台詞の空行

8-16)みち


 歩道を歩く足取りは重い。最初は望まなかった仕事だと言われても、不安に駆られた気持ちを思いだしても、足りなさを嘆いても、恐怖に怯えても、それでも横須賀はこの結末を考えなかった。不思議なことかもしれない。けれども横須賀にとっては当然だった。

 山田はたびたび事務所に帰れと言った。役立たずはいらないとも。しかし辞めることを示すよりも前段階があったのだ。

 事務所でもやることがあると言っていた。なにより横須賀に尋ねることがあった。だから、こんな一方的な終わりを示されるなんて思ってもいなかったのだ。

 いつか横須賀の力足らずを責められるかも知れない。そうは思いながらも、それは終わりではない想像だった。責めて、断じて、隠して。それでも山田は一方的に横須賀を切り捨てないと思っていたことを今更思い知る。

 横須賀は使われる人間だ。なのになんで、使い続けて貰えると思っていたのだろう。これまでだってそうじゃないか。なにかを知りたいとき、時間をかけることが出来ないとき、横須賀は使われる。誰でも出来ることを誰かの代わりにさせて貰える幸福に感謝する、それだけでよかったのだ。

 ざり、と、塀に肩が擦れる。無意識に左に寄りすぎていたらしい。スーツの紺に、白が目立つ。右手で撫でるようにすると、白が広がった。

(いいや)

 これから使うのに汚してはいけない、という考えは、小さな嘆息でどうでもよくなった。横須賀にとって、仕事を探すことは急務だ。自身の生活が成り立たなくなってしまう。それでも、今はスーツの汚れなど些事に思えた。

 貯金があるからが理由ではないだろう。確かに、山田の元で働くようになって横須賀はこれまでと違い多少貯蓄が出来るようになった。探偵事務所は事務員以外にも業務があり、付き添いの出張は危険が伴うものである為給金も余分に出た。依頼料がどうなっているかまで横須賀は知らないが、しかしほとんど山田が行うのに十二分すぎると思っている。だから一ヶ月で間に合わなくてもしばらくは余裕があるのは事実だが――そういう理由だけではない。

 はじめてだった。仕事が見つからないことに焦るのではなく、探さなければならないことを悲しむのは。

 そこまで考えて横須賀は、眉をしかめた。悲しい。そうだこれは悲しいのだ。ゆっくりと心臓が動いて、肺の内側にあったしこりを末端まで循環させる。じんわりとしたしびれが、瞼を熱くする。目尻が震える。

 はく、と横須賀は息継ぎをするように唇を動かして、左手を塀に付けた。石の粒のような感触が手のひらを刺す。その手を支点にするようにして、壁を曲がる。

 ぼんやりと歩いてきて、足が疲れている。だから当然時間が経っているのにふよふよと思考はもやの中で、横須賀は砂利を鳴らした。なにもかも変わらぬ帰路。横須賀はコンクリートの段差に足を乗せ、錆びた手すりに掴まった。

 かん、かん、かんと金属の音が響く。出来るだけうるさくないように歩こうとは思うのだが、慣れない革靴では難しかった。横須賀はつま先でそっと階段を歩くことに切り替えて、手のひらを錆で汚す。

 扉の郵便受けには広告が差し込まれている。惰性のようにろくに読まない広告を手にとって、横須賀は扉に鍵を差し込んだ。ぎ、と扉が開く。

 誰もいない部屋は、大学の時からずっと借りているものだ。左手側にある下駄箱の上に置いた卓上カレンダーも、そのリング部分に差し込んだボールペンも朝と変わらない。リングからボールペンを抜こうと手を伸ばしかけた横須賀は、結局止めた。

 鞄を下ろして座り、靴を脱ぐ為に人差し指を差し込む。慣れない靴に少し踵が痛い。それを敢えて強く押して足を抜くと、横須賀は靴をしまった。広告は手紙が挟まっていないのだけ確認してそのまま捨ててしまう。

 鞄を持ち直して惰性のように手を洗う。ひどくおっくうなのに体はいつもと同じリズムで動いた。スーツを脱がなければ、という思いは習慣に流される。鞄をおいて、ノートやメモ帳を机に並べる。本棚からはノートを三冊、ファイルを一冊とペン立てをひとつ運んで、横須賀は座布団に座った。

 ボールペンを手にして開いたメモ帳の前で、横須賀の背が丸くなる。

 ノートはメモをまとめるものと、日記だ。まずメモをまとめてから日記を書くのが横須賀の流れで、しかしメモの前で横須賀はどうすればいいかわからなくなる。

 もう横須賀の仕事は終わった。守秘義務に関係する物はできるだけ職場でまとめるようにしているが、それとは別に残しているこの記録も無意味である。

 もうおしまいなのだ。なにもかも。ぐるぐると山田の言葉が内側を巡る。

(なまえ)

 浮かんだ音が、横須賀の肺を圧迫する。

 横須賀さん、という音は、優しすぎた。初めて呼ばれた名前は遠くて、意味をなさない。それがあまりに苦しくて、横須賀は呻いた。

「……やだ」

 ひどく幼い、つたない言葉は今更だった。言葉にしてようやく気づいた横須賀は、あまりにも足りなすぎたのだろう。馴染みのない言葉はひどく空しく響いた。

 呻いたところでなにも変わらない。それでも横須賀はメモをまとめることも日記を書くことも出来ず――そのままペンを置く。

 彼の習慣は、そこで止まった。

(第八話「こいし」 了)