台詞の空行

10-9)白


 ファイルを抱えた山田が振り返る。横須賀が椅子の上で少しだけ身じろぐと、山田は顎で横須賀自身を示した。先ほど言われた座ってろの言葉を思い出し、横須賀は浅く座り直す。

 資料を整理するのは横須賀の仕事で、取り出すのも多くは横須賀だ。資料を選ぶことについては山田が行わないわけではないが平時山田が取り出すのは手元のものや机に並べたものである。それ故になんとなく落ち着かない心地で横須賀は山田を見上げた。

 手伝うとの言葉は、そこまでの量じゃないとの言葉で最初に一蹴された。横須賀が抱えた時よりも少し大きく見えるファイルが、どさり、と机に置かれる。

 抱えた資料を机に落とすように乗せた山田が正面に再度座り直す。細い指が一番上の茶封筒を横須賀から見て右手側端に置き、反対側に乗せていたファイルを正面に抱え直した。ファイルの中身はクリアファイルで、紙がひとつずつ挟まっている。付箋を飛ばすようにして開いた後するするとめくる様子に迷いはなかった。

 端に置かれた資料を視界に入れながら、その指先を追う。ひとところで止まって取り出されたのは太宰コーポレーションからの結果報告で、それを山田は左端に寄せた。次に左手を伸ばしたのは封筒だ。山田が手にしたのはA4用の茶封筒の上に置いてあった細長い定型封筒の方だった。封筒に文字の記載は無く、どちらも開封済み。

 さり、と音を立てて封筒から紙が取り出される。

「太宰桐悟の場所については調べがついている。五藤ごとう黒務くろむの家がそれだ。翻訳家でそれなりに優秀、ただ仕事を選り好む。担当にも会おうとしないが、締め切りは守るから特に問題視されてはいないらしい。家の近くでは新山叶子が目撃されている」

 新山叶子、と言う時に山田が横須賀を見上げたが、横須賀はペンを握るだけだった。それ以上山田も追求せず、開いた紙を机に置く。

「新山叶子の尾行はうまくいかねぇからそれだけで終えてるが、五藤黒務――太宰桐悟の家にいるんじゃないかという推測は立っている。奴は基本家から出ないらしいが、週に一度食材を買いに出かけているらしい。調査によると今特別どうこうっていうよりは昔からの習慣だな。目立つ動きは無い」

 置かれた紙が摘むようにして擦られる。二枚重ねだったらしい紙同士が離れ、取り出されたもう一枚には小さな見取り図らしきものがあった。らしきもの、というのはそれが歯抜け故の評価だ。

 庭と塀の形、外から見える扉、窓から見た推測の部屋。一部分だけがかろうじて埋まった図に、小さく階段が記されている。空白の多い見取り図らしきものは、外から見た情報で成り立っているようだった。

「リンの方で探って貰ったが見ての通り家の中を把握するには足りていない。ここまでくると情報待ちよりもタイミングだな。次の前に動く。アイツの家で情報が入るかどうかで、てっとり早いのはとっつかまえて聞き出す方だろうな」

 山田の眉間の皺が深い。どちらかというと山田は情報を事前に得て動くタイプだろうが、同時に知りようがないところは別で補うところもある。折衷案というものなのだろう。どう言えばいいかわからず、横須賀は眉を下げた。

「早くしないと危ない、ですものね」

「いや」

 短く山田が否定する。なだめると言うよりは淡泊な事実だけを返す音に、横須賀は不思議そうに山田を見た。確かに、と静かに山田は言葉を続ける。

「既に太宰桐悟には逸見五月を把握されていることを考えるとその評価はわからなくもない。けれどもそれは俺が急ぐ理由にはならねぇな。アイツがこっちに手を出すのは、もっと先だ」

「先」

 山田が並べる言葉は平時の事実を並べる音と似ている。山田の言葉を横須賀は否定するつもりはないが、しかし山田の存在が把握されているのなら、という心地が無くなる訳でもない。言葉にしないが山田を覗き見る横須賀に、山田は肩を竦めた。

「俺が急ぐのは単純にアイツのやらかしが増える前にってものだ。流石に絶対とはいいきれないが、状況的に俺自身に害が及ぶには猶予があると俺は考えている」

 猶予。小さく紙に記した横須賀に、山田は浅く頷いた。指先が今度はA4用の封筒に伸びる。

 とん、と立てられた封筒から取り出されたのは、見覚えのある資料だ。机に並べられた紙には色薬の文字が記されている。赤月が持ち込んだそれを、山田は中指の先で示すように撫でた。

