9-12)記憶の彼女
言葉の後、す、と指が引く。横須賀が頷いたのを見て、また指先が小口を撫でた。
ぱかり、と開いたページには、文化祭準備の文字。楽しげに笑うクラスメイトの中で、三つ編みの少女がやはり笑っていた。指が、その少女が映る写真に乗る。
「多分これが一番わかりやすい写真だ。逸見五月、園芸委員。背は小柄なほうだったが、中学生の割に所作が大人びていたというか整っていた。綺麗に伸びた背筋に目を細めて笑うところ、丁寧な言葉遣い、聞き上手。中心にいるような子ではなかったが、それでも目を引いた、と思う。まんべんなく人と仲が良くて、女子からは頼られているようでもあった。年子の兄が居て、仲がいいのかたまにその話をしているのが聞こえた」
つらつらと日暮が言葉を並べる。するりと指が退いても紙は開いたままだ。少し左右が浮いているもののきちりと開いているところから、おそらく開き癖があるのだろうと思う。卒業アルバムのように重めの紙でなりたつページは、普通ぱらぱらと動きやすい。
見下ろす日暮の表情は、やはり変わらない。文化祭準備とあるように、写真の中では看板を作る作業をしているのだろう。カメラに向かってピースサインを作り笑うクラスメイトに混じり、五月は微笑みながら両手を自身の膝の前で握っていた。肩を組む友人も楽しげで、笑い声が聞こえそうな写真である。
日暮は自身の前に引き寄せた手をそのままにして、ぱかりと口を開いた。
「逸見は真面目な女子だった、と思う。といっても堅物だとかそういうのではなく、中学生なのに基本友人達にも敬語だったところとか、教師に対する受け答えの様子とか、丁寧に教室を掃除する姿だとか、ノートの取り方だとか、勉強の相談だとか、プリントの提出の仕方だとか。いろいろな要素が彼女の本質を真面目だと伝えていて、そしてその真面目さは自分の背筋を伸ばすためのもので他人に強要するものではなかった。――少し、君に似ているのかもしれない」
「え?」
唐突な言葉に横須賀は顔を上げた。つ、と写真を見ていた日暮の瞳が横須賀を見る。
「同じだとは言わない。彼女は自分の中に芯があるような人で、強要せず自分を律し、それを当たり前としていた。君は少し、控えめすぎる」
控えめ、という言葉に横須賀は瞬いた。やんわりとした言葉の意味を思考するより先に、日暮が言葉を続ける。
「それでも少し、君は彼女と似ている。彼女が他人に強要しなかった理由を直接聞いたことはないが、なんとなく想像できないわけではないんだ。彼女は随分と大切そうに、人を見ていたから」
「たいせつそうに」
横須賀が復唱する。日暮はこくり、と頷いた。
「その人そのものが大事な宝のように、ただのクラスメイトに対してもその違いこそが愛しいように。……クラスメイトどころか他の人にも。だから彼女が真面目であることと他人の真面目さはまた別で、悪いことを良しとはしなかったが自身の行動に倣うような強制もせず、人から学ぶこと、触れることを喜んでいるようだった」
日暮の声はずっと平坦だ。ひとつ違うことがあるとしたら、語る日暮の指先が動かないこと。真っ黒い光を取り込みづらい瞳がなにを見ているのかはわからずとも、その所作が今より過去を思っていることはわかる。
取り出したメモ帳に横須賀がペンを走らせる。その所作を待つことはせず、日暮はただ過去を並べるように言葉を重ねた。
「彼女は基本的に友人の話を聞く方が多いようだった。聞かれたら語るが、聞き上手と言われるタイプの人間だったのだろう。ただ時折、兄の話をしているのを聞いている。兄のことを語るのは楽しそうで、その時だけ少し聞くよりも話すことが増えていたので、彼女を知るより兄を知る方がもしかすると容易かったかもしれない」
つい、と日暮の視線が少しだけ右手側にずれた。同時に少し伏せられた顔程度では、その視線がどこに向かったのかわからない。
するりと持ち上がった瞳は、ただ横須賀を映している。
