台詞の空行

9-10)アパート

 * * *

「いらっしゃい」

 のっぺりとした声に出迎えられて、横須賀は反射のように頭を下げた。日暮の押さえる扉に横須賀が手を添えると、日暮はするりと体を引き、反転する。

「あ、お、おじゃまします」

 あわてて横須賀が声を上げると、日暮は先ほどの反転をそのまま戻すようにして振り返った。能面のような表情は相変わらずで、真っ黒い瞳が横須賀に向く。

「おじゃまされます」

「す、みません」

 感情のこもらない言葉に横須賀は申し訳なさそうに頭を下げた。む、と小さく日暮が低い音を漏らす。

「いや、本当に邪魔な訳ではない。こんにちはにこんにちはと返したようなものだ」

 平坦な声はそっけなさというよりただただ当たり前を教えるだけのように思えた。といっても日暮の声の差は音の差よりも大きさの差くらいしかわからない程度に難しく、想像するしかない割合がほとんどなのだが――それでも聞く側からすると、日暮の声は随分と平坦なのに耳に馴染む。

 日暮の説明に小さく頷きかけた横須賀は、はた、と顔を上げた

「あ、こんにち、は」

「はい、こんにちは」

 今更の挨拶を笑うことも呆れることもせず、日暮が頷き返す。忘れた挨拶をなんとか告げたことに小さく息を吐くと、横須賀は靴を脱ぐために一度しゃがんだ。

「そもそも招いたのはこちらだ。良く来てくれた。歓迎する」

 全て同じ調子のまま、日暮が言葉を落とす。しゃがんだ横須賀が見上げる黒い瞳は、眼鏡のレンズの方がよほど色を変えると言っていいくらいに真っ黒だ。

「招いてくださって、有り難うございます」

「どういたしまして」

 しゃがんだまま頭を下げる横須賀に、日暮はやはりそのまま返す。それからとん、と壁を指先で叩くと、ついと視線を横須賀から見て左手側、少しひらけた台所に向けた。

「インスタントだがコーヒーくらいなら出せる。飲めるか?」

「あ、はい」

「スリッパはそれを。部屋はそのまままっすぐ、テレビのある部屋。先に行ってくれ」

 日暮はそれだけ言うと、つい、と台所に向かう。半端に脱げかけた靴にはっとしたように、横須賀はあわてて足を抜いた。

 示されたスリッパは灰色の布地がつま先まで覆うタイプのもので、客用なのだろうかあまり形は崩れていない。下駄箱の右手側に立てられた木製のスリッパ立てに同じようなデザインが二つと、つま先が出るタイプで薄い橙色の布地に下敷きがい草の物がひとつ。橙色のものはい草がすこしほつれているようだが、他はやはり形が崩れないままだ。

 日暮の足下はつま先が出るタイプの紺色の布地。濃紺の靴下には特徴が無く、くすんだ青いジーンズはそれなりに履きこまれたものだろう。ただ少しゆったりとした服装にも関わらず上の白いワイシャツはきっちりとアイロンがかかっていて、首元のボタンをひとつ外しているのにだらしなさはなかった。

「どうかしたか」

「あ、いえ、すみません」

 つい手が止まっていた横須賀は、コップの準備をしていた日暮に慌てて頭を下げた。玄関に並んだ靴は革靴と運動靴。スリッパは玄関の棚の下に差し込まれていた。どれも同じ大きさなのでおそらく一人分。横須賀のアパートよりは広いが、しかし一人暮らしとして過分がない部屋に、横須賀はようやっと足を進めた。


 警察署に行くと決めた時、頼った相手は平塚だ。山田の仕事ではないのにという躊躇いがあったものの、それでも突然行って探すよりはと以前教わった電話番号に連絡をした。平塚は快く出迎え、しかし横須賀の顔を見ると随分と不愉快を露わにもした。

 ただ、不愉快と言っても横須賀を嫌う理由ではない。睡眠不足でさらに悪くなった横須賀の顔色を見て上司である山田に苛立ちを見せ、山田のせいでなく自分が調べたいからだと言ったらもっと周りを頼れ一人でするな、と眉尻をつり上げて怒られてしまっただけだ。

