10-6)告白*
三度の呼吸。ゆるりとした静かなそれの三度目は少し長く、しかしそれだけだった。
ひどく静かに、山田は口を開く。
「事務所の扉を開けるまではなにも気づかなかった。会社の敷地内なら大丈夫だという感情からも、警戒心が抜けていたから余計だと思う。だから最初は認識が出来なかった」
山田は静かなのに、横須賀の方が身構えてしまう。横須賀は知っている。その時あっただろう事を。だからこそ言葉の先に指が白むのに、山田は表情を変えなかった。
ただもう一度呼吸を整え、浅く顎を引く。伸びた背筋は相変わらずそこにある。
「暗がりから明るくなった、というだけではない。最初母がいると思った。おかあさん、と声をかけた瞬間、酷く不快な臭いが鼻についた。強いのは鉄の臭い。けれどそれだけでなく、むせるような臭気だった。反射のように鼻と口元を覆った。母が振り返った」
もう一度三度の呼吸。今度はすべて短く、膝の上の拳が少しだけ大腿部に爪を立てるように動いた。
「赤。認識したのは、それだ。手元だけでない。全面に赤があった。そうして母は笑っていた。足下にある固まりがなにか、瞬間理解した。見てしまった。おぞましい、確かに俺はそう思った。思ってしまった」
立てた爪をそのまま山田は握り込んだ。ささやかなはずなのに布の擦れる音がやけに耳で響く。山田の音がそこにあるのに、山田はずっと遠くを見ている。
「声が出なかった。懐中電灯が転がった。母は『大丈夫よ』、そう言った。大丈夫。その意味を尋ねることも出来ず、母がとろけるように笑ったのを見た。足下から目をそらしたかったからかその狂喜の表情に飲まれたのかはわからない。ただ目がそらせなかった。
『だいじょうぶ』。母が繰り返す。逸見五月はなにもできない。体が動かない。『うまくやるわ』。なにを。問いかけられない逸見五月からそれに向き直り、母は刃物をつけた。血は止まらない、痙攣した体は血を吐き出す為なのかそれとも生きているのかすらわからなかった。助けなければ。唐突に流れた思考が、足を動かした。死んでいる。そう思いながらも刃物がまた滑ることを止めなければ、そう思った。近づく逸見五月を見て、母は相変わらず笑っていた。『だいじょうぶ、これでおにいちゃんは、治るのよ』それが本当の救いであるとでも言うように、母は優しく教えた。
血にまみれた部屋、わけのわからない図形、崩れた肉塊。ぶしゅ、と血が、また上がった。上がったのに」
最後の声は、震えていないのが奇跡のようだった。ひくつく口角をどうにか押しとどめ、零れ出す感情をぎりぎりで飲み込む声は静かなままだ。それでもその言葉の羅列が、思考と過去をそのまま吐き出させるような焦燥を湛えていた。
す、と空気が吸い込まれる音。眉間の皺が深くなり、口角が耐えきれずにひくりと痙攣するのがわかった。横須賀は山田を見るしかできない。山田の顔が下がる。
「一瞬、思ってしまった。治るという言葉に、異様な光景なのに、人の体が、罪がそこにあるのに。浮かんだ兄の顔、父と母の笑う姿。もう遠く感じるような過去に、ああ、と。俺はあの時思ってしまったんだ。血の臭いの中、笑う母の狂喜の中、俺は、俺も、お兄ちゃんが帰ってくるって、また戻るんだと、俺は――人が殺されているのに、喜んだんだ……!」
それまでかろうじて感情を抑えていた声から、震えと慟哭に似た衝動が吐き出された。ひきつった呼吸の音。それでも山田は言葉を失いはしなかった。
繰り返される呼吸は調律のようでもあった。乱れた声を正しく戻そうとでもするように静かな呼吸はテンポを戻す。は、と最後にやや大きく息が漏れた。
「自身の残酷さ、身勝手さに気づいた瞬間、血の気が引いた。そして母の様子、足下の肉塊、理解できないなにかの図形、血だまり。理解できないモノが自身の感情と一緒にすべてなだれ込んできて、母が為した悪行と兄への思い、多くが逸見五月の言葉と思考をぐずぐずにした。自身も母と同じだ、人殺しだ。身勝手な感情は母と同じくして兄を思うもので、そう理解した時肉塊を作り出す自分が浮かんだ。瞬間、逸見五月はその場所から逃げ出した。頭が真っ白になった、と言うのかもしれないが、冷静に考えるとあれは犯罪者のそれだ。自身の罪悪が形になった姿から逃げ出したい一心で為されたもの。醜悪で身勝手なものに突き動かされ、逸見五月は逃げ出したんだ」
山田は静かに事実を並べる。否定を挟めないこの感覚は先日も感じたもので、横須賀は顔を歪めた。過去に横須賀はいない。感じたものをどうと言うことも出来ない。