「年子の兄で、優しい人だと彼女は言っていた。ただ少し夢中になるとその話ばかりになるだとか、オカルトや推理小説が好きな人で、自分は少しオカルトは怖いだとか。特にホームズが好きで、読んだことがないのに探偵の二人が仲良しなことばかり知ってしまっているだとか、星に詳しいから話を聞くのは好きだけれど、宇宙の神秘から未知の生き物の話にまで広がってしまうのが困るだとか、親戚の男の子も星が好きだから、二人でよく話をしているとか、オカルトまで入ると自分はわからないことも多いからもう一人の親戚の子と話して見ているだとか。自分より兄の方が背は高いけれども自分も伸びてきているから追いつきたいとか言っているのが聞こえた時は、話に入らなかったがそれは止めてやったほうがいい願いじゃないかと思いもしたな」
まあ背丈は自分でどうこうできるものでもないが。そう続けた日暮に横須賀は小さく頷いた。
横須賀のペン先を日暮は見る。並んだ単語は日暮の言葉から抜き出たもので、それでいて横須賀の文字で
「……直接話したわけではないのにそういうことを知っているのは、別に彼女の声が大きかったわけではない」
静かな言葉のリズムは変わらない。とん、と机を鳴らす音に横須賀はペン先から日暮に意識を動かした。眉間に寄った皺は、他の変わらない表情の中で唯一大仰に見える。
ぱかり、と開いた口が、一度閉じた。それから視線が写真に下りる。ややあって、もう一度日暮はぱかりと口を開けた。
「好きだった。所謂、初恋、というものだったと思う」
言葉に、横須賀はペンを止めた。日暮の表情は基本的に変わらない。その中で唯一のように動く眉は、感情を表すと言うよりは伝えるために使われているようだった。
だからこそ横須賀は不可思議さに日暮を見続ける。こちらを見るように指で机を叩き見せた表情は、好き、という言葉にしてはあまりに険しいものだ。
まるで懺悔をするように、唯一作られた表情は固い。
ぱかり、とまた日暮が口を開く。
「好きだ、と思ったのはクラスメイトになる前だった。中学二年の秋、放課後。……今はもうなんでもないが、こう見えて自分の表情にコンプレックスがあった時期だ。
元々感情で表情が変わらない人間でな、幼少期は親も苦労したようだがその頃にはもう自分で伝えるだけの頭はあったし、問題自体はなかった。当時は今みたいに眉間の皺も無理だったが、友人達も表情を茶化しはしてもそれだけだったし恵まれていたと思う。ただ、それでも自分のことを考えないわけでもなかった。元も子もない言い方をすれば、思春期ってやつだったんだろう」
つらつらと言葉が続く。真っ黒い瞳は相変わらずで、眉間によった皺の形も大仰のまま動かない。日暮の懺悔なのか告白なのか、はたまた独白なのかわからない言葉を、じっと横須賀は聞いていた。
「些細なことなんだ。彼女は特別なことを言ったつもりはないと思う。彼女と放課後会ったとき、彼女は俺の言葉をなにも言わずにそのまま受け取った。俺が楽しい、というと、楽しそうじゃないだとか、嬉しい、にも、嬉しそうじゃないって言葉が必ず笑いながら入ってくるのが俺にとっては当たり前だった。悪気はないし、そのあとはすぐ信じるし、いい友人達だったけれども――クラスも違う、ほとんど話したことがない女子。体育の授業だけが同じだった。それでもそれだけでしかなくて、彼女の伸びた背筋だとか、丁寧な言葉遣いで知っていたけれど彼女と話したことはなかったはずだ。そういう女子が、そうですか、よかったです。そう言ってくれて、本当に些細な自覚はあるが、それでも俺にとっては衝撃だったんだ」
眉間の皺と一緒に、日暮の拳が固く握られている。綺麗な思い出を話しているはずなのに今までで一番身を固くする日暮に、横須賀は差し込む言葉を持たなかった。
カップの中、減らないコーヒーの熱だけが冷めていく。
「信じるのか、と聞いたら、嘘をついたんですか? と不思議そうに聞かれた。嘘じゃない、そう言って、そのまま表情のことまでつい言ってしまった。動かないこと、みんなと違うこと、だから言葉にするということ。俺にとってはどうしようもない事実を聞いて、彼女はただ、すごいですね、と言った。馬鹿にするでも同情するでもなく――感情を言葉にするのは難しいのに、丁寧に出来る人だから、きっと他の人だったらもっともっと大変なことがあったかもしれないけれど、日暮さんはすごいです、と。そのあと悩んでいるのにすみません、と慌てて続けられて。俺はでも、そういう考えがなくて。――救われたんだ」