台詞の空行

10-7)あの人この日*

 その黒がなにか、横須賀は理解しない。けれども知っている。不定形のそれは直臣を覆った。いや、自分から直臣だった肉塊に食べられに行った奇妙な異物。

「兄が失われた、ように見えた。その黒は兄の色と混ざり合いながら、だんだんと質量を減らした。兄は――なにがあったのかわからない。兄の体の中を黒が暴れ回るかのように痙攣し、暫くしてそれは止まった。兄は動かなかった」

 浮かぶ光景に、横須賀は睫を揺らした。閉じることまではしない。赤黒い汚泥が、肉塊がちかちかと揺れる。黄色い液体。

「……兄の体から、黒が零れだした。なんで、と太宰桐悟が言った。色がついたはずの黒は黒に戻っていた。兄はぐずぐずに崩れて見えた。いや、黒になった、ように見えた。兄が崩れた先から、その黒は黒に戻っていったのだ。
 そのままなのに全てがバラバラになった様な奇妙な違和。どろりとした黒が逸見五月を見た。もう一度、床が揺れた。看護師の声がした。太宰桐悟が、なおさなきゃ、と言った。なおしてかえさなきゃ。さみしいよ、さみしいよね。よくわからないがそんな様な言葉を連ねていた。逸見藤悟は動かない。死んだのだ、と逸見五月は悟った。確認はしていない。しかしぐずぐずと崩れ黒になっていく、どんどんと体積が失われていく様は、死だ。黒の餌になったのだ、そう思った。
 逸見藤悟の体積分、いやそれ以上に、黒が増え、その増えた黒が見ているのは逸見五月だった。だから、逸見五月は悟った。どろりとしたそれと太宰桐悟が逸見五月に手を伸ばし――錯乱状態に陥った逸見五月は、病院の窓から飛び降りた」

 ひゅ、と横須賀が息を呑む。山田は一度溜息を吐くと、少しだけ揶揄する様に肩を竦めて見せた。

「無駄なところで運がいいと言うべきか、逸見五月は幸運にも特に大きな怪我はしなかった。震度四と報じられたらしいが、病院内の混乱はそれに比べて大きかった様に思う。原因があの子途のせいかどうかはわからないが、とにかくあの時太宰桐悟は化け物を呼んで、黒にした。口ぶりからすると兄を助けようとしたのかも知れないが、結果的には兄は死に、逸見五月はあの男の手が伸びることを恐れて姿を眩ませた。簡単にあらましを伝えると、この程度のモンだ」

 少し自嘲じみた声音に、横須賀は頷くことも出来ずにペンを揺らした。この程度、と言える様なものではない。かといってどう答えれば良いかわかるわけでもない。

 ため息より短く、山田は笑った。

「ろくでもない支離滅裂なものをよく太宰さんは信じたと思う。自身の義息子むすこを犯人扱い、明らかに常識としてはおかしい状況。それでも太宰さんは逸見五月が太宰桐悟を追うこと、同時に太宰桐悟から隠れることに賛同した。後始末はほとんど太宰さんがしてくれたらしい。警察からも身を隠すなんて普通無茶だとは思ったが、ほとんど外に出ないことが太宰さんたちの協力で可能だったから意外と潜伏は落ち着いた。しばらくして、太宰さんの方から警察にうまく言い伝えてくれたらしい。特例隊はなかったが、そういう面で、向こうでもやれる範囲でやってくれた。
 ……とはいえ、ずっと隠れ続けるつもりはなかった。逸見五月は自身の状況を整理した後、山田太郎という胡散臭い人間を作ることを選んだ。自身と全く結びつかないだろう人間。そして、太宰桐悟の関係した事件を追うに相応しい人間を考えたんだ」

 ため息と一緒に流してしまいそうな言葉に、横須賀はじっと耳と目を傾ける。山田はもう随分落ち着いたようだった。語ることで凪ぎ、あの悲鳴のような言葉がなかったことのように聞こえてしまう。

 しかし、たとえ凪いでいてもあの言葉は事実だ。きっと山田の内側の、根っこの部分。

「アンタがどこまで調べたかはわかんねーが、こう見えて逸見五月はそれなりにイイコチャンでな」

 山田が少しだけ声を跳ねさせる。くつくつと笑うのは自嘲よりも剽軽ひょうきんさに近かった。その態度の理由はわからなかったが、いいこちゃん、という言葉に横須賀は浅く頷いた。逸見五月については、真面目で優しい人物だと聞いている。

「山田太郎みたいな言葉遣いは絶対しない奴で、どっちかというとのんきに笑っている人間だ。だったら逆にしちまえばいい。態度や言葉遣いを変え、性別も逆に見えるようにした。アンタが言ったように名刺は身分証を見せないためだが、身分証がなけりゃどっかイカレた時に病院にいかねー理由にもなるってのがある。
 体格についてはどうしようもネェが、堂々としていればそれなりに誤魔化せるモンだ。とくに男か女か、なんてのは見る側の印象がでかい。オールバックにサングラス、どっかの筋のモンに見えりゃそうじろじろ見る馬鹿も少ねぇしな。……ま、年中サングラスのおかげで視力が落ちちまったが、動く分には問題ねぇ。メリットの方がでかい」

 コツ、と山田がサングラスのつるを中指で打ち鳴らした。相変わらず瞳は見えないままで、ひそめた眉と口元だけが笑っているのを示している。

「しばらく山田太郎として生きるのに勉強と練習。そうして太宰さんに探偵事務所を設立して貰った。さすがに申請は身元がはっきりしてねぇと無理だからな、この事務所は山田探偵事務所だが書類上は太宰竜郎さんが代表になっている。俺は雇われ所長って奴だ。オカルト関係の事件を探しながら過去の事件についても調査して、多少そういうものとも関わった。……ただ、太宰桐悟については調べきれなかった。
 そんなことしていたら二十三年も経っていた。逸見五月より山田太郎の方がよっぽど長く生きているとも言える。もう戻る場所もない、それでもアレが兄の好奇心で始まったことなら俺はしまいにしなければならない。そう言うときだ、アンタを見つけたのは」

 山田の言葉に、それまで声を追いかけるだけだった横須賀はきょとりと目を丸くした。鋭い三白眼のくせにやけに無防備な瞳に、山田が苦笑する。問うような視線を受け、山田は言葉を続けた。

「本屋で見たアンタは、随分とどんくさそうに見えた。目つきは随分鋭いのに人を見る視線はきつくない。人に声をかけられるとメモを見てはするすると案内をする。丁寧に接しすぎるのか仕事は早くない。一人でいる時はぼっとしているのに、声をかけられるとひどくうれしそうに笑う。……なんだろうな、随分とアンタが気になった」

 とすり、と落ちる言葉は優しい声だった。微苦笑を浮かべた山田はじっと横須賀を見ている。サングラスに映る横須賀は、相変わらずきょときょとと不思議そうな顔をしていた。