8-15)お疲れさま
「お前の能力自体は十分伝わっているんだ。コネは使えるだけ使えばいい。他の職場を探すならそれでもいいし、頑張ってくれ。悪いが待てるのは一ヶ月だ。会社都合だから見つからなくてもしばらくはなんとかなるだろうし、いざとなったらリンに相談でもして――」
「なん、で」
ようやく差し込めた言葉は端的すぎたが、山田の羅列を止める役目は果たした。横須賀の言葉を待つように黙する山田に、横須賀は握っていたペンをメモ帳に倒す。ペンと紙をまるでお守りのように膝の上で握りしめると、横須賀はひく、と唇を震わせた。
「なんでですか、会社都合って、俺、っやくにたつって」
山田のようには、言葉が並ばない。精査もできず転がり落ち、半端に欠けたまま押し出される横須賀の言葉は届いているのだろうか。
ひくり、と、しゃくりあげるように呼吸ばかりが浅く繰り返される。
「ああ、役には立った。お前の能力は俺にとって便利だった。お前を使えたのは、随分ラッキーだったと思う」
「ならっ」
「十分だ」
横須賀の悲鳴のような声に、山田はただ静かに告げた。大きすぎも小さすぎもしない声量は、とすん、と横須賀の胸を押す。
「十分、終わった。あとは必要ない。終いだ」
何故山田は笑っているのだろうか。ざわつく心地で横須賀はサングラスを見ている。
レンズに映る自身の姿は変わらない。なにもかも同じままで、ただ山田の態度だけが浮いている。
「おれ、の、しごと」
「ああ。お前の仕事は、終わりだ。お疲れさん」
山田はただひたすら、同じ意味の言葉を重ねる。なんで。横須賀の繰り返すしかない言葉と違い、その連続ははっきりとした意志で成り立っていた。
「お前の能力を俺は把握している。だから使ってきた」
とん、とん、とん。言葉も表情もこれまでの中で一等優しいのに、手が震える。メモ帳がひしゃげる。
横須賀の思いは届かない。湧いた確信を振り払うように、横須賀は頭を左右に振った。
「――俺の判断が間違っているとお前は言うのか?」
優しい声が、平坦に変わった。つり上がった眉と引き結ばれた口元が、横須賀を責める。けれども語調だけは静かで、言い聞かせるようなゆっくりとした問いだった。
山田の言葉から逃れようとするように横須賀は背を丸めた。手元のメモを片づけられない。倒れたペンの下ひしゃげたメモに書かれた文字は、横須賀がかき消したから残っていない。
当然のことが、肺を苦しくする。
「お前は便利だったが、お前が居なきゃいけないことはなかった。俺は俺の判断でお前を使い、今、それを終える。俺にはお前が必要ないんだ」
息ができない。はくはくと口は言葉も呼吸も間違えて、ぐあん、と頭が揺れる。あばらが痛い。は、とようやく漏れた息は一秒にも満たず、圧迫される肺に横須賀はどうすればいいのかわからなかった。
山田の肩が上がり、下がる。吐き出された山田の呼気に、横須賀は肩を震わせた。
「仕事のない男を側に置く気は無い」
断言は、その文字のまますべてを断つものだった。はくり。横須賀の役に立たない喉奥から出ようとした言葉は、なんだったのだろうか。形にならず、なにもかもがそのまま残る。
「……俺には必要ないだけで、お前の働き口はある。雇うときにはお前を使うのに少し言葉を強くしたが、お前はお前の力量をちゃんと把握した方がいい」
顔面蒼白の横須賀を見上げて、山田が語調を和らげた。染み渡らせるような言葉に、横須賀はひゅ、と息を吸い込む。
「俺、を、使ってくれる、って」
「ああ」
細い声に、山田が短く相づちを入れる。頷くような言葉は、しかし相づち以上の意味を持たなかった。
「経験、が、足りない、って」
息が切れてしまうのではないかというような細い声が、ぶつ切れで続く。は、と笑った山田の表情は、嘲笑ではなく苦笑を示していた。
「それは俺の言葉が大きすぎたところだな。お前は、お前の使い方を把握したはずだ。経験なら既に積んだが、そもそも技術が足りないというより必要だったのは理解で、それはもう十分だろう」
子供を宥めるように、山田がゆっくりと言った。山田から目を逸らすことができないまま、横須賀はうう、と呻いた。
「ほ、補佐、を」
「横須賀さん」
驚くほど、優しい声。自分にはいっさい向けられなかったその音を、横須賀は知っている。
あまりに遠い、遠い音。横須賀には向けられることなど無いだろうと思ってきた声が、今、横須賀に向いている。
「貴方はいい人だろう」
絶望のような渇望から求めていたものが今更優しく存在し、そして拒絶を示す。嘆息が形になることすら拒絶する、優しい声だ。
いい子になりたかった。けれど、今更そんな言葉を貰ってどうすればいいのだろう。そもそも横須賀は山田にとってのいい子になりたかったわけではない。それは別だ。
なら横須賀は、山田の何になりたかった?
