台詞の空行

9-8)優しい人

 * * *

 ほんの少し、頭にもやがある。車で移動しないのは移動時間に睡眠をとる為に選んだものだ。しかし移動時間がかかるとはいえ新幹線程度だし、その時間も晴悟から得た情報を整理するのに費やしてしまった。眠ってしまうほどではないが、この状態で運転することは出来ない。今日はもう警察署に向かうだけだから、と自身を宥め、横須賀は鞄を持ち上げ直した。駅の外に出たら眠気覚ましに少し歩いてもいいかもしれない。

 晴悟から得た手紙を道中読んだが、わかったのは逸見裕也という人間がひどく優しいことと太宰桐悟についてくらいだろう。逸見裕也について横須賀が考えると、少しだけ奇妙な心地になる。まったく知らない人間に生まれる前に祝福をされていた。それが自身のことであると考えるのは馴染まない感覚だが、彼は祖父の憂慮する心自体を喜び、人の縁は結ぶ意志で為されるのだと語っていた。

 万年筆で記されただろう文字は便せんの罫線に沿うようにあり、読みやすいように漢字と平仮名の比率が変えられていた。大きめの漢字はきっちりとした右上がりに、払いは少し罫線からはみ出るくらいの優雅さで。縦書きの文字はそのまま連なって、平仮名は丸く次の一角に続いている。丁寧に顔も知らない相手を思いながら、それでいて堅苦しくなりすぎない自然な文字は、書き手がペンを持つことに慣れていることを伝えるようでもあった。ブルーブラックのインクは品の良さも伝えてくる。

 彼の語る太宰桐悟は、逸見桐悟と逸見五月にとって好ましい人物だった。両親が亡くなり太宰家の養子になった彼は、最初ふさぎ込んでいたらしい。太宰竜郎も優しい子供だったが、太宰家の人間だからこそ気を使ってしまったのだろう。同い年だからうまくいかないだろうかと、大人達が話し合って試したのが誕生会だった。

 逸見桐悟と五月は年子だが、偶然にも同じ日に生まれた子供でもあった。普段一緒に為される誕生日を、もう少し豪華に。元々竜郎は逸見家の兄妹と親しかったのも理由の一つとしてあった。そうして太宰家を招いてみたところ、同じ「とうご」だからか二人が仲良くなり、そこから自然に桐悟と藤悟、五月、竜郎の四人で遊ぶことが増えたとのことだった。

 うまくいかないことは血の繋がりがあろうとなかろうと存在する。それは一対一の人間同士だから当然で、確かにその赤子は苦労することも多いかもしれない。悩むこともあるかもしれない。それでもその苦労や悩みは、別の形で誰もが持つ。誰もが絶対うまくいく未来なんてあり得ない。貴方の憂慮を杞憂と言い切ることは出来ない。

 それでも縁は、結ぶものだ。血縁であることが結びやすさなのは、単純に最初から一緒にいて、価値を共有できるからだろう。血縁がなくとも貴方が思い続けるのなら、結ぶことができるはずだ。子供は他人だ。だからもしかすると、その子がほどこうとしたら縁はほどけてしまうかもしれない。けれども無理に留めないで、無理をしたら紐が切れてしまう。ほどけたらまた結べばいい。それか誰か別の人と結ばれるのを祈るのがいい。親離れなんて言うように、親子の縁すらもしかすると簡単にほどけてしまう。紐が切れたら結ぶための長さがどんどん足りなくなるから。貴方が思い、彼の幸せを祈るなら、きっと何度でも結べる。たとえ結べなくても、その子はきっと誰かと縁を結ぶことを覚えるから。

 だから保証は出来ずとも大丈夫と伝えましょう。桐悟くんは確かに太宰の家で今笑っているから。私たちの子供と遊んでいるから。きっと大丈夫です。貴方とその子供にさいわいがありますように。

 そんな優しい文言で、手紙は締められていた。きっとこの情報は横須賀が知りたいものとずれている。太宰桐悟について、逸見家の子供との関係について知ることが出来たのはいいことだが――多分それは晴悟の言葉で足りていて、けれども読んだ時間を無意味とすることはできなかった。

 遠い遠い、自分へ向けられたわけではなくしかし自身と無関係と言えない言葉を抱え、横須賀は先を行く。

 横須賀が探すのは、山田の過去だ。今山田が追っている事件を考えるつもりはない。知ることが出来ればいいかもしれないが、リンや山田が拒否し隠すのだったら横須賀が知り得るものではない。

 だから横須賀が必要とするものは少しずれていて、同時に身勝手にも思えた。人の教えようとしない過去を探ることは、言ってしまえば土足でその人を暴くことだ。記された過去を読み、残された知識に感謝し、使われることを喜ぶ。そうしてきた横須賀にとって、考えるだけで手のひらがざわつく。

