台詞の空行

9-6)過去の事件

 二人が行方不明になり、太宰桐悟だけが発見されない理由を横須賀はなにと言うことは出来ない。逸見藤悟の原因も同じくだ。けれどもまったく想像が付かないと言ってしまうのは早計だろう。

 心神喪失状態。それを招いてもおかしくないものに、多分横須賀は関わってきた。

「太宰さんの家については、私はそこまで近しくないのでどんな様子だったかはわからない。けれども逸見夫人は随分とまいってしまったようだった。自身の息子だけが帰ったことの罪悪感、それでいて息子とは会話もままならない現状。逸見さんは息子の状態、夫人の焦燥を案じていた。あまりうるさくしてもと思いながらも君の件で世話になっていたのもあり、私は病院ではなく逸見家に見舞い金だけでもと挨拶に伺ったが――夫人とはまともに会話もできなかったし、私も無理をさせることを望まなかった。
 代わりに挨拶に来たのは五月ちゃんだ。誕生会の時だけでも彼女が兄を慕うのはよくわかっていたので彼女も随分と辛かっただろうが、背筋を伸ばし賢明に崩れそうな家族を支えていたように思う。その一時だけだったが、表情に影があったものの彼女は逸見家の人間として来客者である私を気遣ったし、私が構わないと声をかけると申し訳なさそうに頭を下げていた。まだ中学三年生だったのに随分と賢明すぎるくらいだったかもしれない。逸見さんは彼女に無理をさせてしまうことに心を痛めながらも、やつれていく夫人といつ治るかわからない藤悟くんに気を配ることで精一杯なようだった。また、従業員に迷惑をかけるわけにもいかないこともあり、あまり休めていないようだった。挨拶に行った際そちらの話も伺っており、なにかあれば力になると伝えて私は帰った。――逸見さんに会ったのは、それが最後だ」

 最後の言葉は、少しだけ口の中に残るような、机に並ぶと言うよりは晴悟の手元に落ちるような音だった。下に落ちて跳ねることなく転がった言葉を、横須賀は追いかけることが出来ない。それでもペンを止めずに記した横須賀に、晴悟は少しだけ伏せてしまっていた顔を再度持ち上げる。

「逸見裕也、逸見咲子さきこ両名は、八月十一日に亡くなった。私が知ったのは翌日十二日。警察の調査の後すぐ葬式。ご遺体は確認できなかった――というより、確認できないからこそすぐに葬儀となったのだろう。話によると体がぐずぐずに崩れた状態で発見されたらしい。殺人事件とされたが犯人は発見されず。当時、逸見咲子が逸見裕也を殺害、逸見咲子を殺害した犯人がいると噂されたが、夫人が逸見さんを殺害する動機がないだろうし、その夫人をなぜ殺すのかもう一人の犯人についても不明だ。そもそも人をぐずぐずの肉塊にしたなど噂される状態を彼女がどうやって作れたと言えるのだろうか。空の棺に対し、あまりに勝手な推測だ。
 殺害発覚時五月ちゃんの姿も無かったが、彼女は当日中に保護されたらしい。彼女がどのようなことを話していたかまではわからない。警察には話したようだが、私が聞けるものではなかったし新聞で具体的に公表されることもなかった。
 葬儀は太宰さんが親族として手伝ったようだ。兄が入院したままの妹五月ちゃんは葬儀に参列したが、竜郎君に支えられていたとはいえ両親の死、その不可解な現状、母が父を殺したという噂。多くの中一人で立たなければならないことで随分と白い顔をしていた。それでもなんとか喪主を務める様は立派だったが――立派すぎて少々不安になったのを、覚えている。おそらく兄妹の友人だろう学生の姿もあったが、声をかけるのが難しいのだろう。ちょうど男子中学生を見たが、彼も彼女の姿を見るだけに留め帰ったようだった。
 私自身も、彼女に声をかけるだけにした。あまり会話をさせるのも酷だろうと思ったからだ。代わりに太宰さんの方に話をした。太宰さんには逸見家には世話になっていたこと、仕事の付き合い、従業員について案じていたのを聞いたこと、私に出来ることがあれば力添えをしたいことを伝えた。逸見印刷所で起きた事件だったこともあり、印刷所はそのまま畳まれることとなった。一部の従業員には別の仕事を私からも紹介したが、私が出来たのは結局それだけだった。
 気にかけながらもなにか特別出来るわけでもないまま、続く二十日にまた事件が起きる。確か震度四の地震があった日だ。幸い大きな倒壊などはなかったが、病院から逸見藤悟が居なくなる。また病院に見舞いに行った逸見五月も行方不明となった。
 結局二人はそのまま発見されていないはずだ。一家四人と親族である一人がなんらかの形でこの場所から立ち去った。行方不明者もおそらく同じ形だろうと言われている。だからこの家族は、私が社長だったことしか知らず、会長のことを聞く機会はないだろう。
 ――そもそも彼らがもう存在しないのだからな」

