台詞の空行

9-7)見る人

「有り難うございます。急だったのに、本当に」

「構わん。私はほとんどなにもしていない。君のおじいさんが望んで得たものだ」

 横須賀の言葉に晴悟は淡々と答えた。当たり前のように言う晴悟に、横須賀は眉を下げる。

「晴悟さんのおかげで、知ることができました」

「……私は伝えただけだ」

 重ねた横須賀の言葉に返ったのは、少しだけ固い声だった。ぱちり、と睫が少し持ち上がる。晴悟の表情をみようと、横須賀の瞳が少しだけ蛍光灯の光を多めに取り入れた。

「本来もっと早く、または別の形で伝えるべきだったのだろう」

 晴悟の瞳は、横須賀とは逆に自身の手元に落ちていた。先ほどゆるんだ皺が、また深くなる。

「私は君のおじいさんから君への思いも、憂慮も、さいわいを祈る願いも聞いていた。けれども私は君のためになにも出来なかった。君に伝えたのは結局、もしかすると知らない方がよかったかもしれない君の出生くらいだ。ようやく君に伝えたこの話は君が聞こうとしたから得られたのだし、その情報を得るきっかけはおじいさんだ」

 ぱち、ぱち、ぱち。横須賀がゆっくりと瞬きを繰り返す。晴悟は静かに息を吐くと、横須賀に向き直った。

「私は君の為になにもできていない。それでも君が望むことを君に伝えることが出来たのは幸いだと思う」

 ぱちり。晴悟の言葉を咀嚼するような最後の瞬きは、じっと晴悟を見つめる瞳の色を変えない。は、ともう一度息を吐いて、晴悟は残った菓子箱に視線をやった。

「――余計なことを言った。気にしないでくれ」

「よく、わからないんです、けど」

 戸惑いをそのままに、横須賀が晴悟の視線を捕まえる。言葉についと向いた瞳を見つめる黒はまっすぐだ。白目がちな切れ長の瞳はどこを見ているかわかりやすい。晴悟の顔をじっと見つめるその目に、晴悟は半端に止まっていた視線をもう一度横須賀に向けた。

「晴悟さんに、俺、いっぱい教わってます」

 横須賀の言葉を否定はしない。しかし晴悟は眉間の皺を深めたまま、同意もしなかった。

「今日のことも、俺のこと、も、晴悟さんがいなければ知れなかった、ですし、でもそれだけじゃない、です」

 過去を追いかけるように、横須賀がとつとつと言葉を並べる。思い出しながら吐き出される言葉は、精査していないからか砂利道でつっかえるように歪なリズムをす。

「本の整理や修繕は、晴悟さんに教わりました。椿ちゃんには、俺、いろいろ出来てなくて、身だしなみとか、えっと」

 黒目がくるくると動く。思い出し、思いを馳せることがまるでその場にあるように動いた視線が、途切れた言葉と一緒に少しだけ睫に隠れた。少し長い前髪が、ぱさりと揺れる。その端を、横須賀は右手の親指と人差し指で捕まえた。

「髪型、とか」

「髪型?」

 予想外の言葉に、晴悟が同じ言葉を繰り返した。横須賀の眉がへにゃりと下がり、少しだけもにょもにょと唇が動く。

 いつもの口角をきゅっと持ち上げるような笑みではなく、口の端がくすぐったそうな様子に晴悟はじっと横須賀を見つめた。

 横須賀の視線が下がり、前髪をつまむ手が少しその瞳を隠す。

「椿ちゃんにはじめて会ったとき、俺、身だしなみについて教わりました。あの時は髪を洗うペースとかそういうのも、俺知らなくて。フケとかだけじゃなくて、ちゃんとしないとって知って。高校までは髪は伸びたら短く切るだけだったんです、けど。大学って、大人のひとたちの場所、ってイメージで。その。……晴悟さんは、すごく綺麗だから」

 くるくると動いていた指先が止まる。手が膝の上に置かれ、申し訳なさそうな顔で横須賀は晴悟をのぞき見た。

「同じ髪型なら、俺が大学に居ても、変じゃないかな、って。シャツの色も、晴悟さんみたいにすれば、清潔に見えるかな、って思って」

 晴悟の口元が引き結ばれる。横須賀の右手が、落ち着きなさそうに首後ろに伸びた。とんとんと指先で首を静かに叩きながら、ええと、と横須賀がまた落ちた視線をなんとか晴悟の元へ持ち上げる。

