台詞の空行

9-11)アルバム

「座っていてよかったんだが」

 後ろから落ちた声に、横須賀はぴゃ、と肩を跳ね上げた。それからおずおずと振り返った横須賀に、日暮は顎でソファを示す。

「座る場所を言わなければ座りにくいな。すまない。ソファに座ってくれ」

「え、あ、すみません」

 日暮の言葉に頭を下げ、横須賀はソファに近づいた。先に白い鞄をおろすと、ソファの右隅に体を縮こまらせて座る。

 膝を立てて丸くなる横須賀の様子に、ふむ、と日暮は呟いた。

「あぐらをかくなり足を伸ばすなりするといい」

「あ、有り難うございます」

 頭を下げた横須賀は、しかし困ったように瞬いた。右手側から差し出されたコーヒーへの礼と日暮の声かけへの礼がかぶったようになってしまい、そのどちらの意味ですべきか、もう一度日暮の言葉になにか返すべきかと視線が動く。

 膝を立てるのは行儀が悪いらしい、というぼんやりとした知識と、あぐらをかくのにもどうにもためらうこと、足を伸ばすと日暮の邪魔になるのでは、という考えが更に言葉をつっかえさせる。

「まあ足は好きにしていい。年齢は上だが君と私の――君と俺の関係は、それだけだ。気を許せとまでは言わないが、俺は気にしないし君も萎縮しないでいい」

 左手側、座布団がある方に日暮のコーヒーも置かれる。陶磁器の白いカップに描かれているのは小さなハムスターが蒲公英の花をくわえ持っている絵。横須賀側に置かれた白いカップにはシンプルな太陽の絵があり、どちらの絵もカップに馴染んでいた。

「コーヒー、砂糖とミルクは居るかな」

「え、あ、いらない、です」

 机から一度離れようとした日暮を見上げて横須賀が答える。離れようとした中腰をおろして、日暮はかくん、と頷いた。

「お揃いだな、俺もブラックだ」

 こく、と横須賀も頷く。日暮が一度コーヒーに口を付けるのを見て、真似るように自身も口を付ける。舐めるようにして熱を確かめ、はふ、と一口小さく喉に押し込みながら横須賀は部屋を見渡した。

 物自体はシンプルな部屋だ。壁に掛けられたカレンダー、丸時計。ローテーブルには筆立て。テレビ台にはレコーダーなどがある。台の奥には古いゲーム機が仕舞われているようだが、コードなどはささっておらず普段使っているような様子はない。

「気になるものでもあるか」

「あ、いえ、すみません」

「別に好きに見ていい」

 言葉にもう一度横須賀は視線を巡らせる。日暮の後ろにあるのは本棚。といっても本だけが仕舞ってあるわけではなく、少し広めの段にはファイルやノートが並んでいる。

 横須賀がコップを置くと、日暮も同じようにコップを置いた。左手側の日暮をみる為、横須賀は姿勢を少し斜めにずらす。

「今日は、お時間をくださり有り難うございます」

「こちらこそ、有り難う。――逸見について、だったな」

 日暮の言葉に、横須賀は頷いた。日暮がとん、と指先でテーブルを叩く。

「君がどこまで調べたのか聞いても?」

「……二十三年前に事件があったこと、くらいです」

「そうか」

 日暮の右手、人差し指と中指、薬指の三本がテーブルを五センチほど向かって左、外側に少し動いた。そのままゆっくり手元に戻った手が小さく拳を作る。

「山田から聞いたのか」

 落ちた言葉に、横須賀は眉根を少しだけ寄せた。それにつられるように視線が下を向く。

「いえ。俺が、気になって、偶然その事件を知る人が近くにいて、少し聞かせてもらった、くらいで」

 とつとつと言葉を落とす。そうか、と日暮が平坦に呟いた。横須賀のつむじまではみえないものの表情よりたやすく見える頭の先を、のっぺりとした黒が見つめている。

 とん、とまた指先が小さくテーブルに押しつけられた。

「誰から聞いたか伺っても?」

「祖父の友人、からです。時川晴悟さん」

「ああ」

 時川晴悟、という言葉を受けるように指先がテーブルを叩く。静かな音は日暮の声に隠れた。横須賀が顔を上げると、日暮が顎を引く。

「話したことはないが、知ってはいる。事件についてはどれくらい知っていらっしゃっただろうか」

「事件、は、起きたことくらいで。俺が聞いたのは、逸見さんの家と、太宰さんの息子さん達がいたこと、で」

 つっかえながら、横須賀は鞄を手にした。蓋を開けて差し出したのは先日の話をまとめた資料だ。どこまで伝えるか悩みはあったが、刑事については止めない限り好きに話していいと山田が言っていたことがある。横須賀の出生などは流石に省いたので理由などについては曖昧となっているが、逸見家について晴悟が語ったものを、横須賀は日暮に差し出した。

