9-14)積み重なったラブレター
平坦な声で告げると、日暮は横須賀を見た後視線をまた手元に戻しカップを持ち上げた。口を付けるのに空いた間は少しで、また一口残ったコーヒーを飲み込む。
凡庸なロボットのような男だと山田は言った。表情読めたら誇っていいとも言っていた。横須賀にとって日暮の表情は、相変わらず違いを読みとれるものではない。
「俺は、恋とか、そういうのわからない、です」
そもそも横須賀にとって恋は遠く、近く考えようとすればどうしても恐ろしいと思ってしまうものでもあった。横須賀にとっては考えたくないこととも言える。別に誰かに叱られたわけでもないのに恐怖に近いものを感じる理由は、多分晴悟が伝えた自身の出生からだろう。
当時は気づかなかったが、もしかすると気づかないなりにも母の傍でなにかを察していたのかもしれない。それはひどく罪悪のようでもあり、しかし同時に母と暮らした証のようでもある。
あまり当時を考えることを横須賀は得意としない。けれども、ひとつだけわかっていることがある。横須賀は、人の語る思いが好きなのだ。おそらくそれ故に横須賀は、人を見ることが、本を読むことが、知ることが好きなのだろう。覚えられない一過性だとしても、その時見つけた人の感情だとか、そういうものと触れられる故に言葉との時間は、確かに横須賀にあった。
遠いそれらは、相変わらず綺麗な形でそこにある。だから。
「わからないです、けど、日暮刑事は、必要のない嘘を付かないと言いました」
だから、多分横須賀に言えることはそれだけで十分なのだろう。いびつだけれどもどうしようもなく、横須賀は笑みを浮かべた。
「ラブレターは好きな人に書くものだって、俺でも知ってます」
日暮がなにを考えているのか、表情ではわからない。だとしても、日暮がなにも考えていないわけではないと、言葉が、指が、彼自身が伝えてくる。
横須賀にとって与えられる言葉は、そのままの意味を持つ。嘘を付かないのなら、日暮の言葉はこれまで日暮が語った全てを示す。日暮の書き続ける思いを否定してしまったら、横須賀の手元にはなにも残らないことになってしまう。
「……君は、本当に素直だな」
「日暮刑事が正直なんです」
素直という言葉にどこまで同意すればいいかわからないまま、横須賀は言葉を重ねた。そうか、と日暮は浅く頷いた。
「……そうだな。嘘を吐かないとは言わないが、正直であろうとは思っている。逸見は正直を好む人だった」
言葉が落ちるのを聞いて、横須賀はコーヒーに口を付けた。冷めた苦みが少しの酸味を運ぶ。カップを置くと、日暮がぱかりと口を開いた。
「俺に話せることは話したと思うが、他になにか聞きたいことはあるか」
「あ、えっと」
言葉に横須賀はメモ帳を撫でた。少し筆圧で凹んだ表面。アルバムの中の少女と、日暮の言葉。紙の隙間に指を差し込んで、横須賀は顔を上げた。
「当時なにか、オカルトで流行ったこととか、ありますか?」
「単純なのはどこでも流行る学校の怪談。これは特別なにかあるようではなかった。気になる話なら
日暮の言葉に、横須賀はメモに小さく書き記した。次いでポケットから付箋を取り出し、メモに貼る。星陵の森という文字は太宰の職場でも見たものだ。
「星が落ちて、黒い穴に星以上のまばゆさで気が狂う。星の言葉で知恵を、近づきすぎたら声を奪われる。隕石でも過去に落ちたのか、それとも地震などの方面かはわからないが教訓か何かなのだろうが、今の仕事から考えると気になる言葉が多い民話だ。多少調べてはいるが、君に話せる範囲と守秘義務が少し複雑でな。すまない」
「いえ、有り難うございます」
あの日見た資料以上にはわからないのだろう。そもそも元々横須賀は当時の事件を暴くつもりはなく、その技量もないことをわかっている。特に戸惑いもせず、横須賀は頭を下げた。
もしかすると三浦の事件の前だったらまた違ったかもしれないが、おそらく土地柄、あの場所にも少し関係してしまったのではないだろうかという推測も素直に立てられた。横須賀には調べきれないものの、平塚が言った個人の正義と全体の正義、そして公平という言葉を思い出す。既に昔となった事件でありそもそも事件被害者とクラスメイトだった日暮が仕事で関わる機会は少ないだろうから、過去の事件というよりは一番最近の事件との関係で話せないのが自然だ。
ただどちらにせよ日暮が話さないと言ったことを横須賀が聞き出せないことに変わりはない。それは横須賀だからではなく、日暮が警察であり、公人であるかぎりは無理なことだからだ。
「あの」
ぱり、と小さくメモ用紙が歪む音と一緒に、横須賀は小さく声を落とした。日暮が横須賀を見る。
