台詞の空行

第十話 なまえ(後編)

10-1)話を、しましょう。

「話を、しましょう。――逸見五月さん」

 横須賀の言葉に、山田は表情を変えなかった。押さえた扉をさらに開け、横須賀が中に入る。

「出ていけ、話すことはネェよ」

 山田の声は平時と同じだ。先ほどからの不機嫌そうな声ですらない。後ろ手で扉を閉める。

 鞄の紐を握り直した横須賀は、するりと顔を背けた山田の背を追う。

 事務所の入り口側は手洗い場、そのまま進んで横は給湯室。反対側には死体部屋。そういう通路を通って応接室の入り口で、山田が振り返る。

「営業妨害で追い出されてぇのか」

「まだ俺は事務員でしょう」

 休みを出されたとは言え、再就職の期限までまだある。眉を下げた気の弱そうな表情とは対照的に、横須賀ははっきりと言い切った。山田の眉間に皺が寄る。

「話をしたいんです」

「逸見五月、とかいう人間についてか? 唐突だなァおい。ヒデェ顔で寝ぼけたこと言ってないで、おウチで寝てろ。そんなツラじゃまた就活失敗するぞ」

 はっ、と山田は笑い捨てるように言葉を連ねると、くるりと反転した。ポケットに手を入れて馬鹿にしたように歩き出す小さな背中、細い手足。伸びた背筋と言葉で奮う姿の意味を、横須賀はおそらく推察できる。

「貴方と話がしたいんです、逸見五月さん。……俺の物言いが貴方に向かっているくらい、わかるでしょう」

 山田の歩みが、机の手前、部屋の中央で止まる。山田は右足を引くようにして向きを変えると、横須賀を見上げた。その眉が寄り、左側の眉尻が持ち上がる。一緒に口角も。嘲笑じみたそれは呆れも含んでいるようだった。

「座れデカブツ。テメェの寝言に、俺の貴重な時間をやるよ」

「有り難う、ございます」

 促されたのは客用の椅子。静かに頷く横須賀に、山田は笑い声に満たない息をもらした。

「ホント、イカレてんな」

 返答のように横須賀は鞄の紐を握りしめる。関われないよりはそれでいい。だから、否定はしなかった。


 客用のソファに浅く腰掛ける。対する山田は深く腰を下ろし、面倒くさそうに横須賀を見上げた。

「俺は話すことなんざネェぞ」

 短い言葉は横須賀に促さないという宣言だろう。横須賀は頷いて、鞄から封筒の挟まったノートを取り出した。

 膝の上で開くと、癖のようにペンをノートに載せる。封筒は机の上、横須賀の右手側手前に置いた。

 深呼吸にもなりそこなったような息を吐く。さほど経っていないのにひどく懐かしい心地だ。客用のソファで山田に対するのは、おそらく形ばかりだと言った一番最初の面接の時以来だろう。

 あの時と違うことはいくつかある。それは話すのが横須賀で聞くのが山田という点であることだとか、横須賀の手元には文字があることだとかで、横須賀は真っ直ぐと山田を見下ろした。

「お時間をくださり有り難うございます」

 腕を組んだ山田は答えない。横須賀は手元の文字を撫でると、一度唇を引き結んだ。

 山田はきっと横須賀の言葉を拾わない。だからこそ、横須賀は丁寧に並べる必要がある。

「――俺が知らない、そのことが原因で貴方が俺を使わないなら、と思い、いくつか調べさせていただきました。幸い、逸見裕也さん、咲子さん、藤悟さん、五月さん。ご家族についてと、太宰さんご兄弟について簡単にお話を聞くことができました。貴方がどなたであれ太宰竜郎さんがご友人なんです、無関係では無いでしょう。――もし無関係でも、お仕事のことからリンさんに相談されないとは考えづらいと思います」

「テメェの勝手な推測だな」

 は、と山田が笑う。横須賀は頷いた。

「ええ、勝手な推測です。ですが貴方は時川晴悟さんに対し『社長』と声をかけました。晴悟さんが社長職についていた時期に会ってらっしゃったのではと思い話を聞いて、俺は貴方が逸見五月さん、もしくは逸見藤悟さんだと考えました」

 机に置いた封筒を手に取り、開く。以前の履歴書と違い随分と小さい封筒の中身である一枚の写真を、横須賀は机の中央に置いた。見えやすいように向きを逆さに置いた写真に、山田は一瞥しただけで表情を変えない。

「『死体部屋』を整理した時、雑多に物があったと記憶しています。整理した内容をまとめたノートがないので具体的にいえませんが――その中にワンピースがあったことは、はっきり覚えています。それも、俺は片づけるときにゴミだと思っていない。修復しようという考えも持たなかった。普通、布は管理を雑にすればある程度ボロくなる、と、廻り池で山田さんが教えて下さったように、服だってきちんと管理しなければ虫に食われて穴が開いたりするでしょう。汚れだって目立ってしまう。
 それでもあのワンピースは俺が意識しないくらい綺麗だったはずです。デザインまでは覚えていません。でも、隣の部屋に行って写真の女性と同じものかどうかを確認するくらいは、すぐなはずです」

 横須賀の言葉に山田はソファに背中を着けると、足を組んで顎を持ち上げた。否定をしないが肯定もしない。興味もなさそうだがそれでも先に続けることを許された心地で、横須賀は続く文字をなぞる。

「事件についてはあまり調べられていません。けれども体がぐずぐずになった、という状態に近いものを俺は知っています。貴方が探してきたものとか、俺の知らない部分も繋がっていると思えました。逆に言うと貴方は多くを語らないから、余計にこれが貴方にとって大事な事件なのだと思えたんです」

 手のひらがざわつく。反応が無い中で自身の考えを連ねることは落ち着かない。鳩尾あたりに空気が溜まったような奇妙な息苦しさを覚える。それでも横須賀はあえぐように息を吸うと、じっと山田の首元を見た。

「貴方はあまり嘘を吐かない人です。吐くとしたなら最低限。そうした慎重さでほころびが目立ちにくいのかもしれませんが――だからこそ考えれば全てが答えに繋がっていく」

 踏み込む行為だと思う。もしかすると踏みにじる行為なのかもしれない。けれども横須賀はわかってここにきた。だから、止まらない。罪悪感におぼれながらも、息継ぎを浅く繰り返すようにして言葉を形にする。

「山田太郎という名前の意味を考えました。普通にあり得る名前です、実際存在する。けれども同時に、あまりに見かけすぎて嘘のような、偽名と感じられやすい名前でもあります。身分証を持たずに名刺だけ、自身の見え方がわかる貴方が使うには偽名らしすぎる。逆に言いましょう、貴方は偽名と思われるためにこの名前を選んだ。貴方はこのわかりやすい嘘を、一つ目の嘘にしたんです」

 嘘の吐き方を山田は語ったことがある。嘘を吐くコツのひとつは最低限。嘘は未来の自分を担保に借金をするようなも。短期間で踏み倒すものでないのでしたら出来る限り少量。嘘を追求されたときに嘘と本当を混ぜることを代田に提案したのは山田だ。