台詞の空行

9-9)勝手

「山田さん、食事、断らなかったんです、か」

「ええ。ああでもそれが出来る状況なら考えてやるって言われましたから、無理なのも前提に入ってると思います。出来ない状況って考えると、やっぱ忙しいさとかあるんですかね」

 出来ない状況。三浦の言葉に、横須賀は鞄の紐を握りしめた。眉間に皺を寄せて口角を下げる表情に、三浦は少しだけ視線を左手側にずらす。

「日付は決まってませんがまあ約束みたいなものは一応出来たんで。また相談してみます」

 相談という言葉を内側でなぞる。横須賀の言葉にしないものを三浦は敢えて拾わず、やや大げさに頭を掻いた。それから手をとすりと下ろすと、横須賀を見て小さく苦笑を浮かべる。

「……なにか好きなもの思いついたら教えてくださいね」

 こくり、と横須賀は頷いた。はいと答えるには横須賀自身の中に好きな物がない。山田の好きな物も知らない。食べているのを見るのも携帯食料くらいで――どころか、山田は食事を人前でしたがらないようにも思えた。そんなようなことを、木野にも言っていた気がする。

 考えてみれば当然だろう。まだ半年も経たないとはいえ、横須賀と同じ職場なのに見た食事内容はほとんど偏っている。横須賀自身食事に対してこだわりが無いので気にしなかったが、それでもずっと携帯食というのは異様だ。好き嫌いが有るわけでも無いようだが、昼食はいつも偏っていた。

 それでも山田は三浦の誘いに対し、完全な拒絶をしなかった。出来る状況なら、が持つ意味を横須賀は知らない。知らないが、内側で回る。出来る状況になった時これまでとなにか変わっているのか、それとも出来ないと思っているのか。答え合わせはいつされてしまうのか。

 指先がねじれた鞄の紐で圧迫される。喉が震えた。

「それじゃあ、また。突然すみませんでした。……そういえば、どこか行くところでした?」

 顔を上げない横須賀を見て、三浦はおしまいにするはずの言葉の後にもうひとつ静かに言葉を繋げた。ねじれた紐がさらに指に食い込む。思考が指先を巡る。

「警察署、に」

 漏れた音に、「ああ」と三浦は納得したように頷いた。そうなんですね、と続く声も納得をそのまま引き継いでいて、こくり、と横須賀は首肯を返す。

「お仕事お疲れさまです、刑事さんたちによろしく伝えておいてください。――と言っても俺も先日あったばっかなんですけど」

 おしまいかと思うような言葉に、穏やかな微苦笑が続いた。たはは、と笑う三浦のゆるやかな声に、横須賀が顔を上げる。

 見ていなかった黒い瞳は思った以上に柔らかで、それでいて穏やかというにはほんの少し揺れていた。

 その感情の名前はなんだろうか。横須賀が思考の端を掴むより早く、三浦が柱に背を預けた。とん、と小さな接触と一瞬上に向いた顔。それからまた横須賀に向き直る視線。一連の流れは随分と自然に見え、しかし途切れた言葉とじっと横須賀を見上げる黒い瞳の色に横須賀は息を呑んだ。

 ひゅ、と引きつった空気の音が鼓膜の内側に響く。にこり、と少し大仰に作った三浦の笑みが横須賀を待つ。

「いってらっしゃい」

「俺」

 見送りの言葉に、引きつった喉が吐き出したのは懺悔だ。胸が苦しい。横隔膜の更に上、あばらの内側という奇妙な場所がなにかで膨らんだように圧迫されている。

 喉に蓋が出来るようで、それでもいいと思うはずなのだ。横須賀は言葉を内側に残すことが多かった。けれども、三浦の目は随分と静かで、それでいて横須賀ばかりを映していて。

 身勝手な解釈だ、と横須賀は自認する。それでも息苦しさに、喘ぐように口を開いてしまう。

「今、勝手を、して、て」

「はい」

 唐突な告白に怯むこと無く、三浦は頷いた。駅の中だというのに、周りの音が遠い。人前で話せることは多くない。耳立てる人が居ないことを確認しながら、横須賀は膨らんで呼吸を苦しめる何かを吐き出すように音を下ろす。

「ほんとは、していいことじゃ、なくて、でも、俺、しないが、できなくて」

 何でこんな言葉を繋げているのだろうか。唐突な懺悔以外のなにものでもない言葉を横須賀は繋げ、それを聞く三浦はただ静かだ。

 許す人、という訳では無い。この人に許して貰いたいわけでも無い。ならばなぜ。それでも横須賀の喉を、奇妙な音が零れていく。

「いやなことを、俺、するのかも、」

「横須賀さん」

 引きつった横須賀の声を、静かな低音が遮った。どこか甘いフォークソングのような柔らかな低い声に持ち上げられるように、横須賀の視線がゆるりと三浦の喉元に動く。

「俺は多分、横須賀さんが欲しい言葉、あげられます」

 静かな宣言。音も無く見返す横須賀に、三浦は「うん」と小さく頷いた。その頷きはおそらく三浦自身の中で意味を持っているのだろう。ハの字眉の下で不安げに揺れる横須賀に、三浦は柱に預けていた背を持ち上げ、一歩だけ近づいた。

