9-4)追憶
(印刷所)
そこは工場だったはずだ。だが、見たのはなにもない状態だったし、そもそもどんな工場だったのかまで確認はしていない。事務所、休憩所、工場。廃工場なのだから確認してもわかるかどうか。
住所はメモしてある。書かれているのは工場の住所。愛知県芙由之芽市花房385ー9。名刺にかかれているのは、
(同じ)
手のひらがざわつく。意外と言うよりも、どこか頭の端でやっぱり、という言葉が浮かんだ。やっぱり。続く言葉までは、わからない。
横須賀のペンが止まったのを見て、晴悟が口を開く。
「どうかしたかね」
「いえ、その、続きを、お願いします」
メモをめくり戻しペンを立て直した横須賀に、晴悟は少し黙した。考えるような沈黙は、しかし意味をなしきる前に消える。
「逸見裕也さん。彼には個人的にお願いすることがあり、その関係でご家族全員に会っている。太宰コーポレーション社長の太宰さんとは親戚づきあいで、太宰さんのお子さん二人にも会った」
「ふたり」
太宰という名前で浮かんだのは一人だ。横須賀の復唱に、晴悟は頷いた。
「ああ。その二人を見ることがそもそも私の目的だった」
「え?」
目的。仕事とは別のものの理由がわからず、横須賀は首を傾げた。晴悟の視線が晴悟の左手側にまた落ちる。左肩、と思ったが、いやと横須賀は考えを改めた。
晴悟の視線はあの菓子箱に落ちている。
「君の知りたい情報に、近いだろうか」
ぽつりと落ちた言葉に、横須賀は瞬いた。それからペンを握り直し、正座した膝をすりあわせるようにして身じろぐ。
曲がった背を少し伸ばした横須賀は、はい、と答えた。
「教えてください」
言葉を重ねられ、晴悟の視線がもう一度横須賀に向かう。
「まず最初に、逸見さんの家に訪れた結果から言おう。君が望む急ぎの用件と違うのだったら、時間が無駄になる。この話はいつでも君は聞く権利を持っているし――君の今を優先するにも、必要なことだと私は思う」
晴悟は少し言葉を探すようにしながら、とすとすと思考を並べた。晴悟の考えに同意するように横須賀も頷く。
時間がない、というのは実際どこまでかは横須賀にはわからない。けれども山田の宣言した一ヶ月が終わったとき、きっと全て終わっているのだと思うのだ。そしてその猶予は、実際一ヶ月ではないだろう。
そもそも山田は情報がどう漏れるか、人が自由に動かないとわかっている人だ。横須賀が動くことで、山田がなにか考えている相手に知られることだってある。そうするとそもそも横須賀をクビにした時点で、随分と物事が進んでいる可能性が高い。
横須賀の固い表情に晴悟は浅く頷き返すと、改めて姿勢を正した。
「逸見裕也さんの家族にはプライベートでお会いした。五月の話だ。そして逸見さんの家族は、八月にもうお会いできなくなった」
五月、八月。メモを記しながら、横須賀は晴悟を見る。静かな表情だった晴悟の顔が、少しだけ歪んでいる。眉間に寄った生来の皺よりも深くしかめられた表情は、息を吐くリズムと一緒に一度閉じられた。
再び開いた瞳は、おそらくまだ過去を見ている。
「逸見印刷所社長逸見裕也、夫人逸見サキコのお二人は八月十一日に亡くなった。続く八月二十日、ご子息逸見トウゴ、ご息女逸見サツキは行方不明。――今もなお発見されていない」
ひゅ、と横須賀の喉が鳴る。静かに横須賀に戻った視線に、横須賀は一度細い息を飲み込んだ。
ざわつく手のひらを誤魔化すようにペンを強く握り、がりがりとメモをとる。
聞いていいのか。浮かんだ躊躇いは形にしない。
「ご夫人と、お子さんの名前は漢字だと」
「逸見夫人はサキコ、花咲くの咲に、子どもの子。ご子息のトウゴ君は藤の花の藤に悟る、サツキちゃんは数字の五に月、そのまま三月四月五月の五月と書く」
するするとペンが動き、止まる。晴悟がじっと待つのを、横須賀は見返した。
「事件があった、んですか」
「ああ。まだ犯人も見つかっていないはずだ」
犯人も。メモに走り書きを増やし、横須賀は眉を下げた。それでも、続ける言葉は決まっている。
「……教えてください」