 自己管理の足りなさに申し訳なさと情けなさで身を縮こまらせる横須賀に気づくまでぷりぷりと怒っていた平塚だが、横須賀の表情に慌てて勝手に言いすぎたと詫び、それでも心配してしまう身勝手を許して欲しいと続け、それからようやく本題の話になった。

 本題と言っても、横須賀が知りたかったのは逸見家に起こった過去の事件というよりは、事件に関わった人たち、できればその当時の逸見家を知る人間についてだった。事件の謎を解くことなど、横須賀には出来ない。それだけは最初からわかっていることで、変わらない結論だった。だから知りたいのは兄妹の人となり。予想外に晴悟から聞けたことだけではなく、もう少し、あと少し。二人の視線に近い人の言葉。

 けれども平塚に対し、その詳細までを語りきれはしない。別に隠すという意味はないが、しかし言いづらさがあるのは事実だった。

 山田は最初の頃、刑事には話していいと言っていた。それに、横須賀を突然クビにした山田が横須賀からなにか漏れることを考えないわけがない。だから語りきれないのは情報という意味ではなく、どこからどう手をつければわかりやすいだろうか、といった、会話にかかる時間を案じてのもので――しかしそれは杞憂に終わった。

 二十三年前の父母殺害、子供が行方不明となった事件。そう聞いたとき、平塚は少し片眉を上げた。ふむ、とやや考えるようにした平塚に、逸見という名前を告げた時、む、とその眉が皺を作り、逸見か、と平塚が復唱したのは横須賀にとって少し意外だった。

 二十三年も前の事件だ。平塚の年齢からは遠いだろうし、知っているとも思わなかった。だから事件について教えて欲しいと言ったあとのことだろうと思っていたやりとりが為されずに平塚が携帯端末を取り出したことに少し驚いたのだ。

 端末を持った平塚は、数字を入力する前に横須賀を見上げた。警察は、と告げる声はあの芝居がかった調子よりも随分静かだった。

 「警察は公平でなければならず、守秘義務も発生する。個人の正義と全体の正義が別だったとき、それでも私たちは個人を守るために全体の正義を選ぶ存在だ」

 平塚の言葉に、横須賀は頷いた。「だから私たちが選ぶのは個であって個ではない。君の為に行えることもさほど無い。しかし君たちを守る為に私たちは存在する。私たちは個の利を選びはしないが、それでいて個の安全を選ぶものでもある」そう続いた言葉にも、横須賀は頷いた。うん、と平塚は言って、数字を入力した。

 「逸見については終った事件だ。かといって私たちの権限で教えられることもそうない。しかし、繋げることは出来る」

 平塚の言葉に横須賀が瞬くと、平塚は肩をすくめた。「どうなるかはわからない。ただ、逸見のことを聞かれたら伝えるように言われているんだ。――グレさんに、ね」

 そこからはするすると物事が進んだ。逸見の件についてなら話ができるだろうという日暮の言葉、その件は仕事から離れるので休みに時間を欲しいとのこと、日暮の家に招きたいこと。そうして今日、横須賀はここにいる。日暮の住むアパートに。

 先に行くように言われた部屋は、台所のすぐとなりだ。木製の四角いローテーブルが中央にあり、床にクッション部分がそのまま置かれるタイプの簡易ソファには濃紺のカバーが掛けられている。二人分の広さのソファと、そのソファに座ったときの左手側にクッションがひとつ。ソファはテレビが見えやすいようにおいてあるのだろう、そのまま正面、部屋に入った段階で見るなら目の前の左隅にテレビが角をふさぐようにして置いてある。

 テレビから右に視線を少しだけずらすと、大きな窓が正面に。部屋に入った状態で目の前に見える位置の窓の向こうには、洗濯物が干されていた。ハンガーに肌着とワイシャツ、Tシャツ、タオル。ハンカチや靴下などは洗濯ばさみが連なった四角い物干しハンガーに下げられており、大きめのバスタオルだけ物干し竿に直接留められている。量的にもおそらく日暮一人分。部屋の中のシンプルさとは逆に、外の雑草は自由に伸びたままだ。