「俺に手を出す前にアイツが探していた物には意味があるはずだ。元々山田太郎はアイツにとっては利用する側、逸見五月ではなかった。最初の事件は偶然だった。なら色薬が目的だとして――現状、色が足りない」

「色」

 とっさに浮かぶのは緑と黄色。それから、確か廻魂祭りは青が関係したはずだ。全てを覚えていない横須賀は、少しだけ身を乗り出して山田の指先に触れる文字を追った。

「『赤色は血液や免疫の病気を治す。橙色は五感の不備を。黄色は皮膚の病気を。緑色は精神の病気を。青色は老いによる病気を。藍色は神経の病気を。紫色は五臓六腑の病気を。白は全てを作り替え、黒は全てを最初に戻す。』これが奴の招待状――最初に見た書類の文言だ。これまでに見たのは緑、黄色、青。赤月のガキの件で本当に薬があるのだとしたら、奴らが持っていたのは藍色。または作ろうとしたのが藍色。赤月のガキが無事だからどうなってるかはわかんねぇからこれは保留にするが、それを除いても残りは赤、橙、紫、白、黒。黒が子途だとすれば、アイツが逸見藤悟にしたかっただろうこともわからなくもない。『最初に戻したかった』。おそらく、元に戻る、という誤解で黒を使った。だとして、結果それが失敗して。今度は白で試そうとしてるんだろうな」

「白、は」

 言葉がそこで途切れる。少しだけ戸惑うような横須賀の復唱に、山田は頷いた。

「おそらく、木野さんが見つけてきた小説はいい線をいっている。治療をしたものが最終的に黒によって液体に戻す、薬にしてまたその薬になるものを増やすような、所謂餌なんだ薬は。次元違いがこちらに干渉するための手順なのか、それとももっと別の意図があるかはわからない。ただ、あの視点で見れば病気ではない黒と白は仲間外れだ。そして病に関係しないからこそ、薬にはなり得ない。
 黒の最初に戻すについて黒にするのか、それとも薬にするのか、それとも両方か。いくつか解釈ができるが、答えを決めるには情報不足だろう。推測しかできない。なにもかも失うようなもので、成り立つ前――人で無くすことを最初に戻すというのか、それとも成功例と考えられる液体を作ることが最初に戻すことなのか。まあ、情報が足りないんだ。小説の方ではうまく作ってあるがな、断じるまではいかない。とはいえ、この辺は俺の考えることじゃねえ。今必要なのはこの白についてだ」

 山田が資料を指先で叩く。資料を見るように俯いた山田の口から吐き出された空気は不愉快を示していた。唇の右端だけが歪むように引かれる。

「正直黒が子途や薬に戻すものだとすると作り替えているのはそっちに見えるんだが、この資料だとそのままだ。アイツがなにを作り替えるつもりかはわかんねぇが、アイツの言葉はまだ過去を向いていた。過去を治すのに正直他の色は必要ない。新山が欲を出したのかもしれないが、そもそも新山を選んだのが太宰桐悟だろう。わかってて誘ってた、として、ならば必要なはずなんだ、それら自体が」

 山田の並ぶ思考を追いかける。うまくそれらを組み立てるにはするすると流れすぎるそれをペン先だけがなぞっていく。

 山田の思考の速度に横須賀は追いつかない。結局横須賀は記すだけで精一杯になるばかりだ。そしてだからこそ、横須賀は文字に縋る。

 それに今、山田は思考を隠さない。だから、拾い上げるだけで随分と違う。

 区切るような呼吸。それからもう一度山田は横須賀を見据えた。

「そこまで考えれば一個推測が立つ。全ての色が必要なのはそもそも白を得るための行動という予想だ。本当、あの小説はうまくできているな。組み方が関係者なのか疑ったが、そっちの調査で書き手は白とわかっている。木野さんの評価が正しいんだろう。
 まあそれはいい。とにかく、太宰桐悟は逸見藤悟を戻すために白を求めた。……逸見藤悟が死んじまってるのにどうするつもりなのかは疑問だが、結局それを成立させはしないんだ。深く考える必要はない。白がいるということだけわかってりゃいいし、推測の域は出ないがそう見当違いでもないだろうことで十分だ。そして、そこまでわかればアイツが俺を狙う可能性は低い。猶予はまだあるってことだ。――そんなの揃える時間を与えてるつもりはないけどな」

 最後の言葉は獰猛な呻き声に似ていた。歯を食いしばりなされた決意に、横須賀も身を固くする。

 細い手首、緑の中にあった時計。崩れ落ちた直臣、黄色。そうなってしまった時、横須賀はなにもかもできない。