「俺にとって、一番近くの、大人の男の人で、俺、いっぱい教わってます」

 もにょりとした口元が作っているのは、申し訳なさそうでありながら微笑だ。横須賀のそういった顔を晴悟が見たのは初めてだった。当然だろう、晴悟は横須賀のために動くことなど出来ていない。

 たった一年に一度、友人の書庫を整理しただけだ。孫娘の方がよく横須賀と話しただろう。

 なのに。

「……勝手に真似をして、ごめんなさい。すごく今更ですが、今回の件も含めて、有り難うございます」

 横須賀の言葉に瞼を閉じる。静かになされた晴悟の呼吸の意味を、横須賀は知るだろうか。長い呼気の後、晴悟はゆっくりと瞼を持ち上げた。

 その瞼にあるじんわりとした熱を見せることは、晴悟の気質としては出来ないことだ。

「見て盗むは技術としても人が生きるとしても必要なことだ。なにも謝罪する必要はない」

 晴悟の言葉に少しだけ目を丸くした横須賀は、安堵したようにゆるりと笑った。その安堵をするのはこちらだというのに。そういう言葉を外に出せる人間ではなく、さらに言えば安堵と言い切るのもおそらく少し違うだろう。

 それは許しのようでもあり願いの先のようでもあり、言葉として並べるには至らない。

「確か新幹線で来たのだろう。他にないようなら駅まで送ろう」

「え、でも」

「他に用事がないのなら送らせてくれ」

 とん、と言葉を合図に晴悟は菓子箱の蓋を閉じ名刺入れに逸見の名刺を仕舞った。横須賀が追いかけるようにメモ帳をめくり閉じる。

「すみませ、あ」

 つっかえた言葉が途切れる。半端で止まった声に晴悟がそちらを見れば、横須賀の口元を手に持ったままのメモ帳が隠していた。

「ありがとう、ございます」

 メモが下りるのと同時にこぼれた言葉に、晴悟が二度瞬く。それからややあって、いや、と低い声が落ちた。

「私がしたいだけだ。道中話にでも付き合ってくれ。――君のおじいさんの話でもしよう」

「はい、お願いします」

 横須賀の声を聞いて、晴悟は立ち上がった。箱をしまいに行くと告げて玄関に横須賀を向かわせ、一人息を吐く。

 本来、横須賀に伝えるのなら逸見の話は一番に除外すべきだっただろう。しかし晴悟は選び、そして横須賀はそれを望んだ。すでに終わったと思っていた過去が、唐突に顔を出す。その意味について、晴悟はある程度の推測を立てていた。

 たとえば、横須賀が個人で知りたいと願ったこと。彼の仕事の話を聞いていないこと。そして何より――横須賀が挙げた条件である『晴悟が社長職の時に付き合いがあり会長職に就く前に縁遠くなった人間』が示すもの。

 晴悟が知り得る範囲で、横須賀の前で晴悟を社長と言った人物は、一人だけだ。

「待たせた」

 玄関に戻るといつもの猫背で横須賀が立っていた。かけられた声にびくりとした後口角を持ち上げ笑う表情も、馴染んだものである。

 横須賀の上司という人間に言った言葉は全て事実だ。まるで懺悔じみた口にしなかった言葉は、晴悟にとってようやく吐き出せた言葉でもある。

 けれども今日横須賀から聞いた言葉は、あまりにも都合が良すぎるようで――いや、否定してしまうことはそれこそ彼に失礼だろう。晴悟は静かにかぶりを振った。

 鍵を手にした晴悟の所作に、きょとりと横須賀が晴悟を見る。横須賀にとっての当たり前を晴悟が否定することはない。なんでもない、といいかけ、しかし晴悟は一度唇を引き結んだ。

「ハジメ君」

 扉を開け、続く横須賀を振り返る。はい、と返事をする横須賀をすがしみるようにして、晴悟はそっと息を吐いた。

「君の仕事を私は詳しく知らないが」

 聞くつもりはないという意思表示。それでいて言葉を重ねるのは、晴悟の勝手でしかないだろう。

「求める物を得られるのを手伝えたのなら幸いだ。頑張って行ってきなさい」

 車に乗る前なのに奇妙な言葉だろう。背を押す言葉なら、本来駅で伝えるべきだ。それでも言葉を紡いだ晴悟に、横須賀は一度目を伏せた。その隠れた視線がなにを思うのか、晴悟は直接聞くことなどないだろう。

「……はい、有難うございます」

 けれども続くその言葉で十分だった。有難う、という言葉は胸の内に残したまま、晴悟は車の鍵を開けた。