「あまり、多くないですが」

 B5のルーズリーフ、たった二枚。結局聞いたのは家族仲だったり事件の概要でしかないのだから当然だが、あっさりしすぎてなんだか落ち着かない。

「ありがとう」

 日暮がルーズリーフを受け取る。流すように見た日暮の指が、時々紙の上を撫でた。眼鏡の奥の瞳は相変わらずで、なにを考えているかまではわからない。

「……コピーをとらせてもらってもいいかな」

「あ、その、大丈夫です、渡すのに、書いたので」

「そうか、有り難う」

 言葉の後、日暮が頭を下げる。横須賀もそれに返すようにおずおずと頭を下げた。姿勢がすっと伸びた日暮と曲がったままの横須賀では一礼にも随分と差があったものの、日暮はなにも言わず紙を撫でた。

 ぱち、ぱち、ぱち、と、人形のような瞬きが三度繰り返され、それから日暮は紙を自身の左手側に寄せた。ぱかり、と口が開く。

「君が知りたいのは逸見の人となり、だったか」

「はい」

「……俺が話せるのも、さほど多くない。事件についてはプライベートで調べるにもたりなかったし、当時を語るのがちょうどいいだろう」

 それだけ言うとルーズリーフを持って日暮は膝を立てた。すぐには立ち上がらずそのまま一拍置くと、後ろの棚に向き直る。二段目の棚の前で右手が右、左と一度動き、それからひとつのファイルを掴むと日暮はルーズリーフを差し込んだ。次いでその右手が一番下の段に向かう。そして指は迷いなくひとつのケースに触れた。

 薄クリーム色をした紙のケースに書かれているのは冬之芽市立中学校卒業アルバムの文字。ゴト、と少し重そうな音を立てて取り出すと、ローテーブルの上に日暮は静かにおいた。サイズはA4。

 ケースに描かれたデザインは四角が並んでおり、青と緑が基調となっている。とはいえそれ自体は全体の一割もなく、ケースを彩りはしても主軸にはなっていない。大きな文字で書かれた冬之芽市立中学校卒業アルバムの文字は少し浮き上がる加工がされている。

 ケースから取り出された冊子は青い布地。上の中央部分には金の箔押し文字が並んでいる。見てわかる厚手のものは一般的な卒業アルバムと変わらないだろう。ケースには擦れたあとがあり、角や縁が擦れて凹み、削れている。布地も少し褪せた物になっているようだが、しかし小口部分に削れた様子はない。

 つ、と、指が小口を撫で、ぱかりと日暮が口を開くときのようにあっさりアルバムは開かれた。そのままくるりと方向を変え、横須賀に見えやすいように向けられる。

「逸見を知っているといっても、俺が知っているのは逸見五月。それと、本当に少しだけだが彼女が話していた兄の逸見藤悟についてで、随分偏ってはいる」

 質のいい紙は部屋の灯りを反射して真っ白く光っている。青い背景の前で全員同じような表情で切り取られ、下には名前が記されていた。並んだ名前に知った文字が混ざる。逸見五月、日暮雨彦。逸見五月という文字の上にある三つ編みの少女は晴悟から見せてもらった写真を思い出させるもので、穏やかに微笑んでいる。日暮雨彦という文字の上にある写真は今とさほど変わらない髪型で眼鏡をしていない青年だ。真っ黒い瞳と能面のような表情がそのままで、名前だけでなく面影もはっきりとわかった。

 クラス名簿の一覧だろうそれは、しかし逸見五月だけ少し幼く見えた。撮影の後ろが違って見える理由が、事件の時期によって思い起こされる。つ、と、日暮の切りそろえられた四角い爪が逸見の頭部分に乗る。

「逸見五月。中学三年の時にクラスメイトだった子だ」