台詞の空行

9-15)早朝、探偵事務所にて。

 * * *

 山田の周りには、無駄が少ないように思う。死体部屋には物が溢れているのに、事務所も、その周りもゴミらしいゴミがない。

 階段を上りながら、足下の砂利を見る。汚れは溜まるものだ。掃除に誰かを雇っていない限り職場の人間がする仕事の一つで、横須賀は清掃人を見ていない。クビと言われるまでは横須賀が掃除をしていたが、勤める前の階段もおそらく汚れていなかった。

 初めて事務所を訪れた時、足元ばかり見ていたから汚れていたら気づいたはずである。目立つような物はなにもない。人を招くことに積極的でないことは飲み物の在庫がないことから想像できるが、その割に事務所は寂れることなく、ひとつの当たり前のように存在している。

 そもそも山田はきっちりした人だ。オールバックはがっちりと固められていて崩れない。前髪が作られていないから整った眉がよく見える。眉尻がつり上がるように描かれた細眉は特徴的で、強い意志を伝えるようでもあった。赤い細身のネクタイが、細い首元できっちりと結ばれている。ワイシャツはノリが効いていて、横須賀のゆるりとしたシャツと違い襟の先までぴっちりしていた。細い黒の革ベルトもその細腰を締め、ワイシャツの線をきれいに出している。横須賀のベルトは使い続けた結果金具の食い込む部分がくたびれているが、山田はそういう様子もない。革靴だって綺麗だし、整理をする割に他が意外と雑な横須賀と違い山田は身につけるものから全て見え方を意識しているようだ、ということにようやく意識が巡る。

 深爪、指先、大仰なため息、半分だけ歪めたような笑い。ノートを広げて、横須賀はこれまで見てきたことをなぞった。この時期の朝は冷える。山田だったら座らないだろう床に座って、事務所の扉に背を預けた。いつも丸めた背筋は歪んでいて、背中を反らせるとじんと伸びる。少しだけてのひらがじとりと濡れているようで、横須賀はワイシャツで手を拭った。

 こういうところが、横須賀は雑なのだろう。山田ならきっと、そうはしない。

 体を曲げ、大腿部に広げたノートを滑らせる。空いた膝に頬ををつけると、少しだけ横須賀は息を吐いた。大きな体を縮こまらせる方が、横須賀にとってはなんとなく馴染む。自身の熱は、一番近くの温もりだ。

 しん、と空間にただ存在する。ひとりは別に寂しさではない。横須賀にとってはなによりも近しいものだ。

(あ)

 耳が音を拾う。チャックを開けたままだった鞄にノートを差し込んで、慌てて閉じる。ジジジと響く音は大きいが、上から響く音に変化はない。立ち上がるのに倣って鞄も上がる。重い。けれどもそれも、横須賀にとっては当たり前だ。

 息苦しさに、浅く呼吸を繰り返す。時間を見れば六時五十五分。横須賀の仕事時間は八時半。早すぎることを山田は好まず、最初に通勤経路と時間を確認されたのを覚えている。

 山田の時間はそれに比べて随分と早いようだ。きっとこんな機会がなければ知らなかっただろう事実に、横須賀は少しだけ眉を下げる。

 足音が近づく。一度止まって、しかしすぐに同じリズムで進んでくる。

 山田を見上げる時間はほとんどない。横須賀を見たはずのその目はサングラスの奥でわからず、いないかのように表情を変えない。

「おはようございます」

 吐き出すような横須賀の声にも反応はない。扉の前に立つ横須賀を見上げもせず、山田は鍵を取り出した。

 チャリ、と金属が音を立てる。

「あの、今日は俺」

 鍵穴を後ろ手で塞ぐよう手を伸ばし、横須賀が言葉を降らす。眉尻がぴくりと上がる。ようやっと向いた顔は不機嫌を形作っていて、サングラスに映るのは横須賀の姿だ。濃度が高すぎる、真っ黒いサングラスは最初からなにも変わらない。

 山田のつま先が床を鳴らす。

「なんで来た、なんて聞いてやるつもりはない。帰れ。書類関係他なにかあるならリンに。そう言ったはずだ」

「あの」

「退け」

 短い言葉と共に、山田が横須賀の腕を押し退ける。ひゅ、と息を飲む音が鼓膜の内側で五月蠅く、しかし横須賀はその音を飲み込むように唇を引き結んだ。

 鍵が開く。扉を押さえる。

「……おい」

 言葉を選ぶには足りない。拒絶に対し為す術など持ったことがないのに、それでも横須賀は手を退けなかった。はくり、となんとか繰り返した呼吸、全てをリセットするように一度閉じた瞳、開いて見えるのは不機嫌そうな山田の顔。

 今ここで全てを語るには、あまりに足りない。だからといってこのままでは山田の拒絶を横須賀は無くせない。体格差よりもはっきりとした距離は横須賀にとってどうしようもできないもので。

「帰れ」

 拒絶、命令。けれどもあの他人事のように遠い優しい物言いよりも、ずっと近い。

 だからこそ、今しかないのだと思う。この場所、この瞬間。まっすぐと山田を見下ろす。手のひらのざわついた心地は、握り隠す。

 半端な言葉では簡単に切り捨てられる。ならば。

「――話を、しましょう。」

 静かに横須賀は、言葉を吐き出した。

(第九話「なまえ(前編)」 了)