 晴悟の言葉が静かに途切れる。ペンが紙の上を走る音がしばらく続き、ややあって止まった。

 横須賀の瞳と晴悟の視線がかち合う。晴悟は小さく顎を引いて、空の封筒を正面の手元に寄せた。

「私が知る、君の条件に一番近い話はこれだけだ。私はこれ以上を知り得ない。当時ワイドショーも騒いだようだが、意外にも長くは続かなかった。――唯一知り得るだろう少女すら居なくなったからかもしれない。または太宰さんが答えなかったからか、捜査の関係で警察がなにか手を入れたか。それらの理由すら私には知り得ない」

 話をしまいとするように、晴悟はゆっくりと言葉を並べた。焦燥や憐憫とも違う、静かな音。内側に込められたため息を声に丸めたような感情の名前を横須賀は知らない。

 一番近いのはやるせなさ、徒労だろうか。しかし、それらを当てはめるには晴悟は遠くを語っていた。その遠さを少し寂しく思うかのように。

「だからこの話はこれで終わりだ。――これは、君の求めるものだっただろうか」

 静かな問いかけ。横須賀は手元のメモ帳を見、写真を見た。三度の小さな瞬き。それからもう一度晴悟を見て、ゆっくりと頷く。

「はい、有り難うございました」

「……そうか」

 礼に返った言葉は、礼を受け止めるというよりは思いを馳せるようだった。さきほどの声に丸めていたため息がそのままするりと抜け出すように、呼気が声と一緒に抜け落ちる。

 少しゆるんだ背は、横須賀と違って丸まりはしない。は、ともう一度、今度は意識して吐き出したような呼気が短くなされた。その鋭さと一緒に、ゆるんだ背筋がピンと張る。

「その写真と手紙は君の物だ」

「え」

 突然の言葉に、横須賀は目を丸くした。戸惑いを気にする様子もなく、晴悟は洋封筒と茶封筒を差し出す。

「でもこれ、晴悟さんの」

「これは、君のおじいさんから私が頼まれて得たものだ。そしておじいさんは君のさいわいを祈って私に頼んだ」

 横須賀の戸惑いをまっすぐとした声が遮る。はく、と震えた唇の意味を晴悟は正しく理解しないだろう。晴悟は横須賀ではない。

 それでもこの言葉を横須賀に届けるに相応しい時だった。曖昧にして伝えきれなかったものが、質量を持って存在している。見せることが無いだろうと思った悲劇の影にあった思いが、ようやく箱から出たのだ。

「持って行きなさい。これは、君の物だ」

 横須賀が噛みしめずとも届くように、ゆっくりと。噛まずとも喉を通り、脳に伝わり、胸に広がるように。はっきりとした事実を、晴悟は告げた。生来のよく通る声をただ一人横須賀のその内側に響くように、外ではなく前に。そして貫かぬよう、拾い上げるようその手前に。並んだ言葉をそのまま掬い、自身に染み渡らせることが出来るように。

 祈るような、願うような、請うような。焦り押しつけるのではなく横須賀が見、聞き、知り、理解する時間を望むような声に、横須賀は睫を震わせた。

 ひゅ、と喉奥で息が鳴る。意識しすぎて強ばる喉の癖。それを一度飲み込んで、横須賀は封筒に手を伸ばした。

「頂戴、します」

 深々とした一礼。晴悟はその厳めしい眉間の皺を少しだけ和らげ、小さく頷いた。

「君の物だ」

 もう一度繰り返された言葉は優しい。写真を洋封筒に仕舞うと鞄を開け、横須賀はファイルを取り出した。クリアファイルの一番後ろ、厚紙を入れたままのページに二つを差し入れる。茶封筒の口が開かないようにほんの少し親指の腹で押すと、横須賀はファイルを閉じた。

 晴悟はこの手紙を見ている。語らないと言うことは語ることがないのだろう。それなら今確認することではない。