9-5)逸見
「君のおじいさんが亡くなるに当たって、私に託したものだ。笑美子さんはそもそも全てを知らず、ご両親もおじいさんがそんなことを頼んでいたことを知らない。だからこの箱は今ここにある」
晴悟が撫でる文字を、横須賀はゆっくりと追った。おそらく筆ペンだろう細い文字は、強弱が筆の割にわかりづらい。それでも一画一画、所謂角にあたる筆を置いた止めがしっかりとなされている。
流し書いたと言うよりはさほどない筆圧でゆっくりと書いただろう線の流れ。よくよく見れば少し震えているようで、晴の一画目以外は一度内側に流れかけた線が無理矢理直されたようにして右下に向かう。左から右下にむけて線が斜めに下りている。横線は右上がり。
震える右手に左手を添えて睨むようにして文字を書く姿が浮かぶ。実際どうかはわからないが、その歪な文字を晴悟は随分大事そうに撫でていた。
乾いた指先が箱の縁に下り、開かれる。細長い茶封筒と白い洋封筒があり、晴悟が取り出したのは洋封筒の方だった。
「子ども達の写真だから逸見ご夫妻の姿はないが――向かって左から太宰トウゴくん、逸見
「トウゴ?」
「偶然同じ名前だったようだ。太宰さんのトウゴくんは植物の桐に悟という字、それとタツロウくんは画数の少ない方の竜によくある太郎の郎。朗らかでない方の字だ」
晴悟の言葉を聞きながら、差し出された写真を横須賀は見下ろした。右端の少年はこのメンバーの中で一番背が高い。髪は短く、今と違い真っ黒だが長いまつげと柔らかな微笑はリンの面影があった。その隣に並ぶ少女、五月は随分と背が小さい。しかしどちらかというとこのメンバーは竜郎が大きいだけで、他は小柄なようだ。
五月の隣に並ぶ兄である藤悟は五月とほとんど同じ身長。その藤悟の隣にいる
竜郎は五月に寄り添うように立っており、五月は藤悟にぴたりとくっついていた。兄妹の仲がいいのだろう。柔らかい三つ編みと白いワンピース、小動物を思わせるどんぐりの瞳は下がった眉の下で幸せそうに弧を
そんな少女にくっつかれながら微笑む藤悟は、背丈だけでなく少女と兄妹なのがわかりやすい相貌をしている。細められた瞳は柔らかく、眉尻は同じように下がっている。五月も藤悟も竜郎より眉は太いが、濃いというよりは表情がわかりやすい愛嬌のようでもあった。優しさをそのまま湛えたような口元の前では、その細い体には少し大きく見えるような望遠鏡がある。
藤悟の隣にいる桐悟は少しだけ藤悟よりは大きいものの、それでもやはり小柄だろう。ただ単純に小さいと言うよりはこれからの成長を思わせるように手足は長く、切れ長の瞳から覗く色は少し爬虫類を思わせるような好奇心が見えた。
「逸見さんのお子さんは年子で同じ誕生日だった。二人とも仲が良く、太宰さん達ご子息とも楽しそうでな。四人とも兄弟のようだったのを覚えている」
ほんの少しだけ晴悟の声が和らいだ。当時を思い浮かべるように伏せた瞳が写真をなぞる。
「確か当日は太宰社長はいらっしゃらなかったが、ご夫人がいらしたな。写真を撮ったのは逸見さんで、逸見夫人は太宰夫人と一緒に料理や片づけをなさっていた。私は近くを立ち寄って挨拶にきたところ偶然という体でご紹介いただき、ご子息ご息女たちと挨拶をしたくらいだったが――中々ああいう機会はなかったから貴重な経験だった」
結局その経験を生かすことはなかったが、という晴悟の呟きに横須賀は眉を下げた。晴悟は確かに誕生パーティなどを開く機会を持たないだろう。孫である椿に対して気を配っているようではあったが、どちらかというと大人のように扱うことが強く、あまり会う機会がなかったとはいえ馴染まないことはなんとなく察することができる。
こほん、と晴悟が自身の呟きを無くすように小さく咳払いをし、空の封筒を机に置く。
「逸見さんは私とは反対に子煩悩といった様子だった。逸見夫人も同じくだ。藤悟君は物静かに見えたが子供同士では話していたように思う。星が好きだと言っていて、写真に写っているのはプレゼントの天体望遠鏡だ。自身の誕生会だが少し他人事のようというか、マイペースにも見えたな。ただ周りを見ていないわけではないようで、時々年子の妹を優しく見ては笑っていた。高校一年生にしては小柄だったが、妹と似ている顔立ちもあって微笑ましい自然さがあった。
妹の五月ちゃんは随分と真面目で気を配る子だった。私にも丁寧に挨拶をしにきたし、ご夫人たちの仕事を気にしていたようだったな。ただ彼女も兄と同じパーティの主役だったからか、あまり自身が動きすぎないように気を使っている様子もあった。兄を随分慕っているようで時折声をかけては楽しそうに笑っていた。プレゼントは随分と装丁の凝った植物図鑑だったようだな。花が好きらしく、庭を見ていた時近くにやってきた。私が聞けば嬉しそうに答え、自身が世話をしている花も教えてくれた。
四人とも仲が良かったが、同じ花好きの竜郎君が五月ちゃんと一緒にいること、同じ星好きの太宰桐悟君が逸見藤悟君と一緒にいる割合が多かったと思う。
私にとっては随分と優しさにあふれた場所で、二家族はまとめて眩しい一家族に見えた。君のおじいさんに話を持ち帰れることに安堵もしたし、手紙と写真を見て君のおじいさんは君の幸いを祈ったものだ」
晴悟の言葉がそこで途切れる。横須賀にとってはひどく遠い空間は、物語の中のようだった。やさしいやさしい、絵本に似た物語。
けれどもこの物語は、そこで終わらない。晴悟は静かに、少しだけ長い息を吐いた。
「私が語れる逸見家は、これだけでしかない。ただただ幸いにあふれた家で――けれども七月八日土曜日、逸見藤悟君と太宰桐悟君が行方不明になった。私がその話を聞いたのは七月十日。逸見藤悟君は翌日十一日に発見されたが、心神喪失状態。そのまま入院することになった。病状については公言されなかったが、周りを認識できない精神状態だと噂されていた。実際私は尋ねはしなかったが、太宰桐悟君について有力な情報が得られなかったという噂と一緒に広まったようだ。逸見藤悟君の病状も原因も行方不明になった理由もわからないまま、太宰桐悟君はいまだに発見されていない」