 なにも出来ないくせになぜ調べるんだ、という問いかけ。なにもかも離れていかれたくないから調べるのだという答え。それらが同時に自身の身勝手さを語り、しかしそれでも止まることは出来ない。

 逸見家について知ることが出来たのは幸いだった。とっかかりが見つけられたらいいと言う横須賀の考えよりもよほど多くを知り、だからこそ次をまた探す。過去の事件について暴くわけではない。横須賀が解決できるのならもう警察が解決していたはずだ。

 横須賀がほしい手札は、もっと別。だからこそ身勝手だと思う。引かれた線をむりやり踏み越える行為。どこまでしていいのか、どこまでするのか。ぐるりと内側を回るのは淀んだ懺悔と言い訳だ。

 ひどい人間なのだろう、と思う。

「あれ、横須賀さん?」

 思考と一緒に歩く足は分かりきった道を歩く。迷いはない。ただぐるりとした重さが歩調を遅らせ、それでいてはやくしなければと言う焦りが歩幅を広げる。

「横須賀さん、こんにちは」

「あ」

 声に顔を上げれば、人の良い笑顔が横須賀を見上げていた。厚ぼったい瞼の下、横須賀を映す瞳は優しい。少し困ったように下がった眉と浮かぶ微苦笑は良く馴染んでいる。

「三浦、さん」

「はい」

 名前を呼べばその笑顔と同じ優しい声が返る。低い声なのに随分と優しさで柔らかくなった声は、三浦の本質をそのまま溶かしたようでもあるだろう。

「えっと、その、こんにち、は」

「はい、こんにちは」

 にこにこと三浦がもう一度挨拶を口にする。え、っと、と横須賀が言葉を探すと、三浦の視線がついと駅出口の柱の端に向けられる。

「せっかく会えましたし、少しお喋りいいですか? お急ぎでなかったら」

「えっと」

 やや考え、横須賀はこくりと頷いた。急ぎたい心地はあるが、実際のところどこまで急げばいいかわからない。ぐるりともやがかった思考に三浦の声は優しく聞き取りやすいので、会話するくらいなら大丈夫かもしれない、というのが横須賀の判断でもあった。

 少しだけ心配もあるが会話でもやが晴れるかもしれないし、なによりきっと三浦ならなにかあっても多少は許してくれるのではないか――浮かんだ思考の身勝手さにほんの少し眉を下げながらも、横須賀は鞄を肩にかけ直して三浦に向き直る。

「なにか失礼があったら、すみません」

「雑談に失礼もなにもないですよ、こっちからお願いしているんですし」

 横須賀さんは真面目だなあと三浦が笑う。優しい音に横須賀は首後ろに右手を当てると、どう答えればいいかわからず小さく会釈を返した。

「雑談って言ってもあれなんですけど。事件が終わったら食事しましょうって言ったじゃないですか」

「あ、はい」

 やくそく、という言葉が巡る。けれども今の横須賀は山田と食事など難しいだろう。眉を下げたまま大きな体を小さく縮めた横須賀に、三浦は少し困ったように頭を掻いた。

「昨日山田さんにその話をしたんですよね。なに食べたいですかーって。そしたら勝手にしろって言われちゃって。横須賀さんは好きな食べ物とかあります?」

 のぞき込むようにしながら首を傾げられ、横須賀はつられるように頭をすこし斜めに動かした。好きな食べ物、と言ってもなにを上げればいいのか正直わからない。食べ物は食べるもので、好き、とはまた違う。

「あんまり思いつきませんか。うーんどうしようかな」

 無理に聞き出そうとはせず、三浦はそういってふむと顎に手を当てた。三浦の傾げた顔が正面に直るのに従って、横須賀もこくりと頷いて向き直る。

「カルーアミルクは甘かったっぽいですけど、お酒だったからですかね。それとも食べ慣れていない感じですか」

「食べるのは、あんまりなかった、ので。おいしかったです」

「ううんそうか。どうしようかな。俺は甘いもの好きだしお勧めできるんですけど」

「……あの」

 悩ましいというように思考を繰り返す三浦を見、横須賀は小さく声を挟んだ。ささやかな声を当たり前のように拾い上げ、三浦が顔を上げる。

「どうしましたか?」

「かってにしろ、って、言ったんです、か」

「ああ、はい。勝手にしろって言ってました」

 少し話が過ぎ去った言葉をようやく復唱した横須賀に、三浦はあっさりと頷いた。それからやや思い返すようにして瞬きを繰り返す。

「勝手にしろっていうだけじゃ足りないかな。ええと、山田さんはそういう食事とかどうでもいいって言ってました。俺ある程度店知ってますけど選ぶにもなにがいいのかって悩んじゃって。肉とか好きそうな体格に見えないんですよねー。そういう人に紹介するってなると結局甘いものに……いやまあ甘いのは完全に俺の趣味なんですけど」

 連なった思考を止め、たはは、と三浦が笑った。勝手にしろ。その言葉を咀嚼するように、横須賀は瞼を伏せる。