「ただそれは、ゆるしじゃないですよ」

 横須賀の黒目がほんの少し右下に逸れる。うん、と三浦はもう一度呟いて、それから笑うような小さい息を吐いた。

 一度、視線が外れる。横須賀を見上げるというよりは前を向く目はほんの少し遠くを見ているようで、それでいて声は手前に落ちる。

「俺は勝手をしました。彼女の為に。それを後悔していません。だから、横須賀さんが選ぶのなら俺は、俺の選択に対する俺自身の感情でもって肯定します。貴方を否定しない。横須賀さんと山田さん、おふたりに助けられる形で、俺は彼女を失わずに済んだ。彼女が望まない選択だったとしても、俺は今後悔していません。それは出会いによる幸運であり、彼女に対する思いであり、足掻いた自身と俺の根っこである信条のすべてがあったからで、それらを失わないためにも肯定し続けます」

 横須賀は頷いたが、まだ三浦はどこか遠くを見ていて視界に入っているかどうかわからなかった。うん。また差し込まれた声の後、三浦の視線が横須賀をとらえる。

「だから横須賀さんが選ぶのを俺は悪く言いません。だって俺は、選択をしなかったことを考えたくない。――でも、赦すのは俺じゃないから、俺にできるのは貴方の選択を貴方がしていいということ、俺は救われたことを言うくらいです」

 連なる言葉が途切れた。はく、とこぼれ出そうになる空気を唇で噛む。飲み込んだものがなんなのか横須賀には自覚しきれない。それでも横須賀は、こくりと頷いた。

 神妙なその同意に三浦は眉を下げる。は、と漏れた三浦の息は情けない笑い声のようでもあった。

「嫌なこと、は、してしまったとしてもどうしようもないです。それでも選んだ時、貴方の大事な人がどうなるのかだけ想像して、失敗したらその責は貴方の物で、相手を傷つける。赦しがないというのはそういうことです。俺の行動を彼女が否定しても傷ついても、俺は勝手を選んだ。だから赦されなくていい。身勝手で暴力じみている。それでも俺は彼女の選ぶ先が嫌だった。無理を通すのなら、傷つけないなんて考えてられない。それくらいの自分勝手さを俺は持っています。多分、貴方も」

「……はい」

「それがわかっていれば、多分大丈夫ですよ」

 横須賀の固い低い声に対して、三浦の声はずいぶんと柔らかい。甘やかすような声はあまりにもゆるやかで、それでいてずっと静かだった。だから横須賀はもう一度頷いた。

「悪いことを、します」

 神妙な懺悔と犯行予告。三浦は横須賀と知りあってさほどないが、それでもその人となりに随分と似合わない宣言に少しだけ背を曲げて笑った。

 水平気味の眉、顰められた硬い表情に浮かぶ眉間の皺。切れ長の瞳に影を作る睫は前を向く為に持ち上がり、黒点のような瞳が三浦を貫く。固い表情には昏い澱みがあっても自然に思えたが、まっすぐと見下ろす瞳はその小さな黒に光をめいいっぱい吸い込んでいた。三浦の知る探偵とは逆の青年。あべこべな二人の先がどうなるか、三浦にはわからない。

 それでも三浦は山田にカナリアを見た。だからこそ、横須賀の似合わない様子に笑うことがあっても、宣言に対し嗤うことはしなかった。遮ることも否定することもしない。

「成功を祈ります」

 短い言葉は送り出すためのものだ。ためらいも何もかも無くせばいい。為される後悔と為されぬ後悔、どちらがいいかわからないのなら選んだものに幸いがあるといい、と三浦は思っている。

 自信をもっていい、信じています。そこまで三浦は言葉を重ねない。きっとそれは、今じゃない。それでもその背が曲がるのなら、手を添えることになればいいと思う。背を押すのではなく支える一つに。だって押す必要は、きっとない。横須賀の目はもう、見る場所を決めている。

「いってらっしゃい」

「……有難うございます」

 横須賀は眩しそうに三浦を見て、少しだけ口元に笑みを作った。きゅ、と口角を持ち上げるその形は作ったものだと分かるが、しかし横須賀に馴染んだ表情でもあった。

 続く言葉はない。背を向けた横須賀に、三浦はうん、と声もなく頷いた。その首肯の意味を知る人も見る人もいなく、三浦は小さく息を吐いた。

(リメイク公開: