台詞の空行

10-3)問いかけ

「ひとつだけ、確認は出来ます」

 手のひらがしびれる。恐怖による掻痒そうよう感を紙に押しつけてもざわつくものは静まらない。まぶたが痙攣する。

 横須賀は二度三度と小さく唇を震わせてから、ようやく口を開いた。

「推論だけでない、物理的証拠。どうしても貴方が失うことが出来ないものがあります。それは似ているとか似ていないではなく、貴方が隠したことを証明する。――貴方が女性であることを証明の一つに使うのなら、簡単です。無理矢理でもその服をはぎ取ってしまえば答えがあります」

 これだけは、どれだけ隠しても答えが存在する。自分の言い放った言葉に横隔膜の上、あばらの裏が痛む。

 それでも山田は、笑った。頬杖をしていた右手がゆらりと持ち上がり、く、と持ち上げた顎と襟の隙間に人差し指が伝い入る。

「無理矢理はぎ取るか、それともストリップショーがお望みか?」

 ひゅ、と横須賀は喉を鳴らした。吸い込んだ息を飲み込むことすらろくに出来ない。圧迫された胸から酸素を押し出そうとでもするように、横須賀は自身のシャツの上からぎゅっと押し握った。

「そうじゃない、です。違う、俺は、俺が言いたいのは」

「違わねぇだろ」

 否定する山田の声は、不思議なくらい穏やかだ。背中を椅子に預け直し誘うようにネクタイを引く山田の表情の意味を、横須賀は理解しない。ぞわぞわと恐怖が内側で回る。否定を繰り返し、横須賀は首をぶんぶんと横に振った。

 その所作から目をそらすように横須賀は顔を両手で覆い、体を丸める。山田を問いつめているのは横須賀なのに、まるであべこべのようだった。

「違います、俺はそういうこと苦手で、無理です。できない、こわいんです。そしてそれ以上に、俺が言いたいのはこんなことじゃないんです、ほんとは、ほんとは俺は」

 ひどく苦しげな声に、山田がネクタイから手を離す。呆れたようなため息は同時にやはりと言うような色があった。

 ぎゅ、と顔を覆う両手が固く握りしめられる。何度か呼吸を繰り返し、ようやっと横須賀は両手をノートの上に置き直した。青白い顔から縋るような瞳が山田を貫く。

 はく、と呼吸を整え直した横須賀の唇が、ようやく開き直した。

「本当は貴方が誰であるかなんて、俺にとってはどうでもいいんです。貴方が言わないのなら俺は聞きません。貴方になにがあったのか、知らなくてもいい。俺にとって貴方は山田太郎です。男とか女とか、本当の名前だって俺には必要ないです。貴方が山田太郎で、俺をワトスンと呼んで。貴方がそれでよければいいんです、俺は、暴きたいんじゃない。けれど貴方は、俺をいらないと言った」

 言葉の羅列はぶつ切りな音で、それでいて止まらない。泣き出すのか喚き出すのか、そういう切迫感はしかし横須賀の言葉を押し出すだけでそれ以上にはならない。

 へたくそな言い訳を山田はじっと見返す。笑みの消えた表情は山田がなにを考えているのか伝えない。

「いらない、を信じるのは、無理です。貴方になにかあったらと思いました。貴方の見ている先が、貴方が嘘を吐いた担保にした未来が、考えると怖い、怖いです。それは俺にとって自分勝手で、でも貴方は俺を使ってくれて。そうして調べてしまったから、俺は余計、俺」

 支離滅裂になりつつある言葉がそこで途切れた。は、と短く息を飲み込んで、横須賀は震える唇を引き結ぶ。山田の表情は変わらない。飲み込んだ多くで詰まった喉を広げるように、横須賀は長く息を吐いた。

「お兄さんがホームズ好きで、貴方は読まなかった。そのことを知って、俺は貴方にとってのワトスンを考えました」

 切り替えるような横須賀の言葉にも、山田は反応しない。先ほどまでの笑みも消えたままで、横須賀は震える手を握りしめる。

 山田のサングラスに映る男はひどく情けない顔をしていた。けれどもサングラスに映る姿をそのまま貫くように、横須賀は視線を逸らさない。

「二人の関係は探偵と助手と考えられることが多いらしいですが、実際のところは少し違うように俺は思いました。それよりも作中で、彼がワトスンによくかける言葉があります。――それを貴方は、お兄さんから聞いていた」

 その言葉を横須賀が言うのはあまりに勝手に思えた。それでも横須賀は言葉を並べなければいけない。それに、その言葉に縋らなければ結局横須賀にはどうしようもできないのだ。ノートの文字を拳の内側、指の背で押す。

「お兄さんから貴方が聞いたことは、彼らの友情です。お兄さんは推理とは別の部分で作品を愛していたのではないでしょうか。度々聞いて、貴方にとってホームズとワトスンは随分と特別な印象になっていた。彼らの友情を、貴方は近く感じた」

 山田の表情はずっと変わらない。横須賀はふ、と息を吐いた。元々丸めていた背がさらに縮まり、山田を見据えていた視線はノートに下りた。

「ワトスン程度にはなってもらう、って、貴方は言いました」

 これまでで一番小さな声は、それでも山田の前に届いた。サングラスに映る自身の姿さえ見ず、ひどく青い顔で横須賀は言葉を続ける。

「貴方にとってのワトスンが、お兄さんの示したものだったとして。だとしたらその言葉は貴方が一人にならない為の言葉だったんじゃないでしょうか。貴方が俺を選んだのは、使いやすいだとか偶然だとかだったかもしれません。けれどもワトスンを求めたとき、貴方は一人を選んでいなかった、誰かがいることにメリットを見たはずです。もう必要ない、なんてそんな、だってワトスンなら」

 少しずつ喉を通る空気が増える。言葉を連ねているのは横須賀なのに、俯いたままの様子はまるで叱られることに怯える子供のようでもあった。

 求めてはいけないことを知りながら、あめ玉をねだる子供。

 ひゅ、と、喉が鳴る。

「ワトスンなら、傍にいることが普通なはずです。貴方が俺をいらないって言う理由はわかりません。本当に邪魔だというなら、貴方にとって俺が本当にいらないのなら、俺はどうしようもできない。でも貴方が隠している過去だとか、昔の事件が理由なら、まだ足りないなら俺はやっぱり調べます。知ります。考えるなと言われても、そんなこと出来ません。だって、だって俺は」

 そこで横須賀は言葉を切った。ノートの上では固く拳が握られたままだ。それではもう文字が追えないだろうことを、山田は指摘しない。

 まるでそれが一等悪いことのように身を固くして、横須賀は震える唇をわずかに開いた。

「俺は貴方のワトスンなんでしょう……?」

 静かな声は唇と同じく震えていた。返事はない。俯いたままの横須賀の顔は臆病をそのまま形にしていた。泣き出しそうな表情は、俯きすぎて山田には見えないだろう。

 ノートを卵のように抱え込んだ横須賀は、さらに小さくなった。そのまま膝を抱えるのではないかという所作で、横須賀の視界は文字で埋まる。

 ワトスン、と、山田は確かに何度も言った。その事実に縋るように、横須賀は声を押し出す。

「それとも俺は、貴方のワトスンに成り損なったんですか」

 細い声の言葉は糾弾でも追求でもない。問いかけであって問いかけにも足りないそれは、酷く臆病な懇願にも似ていた。