台詞の空行

9-13)悔恨

 少しだけ、日暮の頭が下がった。写真を見ているのか、それとも一礼になったのか、はたまた頷いたのかすらわからない半端な形が、ゆっくりと戻る。横須賀を見る表情は、張り付いたように変わらない。

 ぎゅ、と眉間に皺だけが寄る特徴的な表情。

「それなのに俺は、当時なにもできなかった」

 懺悔だ。それまでどれとも付かなかった理由が、その一言にあった。相変わらず平坦な声で、それでも日暮は自身の足りなさを形にすべく身を固くしている。

 それでも横須賀は懺悔を受ける神父になり得ない。ただその行き場のない告白を聞いている。

「七月八日、逸見藤悟、太宰桐悟の両名が行方不明になった。逸見藤悟は十一日に発見された。詳細を知らなくとも、クラスメイトの兄のことだ。すぐ噂になった。話すことも出来なくなったとか何もわからなくなってしまっただとか、おかしくなってしまったのだという心ない噂もあった。その噂が事実かどうかなんて子供には判断できない。大事なことは彼女の家族の不幸が存在するという事実だけだった。
 彼女をクラスメイトが心配し、彼女はそのことに感謝していた。……白い顔で、それでも祈るように、背筋を伸ばしていた。ほとんど女子が周りにいたし俺は声をかけることもできなかったが、目があったときに申し訳なさそうに会釈をされたのを覚えている。――そのまま、夏休みに入ってしまって、俺もクラスメイトもただ案じるしかできなかった」

 ふと、日暮は自身の拳を包むように右手を左手に添える。す、とまるで無いのが当たり前のように皺が消えた。表情はそれが当たり前のように、能面に戻る。しかしその変化は贖罪が終わったと言うよりも逆で、どちらかというと日暮の視線は過去に過去にと向かっているようだった。

 真っ黒い瞳がコーヒーを映そうが、黒に黒は映えない。

「八月、逸見の両親が亡くなった。遺体の損傷はひどく、棺は空だったと噂されている。どろどろになったという話があったことから、その可能性は高いだろうとも思えた。
 夏休みだったものの、逸見を案じたクラスメイトが葬儀に向かった。事件のこともあって色々と大変だったんじゃないか、と思う。俺もなにが出来るわけではないけれど、逸見のことが心配で向かった。母親に頼んで葬式の作法も調べて、なにかせめて一言。そう思った。……思って、向かったんだ」

 言葉が途切れる。日暮の静かな目は横須賀を映さない。日暮の指先が白む。

「鯨幕、泣く人、なにか囁き合う人、喪服。日常とはっきり分けられた空間で、逸見を見た。逸見は相変わらず背筋を伸ばしていて――白い顔、はれた目元、いつもはきっちりとしていた三つ編みが少しほつれて、眉間に皺が寄っていた。声を、そう思った。声をかけたかった。けど」

 相変わらず声は平坦だった。さきほどの皺など嘘みたいに表情もまったいらで、言葉だけが続いていく。ただ羅列する言葉。ぱらぱら、ぱらぱらと、平坦なのにそれは零れていく。

「……傍には高校生の、きれいな顔の男がいた。すっと伸びた鼻筋、長い睫、逸見と同じように赤く腫れた目元すら色にしてしまうような整った顔の男だった。逸見に寄り添うその人は近くて、逸見は時折泣きそうな顔で彼に囁いていた。――本当に馬鹿だと思う。あまりにも自分勝手な感情すぎて自分で自分を馬鹿だと殴ってやりたいが、それでも当時の俺は、その光景に動けなくなった。声を、かけられなかった」

 同じ語調、流れる言葉。早口でもないのにぱらぱらと落ちる言葉に、ああ、と横須賀は内心で嘆息した。横須賀は日暮の思いを理解できない。かける言葉を持たない。日暮の表情も声も、横須賀が理解するにはあまりにも無機質だ。

 けれどもそのあふれ出る言葉は、まるで涙のようだった。泣きじゃくる子供の、止めようがない涙。平坦な声なのにあふれるしかない言葉は、懺悔の吐露だ。

「中学生からしたら高校生は随分大人に見えた。たった一つ二つ程度の歳の差ですら、あの制服だけで遠くに見える。そんな人間が逸見の傍にいた。逸見の白い顔、耐える姿に寄り添ったのはその男で、情けない話嫉妬だとか困惑だとか、あんなに苦しんでいる逸見に対してあまりに身勝手な感情だったと思う。自分が声をかけたところでなにも意味がないのだと思った。
 俺が知っている彼女は、花で言うなら蒲公英のように、そっと優しく笑う少女で。いつも穏やかで、人が好きで、見守って。――その彼女を見守る男に、俺はなにもかも届かないと思ってしまったんだ。
 当時の俺からすればすらりと背が高い男に、俺は並べないと思って。それすら身勝手だと、今なら言える。それでも俺は当時、結局彼女に声をかけなかった」

