9-2)みず
* * *
「貸し切りよ」
横須賀が扉をくぐると、リンが静かに告げた。はく、と唇を震わせ、横須賀は頭を下げる。
「有り難う、ございます」
「今日くらいはね」
横須賀の礼に対し、リンはそっけなく答えた。カウンターの向こう側は、横須賀が立つ側より一段高い。見下ろす視線に、横須賀はもう一度頭を下げてカウンターの椅子に座った。
以前山田が座っていたその隣、最初に横須賀が座った席に座るのを見て、リンは小さくため息を吐く。
「私はほとんどなにも教えられないわよ」
念を押すような口調。横須賀はその言葉には頷かず、リンをじっと見つめた。首に巻かれたラメ入りの紫がかった薄手の青いストール、黒を基調とした横縞のワンピース。
カウンター向こうでもその裾の長さを横須賀は知っている。最初に訪れたときと同じ、店に立つときのドレスではない格好。
「山田さんは俺を辞めさせるから、次の職場候補として顔見せに連れて行ったんですか?」
静かに横須賀は尋ねた。リンは先ほどよりも大きくため息を吐いて、グラスの棚に向かった。
「なに呑む? 奢るわよ」
「お水、を」
「……そう」
大きめのグラスを二つとペットボトルを並べると、リンはとぷとぷと水を注いだ。量が多いペットボトルは相変わらずリンには少し重いようで、手の甲が緊張で筋張っている。リンはグラスの片方を横須賀に差し出すと、もう一方は自身の手元に寄せた。
一口だけ水を飲み込む。じゅわり、と胃に落ちた水は、内側から横須賀を冷やす。
再び横須賀はリンに視線を戻し、言葉を待った。ストールの影で、ごつりとしたリンの喉が三度ほど揺れる。
グラスから口を放すと、リンは自身の頬にかかる髪を指先で巻いた。
「正直なところ、情報を得るだけなら横ちゃんはいらなかったわ。経験を積ませる為じゃなかったのなら、想像は見当違いじゃないでしょうね」
冷えたグラスから横須賀は手を離した。冷たくなった手のひらを椅子と足の間に挟むようにして後ろから前に動かすと、カウンターテーブルの下でペンを握る。
「リンさんは聞いていなかったんですか」
他人事のような言葉を確認するように、横須賀は尋ねた。リンは少しだけ目を伏せると、肩を竦め息を吐く。
「あの会社で働けるのはそれなりに運がいいと思うわ。面接で大きな失敗しない限り、横ちゃんならいい社員になるんじゃないの」
「山田さんから頼まれたんですか」
「縁はあっても結果は貴方が掴むものよ」
リンの言葉は問いに対する答えには足りなかった。しかし横須賀は問いを重ねず、ペンをひっそりと滑らせる。
「山田さんの次の仕事はいつですか」
「守秘義務よ」
はっきりとリンは言い切った。一秒も間は空いていない。横須賀はメモをめくった。テーブルの下で読めないが、それは別によかった。
「五藤黒務については、」
「守秘義務」
「詰めの仕事はいつまでに」
「守ー秘ー義ー務」
重なる問いに、リンは大きな口を横に開いて呻いた。横須賀のメモがその下でめくられていく。
「あのね、横ちゃん。ほとんどなにも答えられないって言ったでしょ? 私はね、仕事は仕事ってきっちりしているの。そんな信用すらないの?」
リンは髪を揺らして横須賀に詰め寄った。眉をつり上げてリンがまくし立てる様に横須賀は少しだけ申し訳なさそうに眉を下げたが、目を逸らすことはしない。
さり、と、メモを爪がひっかく。
「山田さんは一人で終えるんですか」
沈黙、三秒。
「……守秘義務よ」
「それでいいんですか」
「横ちゃん」
静かに、リンが横須賀の名前を呼ぶ。横須賀は浅く顎を引いた。
相変わらずの猫背とは反対のまっすぐな瞳から逃げるように、リンは瞬きと共に顔を伏せる。
「ノーコメントよ」
ぽつり、と結局落ちた音は溶けた氷がグラスの中で転がるような音だった。横須賀はそれでも、リンを見たままメモを折る。
「山田さんは一人で終えるんですね」
「横ちゃん」
横須賀の繰り返しに、リンは眉をしかめたまま横須賀を睨んだ。横須賀の悲痛な顔は、リンに睨まれているからではないだろう。
リンは左手で右手の親指を掴むと、その右手で左手の甲を撫でるようにして手をぐにぐにと揉んだ。ぐず、と白くなった手の甲で、血管が歪む。
は、と短く息を吐き捨てる音。リンの両手がそれと共に開かれ、机に乗る。ハイヒール、カウンター内の高い段差、伸びた背筋。横須賀を見下ろすリンの顔が、遠い。
「何様のつもりなの」
静かな声に、びくり、と横須賀の肩が強ばった。それでも見上げる横須賀を、リンは睨み続ける。
「太郎ちゃんが選んだことを私がとやかく言う気はないわ。仕事についても貴方に教える気はない。太郎ちゃんが猶予をくれたから誤解しているのかもしれないけれど、貴方、クビになったのよ。クビになった貴方は太郎ちゃんの仕事相手でも私の仕事相手でもない。親切に対して調子に乗るのはやめなさい」
ひゅ、と横須賀の喉が鳴る。もう一度リンはため息を吐いて、自身の髪を後ろに流した。
横に逸らされた顔と揺れた睫、肩。それらを見てもなお、横須賀は動かない。
「親切を利用して、すみません」
横須賀が細い声を落とす。利用という言葉があまりにも似合わないおずおずとした調子と色のない顔に、顔を逸らしたままリンは横目で横須賀を見た。
「それでも、俺、こわく、て。山田さんがまたひとりで、なんて、そんな」
ぽつぽつと言葉が落ちる。当てつけのようにリンが大きなため息を吐いても、その細い声はかき消えることがない。
横須賀は拳を握ると一度息を呑んだ。そのまま伏せられた顔は、手前に引いたメモを見る。はくり、と酸素不足に喘ぐようにしてからもう一度持ち上がった表情は、眉こそ下がっているもののきっちりと唇を引き結んでいた。それから小さく細い呼吸が一度漏れ、指先がカウンターの下でメモを押す。
「山田さんは、アタリ案件なら相棒がいた方がいいって言っていました。なのに突然こんなの、山田さんがひとりなんておかしいです。だってこれがアタリなら」
「……横」
静かな声。女性的とも男性的とも言いづらい調子の音に、横須賀は口をつぐむ。もう一度落とされたリンのため息は、水で濡れたように低い温度だった。
「横ちゃんの言いたいことがなにもかもわからないってわけじゃないわ。それでも貴方、想像くらいしなさい。私が何年太郎ちゃんと付き合ってきているか知らなくても、長い期間くらいはわかるでしょ」
諭すように、冷えたため息を柔らかさで変えながらリンが言葉を続ける。それでも横須賀は頷かず――リンがもう一度、横須賀に向き直った。
「たかが半年も働いていないぽっと出が何様のつもり」
はくり。口が震える。横須賀はメモをめくった。
リンははっきりと横須賀を断じている。横須賀にわかることは多くなく、ただ自身が山田にとって邪魔だということはびりびりと感じていた。
リンは山田のために動く。もっというなら、山田の意志のため。山田が決めたことにあくまで逆らわない。
だからこの感情は、もしかするとリンのものですらない。
「期間なんて、わかりません。俺は、山田さんがまたあの病院の時みたいになったら怖いんです。リンさんだってまた、もし手伝うにしてもあの場所にいなくて、それでいいんですか。山田さんは」
「やめて」
はっきりとした制止。爪がメモをひっかいて、折る。リンは眉根を寄せ、苛立ちと悲痛さを瞼に乗せていた。
「貴方はそう、そうだから勝手にそんなこと言えるのよ。やめなさい。私は太郎ちゃんを優先する。横ちゃんには悪いけれど、私は太郎ちゃんを選ぶの。これはずっと前からなのよ。今更どうこう言う話じゃないわ」
「でも、ひとりじゃ何かあったとき」
「――なにも知らない癖に」
リンが呻くように唸った。横須賀は一瞬目を見開いたが、すぐに悲しげに眉を下げる。口の端を結び、開いた横須賀は、しかし静かに頷いた。
「なにも知りません」
「わかっているならやめなさい。知らない人間が関わるものじゃ」
「知らないから、知りに行きます」
リンの言葉を、横須賀ははっきりと遮った。上下する肩は形にならないため息と焦りのようで、それでも声はひどく落ち着いた宣言だった。
ひくり、とリンの口角が歪む。
「なに、言ってるの」
「俺はこのまま、は、無理です。山田さんは嘘は未来を担保にした借金、って言っていました。俺がいらないなんて嘘を吐いたあの人がなにを担保にしたのか、その先を俺は、受け入れたくない、です」
リンがじっと横須賀を見る。は、ともれた息は嘲笑でもため息でもなかった。ひきつったその息を、リンは髪を揺らしてかき消す。
口元にうっすら浮かんだ笑みとほんの少し下げられた眉はに、呆れともうひとつ、なにが含まれているのだろうか。
「随分傲慢になったわね貴方」
リンの言葉に、横須賀は瞳を揺らした。それでも逸らさず、謝罪を飲み込むように唇の端を噛む。言葉の身勝手さと反対の臆病に、リンはもう一度息を吐いた。
その息はさきほどより随分大げさで、ため息らしいため息を形どった音に横須賀は身を固くする。
「私も太郎ちゃんも貴方が想像できない時間向き合ってきているの。そんなうまく行くわけないし――足掻いたところで無駄よ」
横須賀は返事をしない。長く前に立らしたサイドの髪を、リンは耳の後ろにかけ直した。
「言っとくけど、飯塚さんに聞いても無駄よ。おしゃべりな人に見えたかも知れないけど、そこは守るわ。守らせる」
「……飯塚さんの連絡先は知りません、から」
「そう。なら面倒がなくてよかったわ」
は、とリンが笑う。ひどく自嘲じみた音を聞きながら、横須賀はメモにペンを走らせ鞄に差し込んだ。立ち上がった横須賀を、リンがじっと見る。
「もういいの?」
「はい、有り難うございました」
「そ。期待したことなにも聞けなかったでしょ」
リンの言葉に、横須賀は首を横に振った。音にない否定に、リンが少しだけ笑う。
「……許して貰おうとは思わないわ。私は太郎ちゃんを選んだから」
「謝って貰うことも、ないです」
ぽつりと落ちた言葉に、ゆっくりとした言葉が重なる。リンは肩を竦めた。
そう、謝罪は必要ない。横須賀にとってリンの言葉は、絶望ではない。事実と、一点の許しだ。
「有り難うございます。十分、教えて頂きました」
「書類関係の質問なら聞くけど、今日みたいなことは横ちゃんだけなら話さないわよ」
「はい。有り難うございます」
もう一度重ねられた礼に、リンは息を吐く。失礼します、と立ち去る猫背を見送って、リンはほとんど減っていないグラスをカウンター内に戻した。
もう扉は揺れない。
「……馬鹿ね」
ぽつりとした呟きは、グラスの水と一緒に流れていった。
(リメイク公開:)