9-3)名刺
* * *
机の木目に交差するように、横須賀は多機能ボールペンと一冊のメモ帳を置いた。机の幅は広く重厚で、一五〇センチ程度はあるようだ。しかし座布団は不要なものとして平時仕舞われているのか、横須賀が座っている場所と対面にひとつずつしかない。
そして空いた座布団側の机には、先ほど晴悟が運んだ二〇センチ四方の箱がある。色が褪せているためわかりづらいが、川の絵となにか名前が書かれている。おそらく和菓子かなにかの箱だろう。四隅に少し凹みと左手側に傷があることとその色褪せた様子から、その箱が経た年月を感じさせられた。
横須賀からすると晴悟のような人間が菓子箱を保管用に使うことは不思議だったが、上に貼られた紙に『晴悟へ』との記載があるのでおそらく誰かから貰った物なのだろう。セロハンテープは随分と飴色になっており、その上にやや透明度が残るセロハンテープも貼られている。剥がれたものをもう一度重ね貼りしたのだと見てとれた。中身は想像付かないが、しかしそれだけの年代があるということはおそらくそういうことだ。横須賀はそっと息を吐いた。
「待たせた」
「あ、いえ! 朝早く申し訳ありません」
扉を開けた晴悟に、横須賀は改めて頭を下げる。横須賀を見下ろす晴悟の瞳はいつもと変わらずしん、とまっすぐだ。
「構わん」
瞳と同じく平坦な調子で短く返答が発せられた。盆を持ったままスリッパを脱ぎ、晴悟は改めて口を開く。
「椿がいないので茶の準備の時間があるのを失念していた。連絡をした君に許可をしたのも待たせたのもこちらだ、気にすることはない」
「すみません」
おそらくなだめる意味でもあるだろう言葉だったが、それでも反射のように横須賀は謝罪した。そのある意味では無駄な行為に言葉を重ねることまでは晴悟もしない。
晴悟は畳をするりと歩き横須賀の隣に一度膝を突くと、横須賀のメモを避けるようにして小さな湯飲みを置いた。そして対面に移動し湯飲みを置くと、机の横に盆を置いて扉を閉めに行った。
すべての所作ひとつひとつがピンと伸びた晴悟を見ていると茶を入れること自体は慣れている様子に見えたが、晴悟の口振りから考えると以前は椿が行っていたのだろう。椿が大学に行きだしたのは今年からなので、もう十月の終わりとは言え人が来るのが頻繁でなければ失念するのも不可思議ではない。
横須賀自身は時川家に来たことがないのでわからないが――孫の椿は確かにそういった作法に馴染んでいそうだったし、晴悟は彼女に随分しっかりと佇まいを教えていたらしいから椿が行っていたのは自然に思えた。故に横須賀もそれ以上言葉を重ねはせず、謝罪の後はじっと晴悟を見続けた。
「茶請けを持ってこようと思ったが、食べる暇もなさそうだと思って止めた。必要か?」
とん、と扉を閉める音が落ちる。
静かな晴悟の問いに、横須賀は肩を揺らした。流れていきそうだった思考を捕まえるように、メモを掴んで晴悟を見上げる。
「いえ、その、メモを取らせていただきますので」
「だろうな。話が終わって時間があれば食事でもとも思うが――急ぎなのだろう」
扉から自身の座に進むと、晴悟は膝を折って座った。正座をし背筋を伸ばす晴悟の姿は随分とまっすぐで、横須賀もあわてて背筋を伸ばす。
晴悟はポケットから木製の名刺入れを取り出すと、菓子箱とは反対、右手側に置いた。
「朝早いのは構わない。君が急ぐようなことがあるのだったらそれが十分な理由だ。これまで一度たりとも無かった訳なのだから、君は謝罪をしなくていい」
「……はい」
はっきりとした晴悟の言葉に、横須賀はボールペンを手にするとゆっくり頷く。頷きに倣って丸くなる背を晴悟は指摘せず、先ほど右手側に置いた名刺入れをついと見下ろす。
横須賀のメモにペンが立つのを視界の端に入れた晴悟は、視線を横須賀に戻した。
「君の条件だが」
晴悟の声は静かでもよく通る。若々しいと言うよりは体の芯に響かせそのまま吐き出すような声は、横須賀の声と反対に随分落ち着いていて内側に残りやすい。
「最初の条件である、私が社長職の時に付き合いがあり会長職に就く前に縁遠くなった人間というものは、少し多すぎる。念のため該当者を確認してはあるが、さすがに全てを渡すのは私の立場から難しいことだ」
つらつらと並べられる事実はきちんと先に精査したものであることがわかりやすい、一定の調子を崩さないものだった。少し伏せた瞼が瞳を隠すものの、きちんと分けられた灰色がかった白髪の髪は顔に影を落としはしない。
年月の皺にその表情が埋もれることもなく、瞼がするりと持ち上がる。
「まず、加えてもう二つの条件に重なった家の話をしようと思う。こちらは正直仕事上というよりは、私個人の関係だから私が知る限りを話せる。それが君の知りたい情報に足りなかった時は、またなにか該当条件を出して欲しい。そこから精査して話をしよう」
「お願いします」
横須賀が頷くのを見て、晴悟は右手側に置いた名刺入れに右手を乗せた。そのまま机を滑らすようにして自身の前に置き、両手で覆う。机の上で手を合わせるような所作は、皺の多い骨ばった指の中に名刺入れを閉じこめるようでもあった。
「もう二つの条件――二十年以上前、家族に不幸のあった人間。太宰コーポレーションの人間と関わりがある、またはその会社に勤めたもの。後者はまだ多いが、前者に関しては私が知るのは、この家だけだ」
横須賀が顎を浅く引く。晴悟は両手を自身に寄せると、すべらせるようにして右手を下に差し込んで持ち上げ、そのまま蓋に指先を引っかけた。
流れるような所作がひとつひとつ、区切りごとに止まる。蓋を開ける前に止まった指は、間を空けずにかちりと名刺入れを鳴らした。外れた蓋は右手の内側に入れられ、指を合わせするようにして名刺が取り出される。
そうして蓋の上に名刺が重なると、かち、とすぐに名刺入れは閉じられた。上に載せたまま、晴悟は横須賀の前に名刺を置く。
名刺を渡すと言うより、それは見せる為の所作だったのだろう。丁寧に置かれた紙はごく普通の名刺のようだ。会社の名前と住所、電話番号、本人の名前がシンプルにデザインされた名刺の中で一番大きい文字を、横須賀は追った。
名刺のデザインとして一般的なものなので、当然先に目にはいるのは名前だ。書かれている名前は逸見裕也という文字で、当然横須賀は知らない。
「逸見印刷所社長、
はく、と横須賀が半端に口を動かした。目を大きく見開き半端な形で止まる唇に、晴悟は視線を一度自身の左肩あたりに動かした。
逸れた視線を追うのが一拍遅れる。追おうと思ったときにはもう横須賀に戻ったその目は、ただ静かに横須賀を見つめている。
「……続けても?」
「っ、あ、えっと、すみません」
あわてて横須賀はペンを走らせた。逸見印刷所社長、逸見裕太。二十三年前。結、は書き掛けて消して、平仮名でけっこん、と書く。名刺に書かれた住所は愛知県芙由之芽市――
(あれ)
見たことのある市の名前に、横須賀はメモ帳をめくった。ぱらぱらと前のページを確認して、やはり同じ名前を見つける。