ただそれでも、知ることは出来る。これまで逃げるという単語を自身に当てはめなかった山田の言葉を、横須賀は拾うように小さく記した。
「逃げた先は星陵の森だった。特に何かを見たわけでもなく、転んだ拍子に我に返ったのだろうことだけわかった。ふらふらと帰宅しようとした逸見五月を警察が保護。母が肉塊にした相手が父であること、そしてその母は父と共にぐずぐずの肉塊が溶け混ざるようになっていたことを知った。どうして、という気持ちは疲れ切った逸見五月にはなく、ただ見たことを語った。逸見五月に疑いが向いてもおかしくなかったように思えたが、証言が一貫していること、衣服から血液反応が出なかったこと、なによりその重労働が逸見五月に出来るとは考えづらかったことなどから捜査対象というより保護対象として扱われた。
母のことが何故犯罪者と報道されなかったのか当時は考えに至らなかったが、恐らく母を殺害した犯人に関係しているのだろう。宗教関係を警察は探ったようだがどのような効果があったかはわからない。逸見五月はその後兄の見舞いに行った先でおしまいとなったから、仕方ないところもあるだろう」
「おしまい」
横須賀が眉をひそめ、苦しそうに言葉を拾い上げた。対する山田はもう落ち着いており、ああ、とあっさり首肯した。
「警察は逸見五月を拘束しきりはしなかった。あの当時はそうするしか出来なかったのだろう。多少そういう案件を知ってそうな人間とも話したが、当時は特例隊のようなモンがなかったからな。話した相手も『今は』という言葉を使っていたから昔はあったんだろうが、とにかくその時はなかった。だからそのことにどうこうは思わない。ただ、逸見五月が迂闊だっただけだ」
特例隊を復活させたのは日暮、と平塚が言っていた。日暮自身、逸見五月が行方不明になったことがきっかけで警察を目指したと語ってもいた。当時をどうすることもできない。誰も彼もそれを責められず、だからこそ山田が逸見五月を迂闊と言い切ることに横須賀は違和感を覚えた。
言葉を探すように、ペンを持った右手で左手の甲を撫でる。固いペンの感触は、しかしそれ以上を引き出さない。
「伝えても無意味、もしかすると悪化するかもしれない。それでも逸見五月は自身だけで当時の事件を抱えきれなかった。縋るように兄に会いに行き、そこで太宰桐悟に会った」
太宰桐悟。最初に行方不明になった人物の名前に、横須賀はペンを紙に当て直した。同時に写真の顔が記憶と重なる。好奇心を瞳にきらめかせた、壮年の男。
メモをめくる。男が横須賀に呼びかけた名前は『たっくん』。藤、桐、五月。竜胆は竜郎の竜からだ。たっくん。
なおさなきゃ、と男は言っていた。
「太宰桐悟は逸見藤悟よりも動けるというだけで、あの男もイカレていた。会話が出来るようで出来ていない。兄が壊れてしまったのを直す方法があると言っていた。逸見五月は太宰桐悟の無事を喜んだが、その直す方法との言葉で動けなくなった。逸見五月は既に罪を犯していたからだ。あの現場から逃げ出したこと、喜んだこと。すべてを見透かされる心地だった。太宰桐悟は支離滅裂な、それでいて逸見藤悟を治すためというところだけは一貫した言葉を繰り返した。逸見藤悟を治せばすべてが戻る、神様に方法を聞いた、あとは試せばいい、治そう、治す。そんな感じのことを繰り返した」
山田の顔が痛々しく歪む。それでも歯を食いしばるようにして、山田は言葉を止めない。
「逸見五月はそれを止める言葉を持たず、同意することも出来ずに身動きができなくなっていた。手伝ってね、と太宰桐悟は言った。寂しくないよ大丈夫、またみんな一緒だ。そういうことを繰り返して、太宰桐悟はなにやらぶつぶつと呟きだした。それから突然、どん、と病院が揺れた。地震だ。そう思った逸見五月は、その揺れの先である窓を見てしまった。――窓は、真っ黒い穴が開いていた。塞がれている、と考えてもいいのに、認識したのはそれだ。まるでそこにはもうなにもかも存在しないようなのに、びた、びちゃ、ぐちゅ、と耳を塞ぎたくなるような不愉快な音とともに黒が動いた。悲鳴を上げることもできず、逸見五月は目を逸らせなかった。震える逸見五月を見たからか、太宰桐悟は『だいじょうぶ』とやけに優しく言った。母の声が頭の中で重なった。大丈夫、なんてなにを指し示しているというのか。ずり、ぐちゅ、ずちゃり。なにもかも存在しないような黒は、確かに音を立てて動いた。――そのまま兄を覆った」