものだ。ずっとああいう調子なわけじゃないのは赤月の言葉でわかってる。日本語だとだめなのか英語の方が話しやすいのかはしらネェが、新山と交渉して、赤月が違和感を覚えない程度には偽装できたんだ。――俺と話したときは当時と変わらずイカレてたが、なにもかもない訳じゃねぇ。ただ、なにもかもなければ、ケジメはいる」

 横須賀は口を噤んだまま、手のひらの中に文字を入れたままほんの少しだけ肩をゆっくりとおろした。呼吸に従うようなその所作が山田の視界に入ったのかはわからない。山田は息を吐くと、頷くように顎を引いて横須賀を見た。

 じっとそらされていなかった横須賀の小さな黒目と、サングラスがかち合う。

「動くのは金曜、日暮刑事が非番って情報が入ってる。急だとはわかってるが、このタイミングを逃すと面倒だからな」

「日暮刑事、ですか?」

 突然上がった名前に横須賀は驚いたように声を上げた。声と一緒に持ち上がった瞼と眉の不思議そうな表情に、山田は頷く。

「アイツは鼻が効きすぎる、邪魔される訳にはいかねぇ」

「でも」

 もご、と零れかけた言葉を横須賀は慌てて口の中に押さえ込んだ。でももだってもない、は言われずとも流石にわかる。本来横須賀の同行を拒絶し、リンをそばに置かずに行こうとしていたのだ。邪魔は出来るだけ減らそうとして当然だ。

 しかし、それでも日暮の顔が浮かぶ。

「……随分と懐いているんだな」

「え?」

「刑事を避けるっつーことの意味でってだけじゃねぇだろその顔。テメェの感情はテメェのモンだから文句を言う気はないが、俺にとっちゃ刑事は便利なだけじゃネェんだ。奴らの仕事だとしてもな」

 少しだけ吐く息の音が大きい。背を丸めて言葉を探す横須賀に、山田は溜息を重ねた。

「その、他の方は」

「流石に全員休暇ってのは現実的じゃねえよ。日暮刑事も念のためってくらいだ。悪い男じゃないがな、どうにも勘が良すぎる。情報は便利だが何考えているかもわからねぇしな。まあ正しさの基準には丁度いいが、どうにも奴の見てる部分が近い気がすんだ。読めねぇ」

「それは逸見さん、だから」

「あ?」

 横須賀の言葉に、山田が片眉を上げた。ええと、と横須賀の視線が揺れる。そうしてから少しだけ紙が巻き戻り、文字に中指の爪が触れた。

「ええと、その、ホームズの話を聞いたのは、日暮刑事に、です」

 はく、と山田の唇が薄く開いた。サングラスの向こうの瞳はわからない。窺い見ながら横須賀はペンを持った中指の背で記した文字をなぞった。

「逸見家の事件を調べようとして、それは終わっていて、でも日暮刑事がプライベートで、って」

「……プライベート」

 確認する様に山田が言葉をなぞる。こくり、と横須賀は頷いた。

 日暮はそれに拘っているようだったし、刑事という立場上プライベートで無いとまずいのだろうとも思えたのである意味では当然の様でもあった。山田なら想像が容易いだろうそれをやけに神妙に呟かれて不思議に思いながらも、日暮に悪意が無いということは伝えておきたかった。

 伝える機会は、今しか無いかもしれないのだ。

「日暮刑事は、逸見さんの事件を、ずっと追っていたみたいです。だから、悪い意味じゃ無くて、その、近くなったのかな、って」

 横須賀の言葉に、山田の視線が下がった。少しだけ手元を見るような顔の向きは、横須賀のノートを見ているようにも見える。

 山田の視力は山田曰く良くないとのことだし、そもそも山田の位置からではあまり見えないとは思う。それでも横須賀は、なんとなく記した文字を隠さない様に手を体側に引き寄せた。

「そうか」

 落ちた声は平坦だった。納得と言うには足りず、しかしそっけないというには手前に落ちる音。付箋を手の中で捲りノートに貼る。そのままペン先を指で隠す様にして立て、横須賀はじっと山田を見つめた。

 山田が腕を組む。呼気はあまり響かないが、微かに肩が上下した。

「ホームズについては、よくぞそこまでって感じだったが。そうか、日暮さんか」

 ぽつ、と落ちる言葉は静かに染みる。ややあって山田は頭を横に振った。

「いやでもまああの人もよく覚えていたモンだな、たかが一年も居なかったクラスメイトだっつーのに」

「特別だって、言ってました」

 言葉を走り書きながら横須賀が答えると山田の眉が寄った。書き記すことを咎めることも気にとめる様子も見せずに過去を思い出すように右下を向いた山田は、それから少ししてやや自嘲気味に笑った。

「あの時期にクラスメイトが失踪すりゃそれなりに衝撃ではあるか。ほとんど話なんざしなかったが、あの性格ならそれなりに引っかかるのもわかる」

「寄り添いたいから、警察になったって」

「真面目な人だな」

 ふ、と山田が自嘲よりもやわらかく息を漏らした。どちらかというと優しい笑みに、真面目、と文字を記す。

 ややあってふと、くつくつと山田が笑った。ぱちり、と瞬く横須賀を、山田は愉快そうに見上げる。

「アンタが言うと随分と大仰だな」

「おおぎょう」

「人類皆兄妹、ってのを地でいくよなってことだ。随分と好かれているみたいに聞こえちまった。俺は問題ネェが、気をつけた方がいいぜ」

 人によっちゃ誤解させるぞ、との言葉に横須賀はぱちぱちと瞬きを繰り返した。誤解、が何を言うのかよくわからない。日暮は随分と逸見五月を思っていたのでそのまま伝えただけなのだが、対する山田は何故かにやにやと笑っている。

 その所作の理由がわからず横須賀が更に首を傾げると、山田は笑いを平時程度に引っ込めて肩を竦めた。

「まあアンタがそんなフォローしなくても、あの人がいい人であることは否定しねぇよ。別に悪意だとかそういう意味で疑っているわけじゃねえ。山田太郎にとっては厄介だが、警察官らしい人だ。……まさかバレてる方向は考えてはなかったが、納得いくところもある。ただ悪意はなくとも真面目すぎる男は邪魔で、アイツが割り込んだら面倒ってのが理由だ。日程は動かさねぇ」

 その話は仕舞いだと言う様に言い切られ、横須賀は紙を捲り直した。伝えること、残すこと。その時が来るまでに横須賀に出来ることはそれらだろう。

「準備も覚悟もアンタの状況は考慮しない。アンタには急かも知れないが、俺にはようやくだ。邪魔をするなら途中でも切り捨てる。アンタがするのは見届けるだけでいい。――それがわかっているなら、使ってやる」

「はい」

 言葉に、横須賀ははっきりと頷いた。山田が眉をしかめ、頷き返す。

「アンタに頼る機会がなけりゃいいがな、必要があったら殴ってでも止めてくれ」

「はい。……あ」

 神妙な言葉の後、漏れた声は少しだけ間が抜けていた。顔を上げた山田の問う様な視線に、横須賀が元々下がり気味の眉を更に下げる。

「殴るとき、その、全力じゃないとだめ、ですか」

 殴ったことなどないが、加減をしなければ山田を吹っ飛ばしてしまうだろう。体格差がそれだけあるのは事実だ。

 それまでの様子と比べると酷くおろおろと尋ねる横須賀に、山田が失笑した。

「動けなくならない程度に頼むぜワトスン」

 笑う山田に横須賀は困った様に目を細めて、小さな文字を手の中に飲み込んだ。

(リメイク公開: