第九話 なまえ(前編)
9-1)記録者、横須賀一の話
* * *
彼はメモ帳を見下ろしたまま固まっている。さて、せっかくだ。動かない青年である記録者、横須賀一の話をしようか。
彼はひどく愚鈍な男だと言われていた。自身が呟いたことでようやく自身の感情に気づく様や、その身勝手な言葉に元々色のない顔をさらに白くする様は確かにその言葉が見合っているのだろう。彼の愚鈍さは彼自身が自覚する物だったし、彼の周囲の人間も同じように考えることが多かった。
便利だが、それだけの男。過去に知り合った一部の人間は彼を愚鈍とはせず、彼が彼の能力に気づかないことを嘆いたが――多くの人間は、彼の愚鈍さを笑った。いや、彼の能力を評価する人間ですら、一方では彼の愚鈍さを嘆いていたかもしれない。
記憶するには足りず、自身の感情に鈍い彼を。
彼は調べることが好きだった。請われることが好きだった。使われることが好きだった。使って貰えてようやく自身が存在することに気づけるような彼は、やはり愚鈍と呼ばれるのだろう。
彼の性情は、彼の生育歴からすれば仕方ないとも言えるかも知れない。数少ない彼のかけらを知るものは、どうしようもない事実にため息すら難しくなったものだ。
ただ、残念ながら理由はそれほど珍しいものではない。誰かが経験するもので、彼が特別不幸だとかそういうことはなかった。幸福だったかどうかはまた別だろうが。
しかし遠回りに言う話でもないな。端的に言うと、彼は母親の視線を受けない子供だった。別に、暴力や育児放棄と言う形での虐待はされていない。ただ、存在を無視された。
彼の母は彼の祖父――母にとっての父親に性的虐待を受け、身ごもり、幼さと恐怖で彼を堕胎出来ずに生んでしまった女性だったから、仕方なかったのかも知れない。けれども当時の彼はそんな理由を知らなかったし、ひどく愚鈍なまま母を求め、しかし手を伸ばしはしなかった。得られないとわかりきったものを求め続けることは、非常に困難だったのだ。
彼の父は彼と血の繋がりはなくとも母の為にすべてを知って婚姻を結んだ人で、傷ついた母にとっては非常に希有な存在と言えた。歪みながらも彼の母は夫の存在で癒された。けれども彼の父は、彼の母を優先しすぎて彼を見ることはなかった。近所に暮らす父方の祖母は優しかったが耳と目が良くなく、早くに亡くなった父方の祖父の残した遺産である大量の本に埋もれるようにして隅にいた彼を本が好きな子だと笑っていた。
彼は絶望と言えるほどの苦しみを持ち得なかった。しかしその経験は彼にとっては唯一で、恐ろしいほどの孤独だったのだろう。悲しみは他者と比べてはならない。しかし彼はあまりに比べなさすぎて、彼のすべてを当然と受け止めてしまった。
優しい祖母から言われたおとなしくていい子だねという言葉に縋るように、彼は迷惑を掛けてはいけないと自分を律したのだろう。彼はたすけてと言わなかった。自分を見て、とも言わなかった。
彼のその願望は、小さなメモに鉛筆でガリガリと押し付け削られた。書かれた言葉を見て、彼はそれを破り捨てた。言葉は出した。なかったことにもした。裏切らない文字という形にした彼は、その文字を破りなかったことにすることによって、感情をなかったことにしたのだ。
だから彼は、周りから愚鈍と思われるような人間になった。
これはなにも言えなかった、記録者、横須賀一の話だ。
君はこの事実を知った時、ひどく悲しんだかも知れない。それとも馬鹿馬鹿しいと切り捨てただろうか。どちらかというと、君が眉をひそめ、言葉に出来ない思いを唇で噛みしめる顔が浮かぶ。
けれどもその表情は、本当に今の彼に似合うだろうか?
――彼の話をするのに、彼の名前だけで表現をしなかった意味に君は気づくだろうか。彼は今ペンを置いたまま暗い顔をしている。けれども彼は動かない。そのメモを仕舞わない。
彼は愚鈍な男だと、君は言うだろうか。
「……りない」
ぽつり、と彼は呟いた。その音は小さすぎて、彼自身の耳にも届かないんじゃないだろうか。誰か居たところで、彼の言葉がなんなのかわからないだろう。
けれども彼はそんなことなどどうでもよかった。だってそうだろう、彼は誰かに告げる為に呟いた訳ではないんだ。
その呟きは、彼の思考が漏れ出た音だ。
記録者横須賀一は、彼自身が評価するように確かに記憶する力や思考する力があまり強くないのかも知れない。それでも彼は、思考する。人間なのだから当然だ。だからほら、彼は立ち上がる。
彼は棚の前に立った。ファイルとノートを引っ張り出す手は少し乱雑だ。付箋なんて、彼の大きな手のひらの一掴みで運ばれてしまう。
机にそれらを追加すると、彼はスーツを脱いで脇に置いた。おそらく慣れないスーツは体に合わなかったのだろう。肩を上下させた後、彼はノートをめくり、ペンを持った。
彼の色のない表情の意味を、君はどう読み取るだろうか。
彼は彼のルールでそれらを広げる。邪魔な物は机の下に一度置かれた。仕事に関しての細かなメモ、感じたこと、行った場所、出会った人。依頼人に関しては簡易なものだが、今求めるのはそれではない。
彼は息を吐くと、文字の世界にのめり込んだ。
さあ、記録者、横須賀一の話をしよう。
彼は愚鈍で、矮小で、何の役にも立てず、使って貰えることに大きく感謝していた。忘れてしまう、考える力のない彼は自身を空っぽだと思っていた。感情に愚鈍な彼に手を伸ばすことが上手に出来ないまま、嘆く人もきっといただろう。
けれどもその評価は、本当に適切なのだろうか?
――君は勘違いをしている。彼はこの歳まで生きてきた。だから本当に誰も彼も周りに居なかったわけではない。君は勘違いをしている。彼がなにも感じないのなら、メモを破り感情をなかったことにする必要はなく、求めないことで自身を律する必要も無かったのだ。彼がなにもかも有り難がる意味を、周りはなぜ理解しなかったのだろうか?
彼は最初、確かに持ち得なかった。彼は彼の理由ではない、もっと遠いところで彼が求めても得られないことが出来上がってしまっていた。
だからこそ彼は有り難がった。家族という最初に触れる社会の単位で得難いことが人との関わりで得られることに。
彼は求められた分答えたがり、感謝し、貰うすべてを逃すまいとした。彼の本質は、きっとそこだ。
なぜ横須賀一が記録者と成り得たと思う? 記憶しないといっても本当に記憶力がないわけでは無い。忘れることは大なり小なり誰でもあることだ。それなのに彼は忘れることに怯えるかのように、まるで異常と言われてもおかしくないほどメモを残し続ける。
彼のメモは確かに彼の能力が不足していることを示しているが、しかしそれだけではない。
当たり前に忘れてしまうことすらその手からこぼれ落ちるのを厭うように、彼は自身を信用せず、貰った物をすべて残すために、こぼれ落ちる物を拾い上げるために記し続けていた。
彼は記録者だ。だから君は見誤った。
多くの人は、君は、彼を素直な人間と称しただろう。確かに彼は素直な人間だ。多くの人は、君は、彼を便利な人間だと称しただろう。確かに彼は使う人間にとっては便利な人間だ。多くの人は、君は――彼を、諦めることに慣れた人間だと称したのかも知れない。
その最後が正しいかどうかは、彼が示すだろう。
ほらご覧。彼は今、文字の世界から浮上した。新たなノート、付箋、インクで汚れた手。深い潜水からようやく酸素を得たようにあえぐ彼の瞳は、まっすぐだ。
彼はずっと目を逸らさず生きてきた。目を逸らしても危険は彼を襲ったからだ。そうしながらも彼がままならぬ世界から離れる時、そこにあるのはいつも文字だった。記憶に残らない文字は彼の居場所だった。それでも文字は結局別の世界で、彼はそう、逃れた先ですらずっと見てきた。
彼は確かに求め方を知らなかったかもしれない。彼は与えられることにも慣れていなかった。けれども考えて欲しい。彼はなにも与えられなかったか? なにも得なかったか?
山田太郎はおそらく、その一点を間違えた。切り捨て成り立つ人間の過ち。彼は山田太郎と逆だった。切り捨てられず拾い続け抱え続け、ただひとりで求めずに生きてきた男が諦める人間なのだろうか。君はこれから知るだろう。見るだろう。だって彼は、知ってしまった。見てきてしまったのだから。
彼の手が携帯端末に伸びる。ディスプレイに写った文字、タップする指。コール音。
「もしもし、」
彼の急いた声は相変わらずの不安定さを持っていたが、しかし細い音ではなかった。
退屈しのぎの話はここで終わりにしよう。記録者横須賀一の話は、わざわざ彼だけを語るのでは味気ない。彼は動き出した。君が進むのなら、彼も進むだろう。
これは求めなかった人間と切り捨てた人間の、なにも特別ではない物語だ。
(リメイク公開:)