「ホームズの話、を、していたって」
ホームズという単語について、横須賀は馴染みがなかった。名探偵ホームズとその相棒がワトソンであるくらいの知識。それとかろうじてハドソンとかいう下宿先の女性の名前。話の中身が推理小説である、まではなんとかわかるという横須賀は、しかし探偵事務所に勤めてから全巻を読み切った。勤め先が理由のようで、それは少しだけ違う。
山田は一番最初に、横須賀に言ったのだ。相棒の名前を。たびたび口にされる言葉は、追いかけた文字よりも随分と大仰で、しかし横須賀にとってはあまりにきらめいていた。
ああ、と日暮は平坦に頷く。
「正確には兄がホームズを好んでいたという話だ。兄はオカルトと推理小説が好きらしいことは言ったな? ただどちらかというとホームズに関してはそのトリックとかよりも彼らの友情を好んでよく話していて、読んでいないのに二人のことだけはわかった気持ちになってしまう、なんて逸見が話しているのを聞いている。逸見はそういう兄の話を聞くのが好きで、逸見自身は読んでいくとも時折兄の話と一緒に話題に出すくらいには彼女にとっての日常だったんだろう」
「日暮刑事は、ホームズを読みましたか?」
ページをめくらない故になにも写真が変わらないのにも関わらず、再度アルバムの上をなぞるように眺める日暮に横須賀が尋ねた。メモの小口を指の腹で押したせいで、紙が少しだけ弧を描いて浮く。
日暮は横須賀の所作を特に気にせず、やや大げさに肩を竦めてみせた。
「……まあ、読んだ。聞かれることが無いにしても、知っておけばもし機会があったときに話せることが多いだろうという男心ってやつだ。覚える為だったからな、今でも内容をそらんじることが出来るぞ」
「すごい、です。登場人物、俺、全部は無理で。全員、ですか?」
多少は覚えてられても、メモをとらないと忘れてしまう。そういう横須賀に日暮は男心だからな、と平坦に頷いた。無表情故に神妙にも見える所作に、こくり、と横須賀も頷き返す。とん、とん、と日暮が指先を机に押しつけた。
「シャーロック・ホームズ、ジョン・H・ワトソン、ハドソン夫人にマイクロフト、メアリー、レストレード警部にグレグソン警部、モリアーティ教授にアイリーン・アドラー。有名どころはこのへんか。細かいところだと、一応事件関係者も言える。意味はなかったがな」
名前と一緒に小さく指先がリズムをとり、しかし最後は少し自嘲のようでもあった。表情も声も変わらないが、ぐ、と丸め込まれて隠れた指先に横須賀は眉を下げる。
「意味はあります、よ」
「そうか」
横須賀の言葉を慰めととったのかそれともただの事実としたのかわからないが、日暮はただ平坦に頷いてから残ったコーヒーを飲み込む。横須賀も日暮の所作に倣うようにカップに口を付けて、それがしまいの合図だった。
「今日は、有り難うございました」
「こちらこそ有り難う」
鞄を抱えていつものように背を丸めながら頭を下げる横須賀に、扉を押さえながら日暮も頭を下げ返した。大きな体なのに見下ろすと言うより伺うような様子に見えるのは、横須賀の特徴だろう。す、と足が後ろに引かれるのを見て、日暮は横須賀を見上げた。
「俺は後悔しているが、今の自分を恥じるつもりはないんだ」
ぱちり、と長いわけではないが厚い睫が不思議そうに瞬く。歳よりも少し幼く見える表情を、しかし日暮は見据え続けた。
「俺は俺自身が覚えている彼女の倫理を、優しさを形にしていく。たとえ山田が、君が望もうとも、俺は警察として、そして日暮雨彦として道理から外れることを見逃すつもりはない」
静かな宣言。山田には度々繰り返したそれを、日暮は横須賀に掲げた。ぱちぱちと瞬く青年に見合わないかもしれない言葉は、しかし横須賀の笑みでそのまま受け止められる。
「大丈夫です」
声は、ひどく穏やかだった。日暮の真っ黒な瞳に、横須賀の情けない笑みがある。
「山田さんは、大丈夫です」
重ねられた言葉は静かな断言だった。日暮の視線から、横須賀は再度の一礼で外れる。
「君は」
「有り難うございます、お言葉、大事にします」
それだけ言うと、横須賀はするりと反転した。続ける言葉は出る先を失う。
別に横須賀は走ったわけでもないし、長身の歩幅とはいえ見える背中は追いかけることが可能な距離に留まっている。それでも日暮は見送るだけで終えた。
とん、と日暮の指先が扉を打ち鳴らす。
「……答えなかったな」
とん、とん。二度の小さな音。いや、と平坦な声が重なる。
「やることは決まっている」
それが例え望まれないとしても。小さな呟きは、しかしはっきりと日暮自身を形作っていた。
(リメイク公開:)