 おそらく、その男は太宰竜郎だろう。晴悟の言葉から判断は出来る。けれども当時の日暮は知るわけもなかった。親戚だと思っても、それだけの意味に留められなかったのだろう。平坦な声は、はっきりとした後悔を形にしていた。

 ゆっくりと、日暮の顔が持ち上がる。

「八月二十日、彼女は兄である逸見藤悟と一緒に行方不明になった。俺は未だに、なぜあのとき彼女に声をかけることを選ばなかったのか、そればかりを考えている。たとえ声をかけても変わらなかったかもしれない。けれども声をかける人間が多ければ、彼女が頼る相手も増えると言うことだ。数があれば可能性も増える。もしその時声をかけて、兄の見舞いに付き添えたら。そんなことができるほど親しい関係ではなかったけれども、それでもやらなかったよりもやったほうが可能性が高かったはずだ。俺はその機会を、自分のちっぽけな感情で消した。――彼女に救われたのに、俺は彼女になにも出来なかった」

 日暮の言葉に、横須賀はじっとその瞳を見返すだけしかしなかった。頷くことも、否定することも出来ない。その過去は日暮のものだし、なにより否定の言葉を続けようにも、日暮の言葉はあまりにも完結していた。

「逸見は優しい子だった。俺は結局なにもできなかったが、だからこそ彼女の正義のような優しさのような、彼女が見てきたものを形にしたかった。彼女が行方不明なら、探せばいい。もし彼女が生きていたら頼りたいと思える存在になりたい。警察が、社会が、彼女のようなひとりになってしまうひとの傍に寄り添えれば。当時はそんなことを考えて、警察の道を選んだ。彼女の事件はプライベートで調べていたが、結局多くを知ることは出来ていない。君に語れる逸見については、これくらいしかない」

 言葉は、そこで切れた。日暮がカップを手にする。蒲公英とハムスターの絵は、ただ静かにそこにある。

「……余計なことまで話しすぎた」

「いえ」

 ぽつりと落ちた言葉に、ようやく横須賀は否定を差し込んだ。そうか、と頷いた日暮はコーヒーを飲み下す。

 カップがゆっくりと机に下りた。

「大事な人のお話が聞けて、よかったです」

 メモを撫でて横須賀が言葉を続ける。少しだけ睫が震えるのを見ながら、今度は日暮がいや、と否定を差し込んだ。

「確かに大事で、今でも彼女は俺の指針だ。――ただ今俺が話したのは、どのみち自分勝手でしかなくて、今俺が追いかけて探していることも、結局は変わらず勝手なんだと思う。だから多分、そんな綺麗なものじゃないんだ」

 日暮の視線が、もう一度開いたままのアルバムに向かった。笑う少女はずっとそのままそこにいる。写真と人は交わらない。

「初恋だったが、今のこの感情まで恋なのかはわからない。話したように、俺はずっと声をかけなかった、言葉にしなかった後悔を思っている。今も追いかけているのは、当時の俺が知る彼女だ。
 仕事で関わる人たちのことを見ていないわけじゃない。見なければそれこそ彼女の指針を俺は形に出来ない。でも、ずっとその時ばかりで、俺は今を見ていないのかもしれない、とも思う。……友人にも妄執だと言われた。確かに妄執で、不健全で。それこそ逸見自身の願いや理想を全部ねじ曲げて、俺が勝手に作った逸見五月という像にだけすがり続けているのだとも思う」

 言葉が途切れた。視線が、アルバムからカップに戻る。

「俺にとっては確かに逸見五月、彼女の話だ。けれども本当に彼女の話なのかはわからない。恋心なんて純粋さもない。歪んでいる。それでも、君が望むなら伝えられる彼女は、俺にとってこの形しかない。俺は、俺だけは彼女を」

 口が閉じる。表情は変わらず、カップを握る手も、カップの中も揺れない。声も日暮の内心を伝えない。それでも日暮の言葉は、ひどくまっすぐと感情を形作っていた。

 ぱかり、と口が開く。

「――いや、俺はただ俺の中の彼女を失いたくないだけだ。やはり勝手でしかない。すまない、話しすぎている」