「ああ」
短く答え、晴悟は息を吐いた。整え直すような静かな呼吸と、静かな声が続く。
「といっても事件について私が知っていることはさほど多くない。逸見家について言えることも。ただ、逸見さんについて触れたこと、見たことは多くないからこそ語りきれるだろう。
仕事上の付き合いだけだった逸見さんの家に訪問させていただくことになったのは、二十三年前。君を身ごもったお母さんが嫁ぐことになったことがきっかけだった」
ぎゅ、と小さくなるように丸くなりながらも、横須賀はペンを立てたまま晴悟の声を聞いた。横須賀の様子を確認するようにしながらも、晴悟はもう一度小さく頷いて口を開く。
言葉はつらつらと机に並んだ。
「君のご両親の話を聞き、君のおじいさんは君の幸いを祈った。同時に不安だったのだろう。血の繋がりが全てではない。それでもおじいさんの周りには血縁が繋がる家族が多く、はじめてのことだった。はじめての孫に自身がどうできるのか。君のお母さんの事情を聞いたおじいさんは、君が唯一の血縁である母からどのように愛されるかも含めて、少し憂慮した。……大丈夫か?」
青白い顔の横須賀に晴悟が声をかける。横須賀は白い顔のまま、ひゅ、と喉を鳴らした。
「すみません、続けてください」
それでも返った言葉ははっきりとしていた。晴悟はもう一度頷き、息を吐く。
子どもに聞かせる言葉ではないだろう。母から愛されないことを客観的に聞くなど好ましくない。本当ならもっと端的に伝えるべきなのだとも思う。
それでも晴悟はこの話を、そんなきれいに切り取って並べることが出来ない。そうでなければ、続ける物の意味が変わるからだ。自分勝手を晴悟は自覚していた。
「憂慮したおじいさんから相談を受けたのが私だ。私と彼が友人であったというのが大きな理由だが、もうひとつは私が仕事柄多くの人間と関わる環境だったのもあるだろう。君のおばあさん――笑美子さんには君のご両親の事実を伝えていない。おじいさんから話を聞いて、私はどうすべきかと考えた。私自身は仕事以外、人の家庭にまで踏み込まないタイプだったからだ。
それでもなにも心当たりがないわけではなかった。当時知っていたのは、太宰コーポレーション社長に養子がいることだ。ただ私自身はその時太宰コーポレーションの社長と付き合いがあったわけではない。難しいだろうとおじいさんに伝えながら、相談した相手が当時仕事相手だった逸見さんだ。彼が太宰コーポレーション社長の親族であったので、なにか養子について話を聞ければいいだろう程度の考えで私は相談をさせていただいた。随分とプライベートな話だったが彼は非常に親身に話をしてくれ、その時に彼の家に招待されないか、というような提案までしてくれた」
そこで一度言葉が途切れる。視線がまた菓子箱に動き、正面に戻り伏せられ、また横須賀に向いた。
晴悟は自身の左手を右手で一度撫でると、彼は、と言葉を続ける。
「君の境遇を随分と悲しみ、おじいさんの思いを聞いては優しく頷き、私の相談に対して多くを考えてくれた。家に招待との言葉に私は返す言葉を探したが、彼は気にせず言葉を続けた。
曰く、彼のご子息ご息女と、太宰さんのご子息たちは随分と親しいとのことだった。特に太宰さんの養子となったご子息がなじめるようにと、彼が来てから毎年互いの誕生パーティに招待しあう関係となったらしい。太宰さんのご子息と逸見さんのご子息がおない歳ということもあって、誕生日以外でも付き合いが多くあり、直接紹介とまでしなくても丁度立ち寄ったくらいの形で私を招いてもいいとのことだった。
正式に招かれるにはおじいさんの理由を言わなければならなくなる。君のお母さんのことはあまり人に知られすぎない方がいいだろうと考え、逸見さんの提案に甘えることとした。――この箱は、逸見さんから誕生日会のあと頂戴した君のおじいさんに当てた手紙と、ご子息たちの写真だ」
左手が箱の側面に添えられ、右手がもう片方の側面を支える。そうしてするりと押すようにして晴悟の正面に置かれた箱の文字を、晴悟がそっと右手の指先で撫でる。