「貴方は貴方が思うよりも賢く、優しい人だ」
ただひたすら優しい音で、山田が言う。横須賀は賢くない。別に、優しくもない。なのに役立たずの喉は、否定を形にしない。
だって、なんでという問いは横須賀が不要だという答えで切り捨てられた。山田の判断を横須賀が覆せるわけもない。
けれど、なんで、どうして。いらないから、役に立たないから。疑問と否定が巡り、他人事のような優しさが目の前にある。
「聞いてくれ」
まぶたが痙攣する。熱い。耳の奥とこめかみが痛い。頭の皮膚の内側が引っ張られるような感覚。
不調を訴えたらなにかが変わるだろうか。サングラスに写った男の顔は能面のようで、遠い。横須賀はぎゅ、と唇の端を引くと、なんとかもう一度開いた。
「つぎ、の、しごと」
「ああ」
震える横須賀の言葉に、山田が声を挟む。う、と顔を歪めて、横須賀は縋るように山田を見つめ続けている。
「いるだけで、ちがうって、なぐる、とか、がんばります、から、つぎ、おれ」
「――大丈夫だ」
それ以上の言葉は、山田の言葉で消えた。だいじょうぶ。なにがですか。そういう問いは、続く場所を持たない。
静かに山田は、一度俯いた。それから右手で左手の甲を撫で、顔を持ち上げる。
俯いた分乱れた姿勢を正すようにまっすぐと伸びた背筋は、横須賀と反対だ。
「俺だけで出来る」
横須賀を見、横須賀に向かった言葉は、それでいて山田の決意にも似ていた。それ以上になり得ない。平行線の会話を終わらせる、静かな宣言。
「……わかり、ました」
「よかった」
ふ、と山田が笑む。横須賀はひしゃげた紙を伸ばすと、山田に渡した。山田も当然のようにメモを受け取る。
「今日はもう、帰っていい。アンタの荷物、それでおしまいだろ」
車のドアを開けて、山田が言う。朝、鞄を事務所に置かずそのまま全部持って行くように言ったのは山田だった。
スーツには合わないだろう白い大きな鞄をそのまま持ってくるよう言われた意味を、今更知る。横須賀は鍵を抜きながら、ゆるりと顔を上げた。
「……掃除、を」
「気にしなくていい」
掃除に対する言葉が別の意味にすら聞こえる。ひゅ、と息を飲んだ横須賀は、はい、と小さく返した。
いつもよりものろのろと車を降りる準備をする。山田はいつもと同じだから、その差はよくわかるだろう。
けれども山田は、急げ、とも遅い、とも言わなかった。
(おわり、だ)
おずおずとドアを開け、横須賀は座席から立ち上がった。もうほとんどする事はない。それでも惰性のように後部座席を改めて確認する。物がない車内でできることなど、横須賀が置いた白い鞄を持ち上げる以外ないのだけれど。
死体部屋以外、山田の使う物はほとんどない。事務所で置き放すものを横須賀は片づけるが、それでも元々事務所は綺麗だった。きっと横須賀が居なければ死体部屋に投げて終わるのだろう。そういう事件に関わる以外、ほとんどなにもかも必要としない人。
それが気のせいかどうかを確かめる術は、もう無くなる。
結局確認することも片づけることもほとんどなくて、観念したように横須賀は白い鞄を持ち上げた。紙が、重い。ばたん、とドアを閉める音がやけに腹に響いて、横須賀は眉を下げた。
がちゃん。鍵を締めてしまえば、本当に、もうおしまいだ。
「お疲れ」
車の反対に回り込もうとする途中で、山田とかち合う。丁度左のヘッドライトの前で、横須賀はぐ、と息を呑んだ。
「……おつかれさま、です」
小さな手に、鍵を乗せる。ちゃり、と鳴った金属を、細い指が隠すように閉じこめた。
なんでですか。繰り返したところで意味の無い問いが、内側で震えている。
「電話、返してくれ」
山田の言葉に、横須賀は左手で握りしめていた鞄の紐をねじった。ぎち、と指に食い込む圧は、長くそのままにできない。
山田の右手に握られた鍵は、そのままポケットに差し込まれた。次を待つ所作に、横須賀はねじれた紐をおずおずと直す。そうしてそのままゆるりと腕を一度下ろすと、横須賀は鞄に手を伸ばした。
鞄の蓋を開ける。チャックを開けて小さなポケットに差し込まれたスマートフォンを引き出す。
チャックを閉める手が遅い。のろのろとする横須賀を、じっと山田は待っている。
「電話、です」
返すという言葉が喉に引っかかり、結局出たのは単語だった。おう、と山田が受け取る。
「必要な書類は郵送する。なんかあったらリンに連絡してくれ、職場に俺はいない可能性が高い。リンの番号はお前の携帯にもあるか?」
「あり、ます」
「なら大丈夫だな」
頷く山田に、横須賀は頷き返さなかった。リンの番号はある。事務所の番号だってある。けれど、大丈夫じゃない。
貴方の番号はありません。そんな言葉がせり上がり、しかし喉を通る前に砕け、刺さる。
霧散することも放り出すことも出来ない言葉は、ぐずぐずと横須賀の喉を狭めた。
「お疲れさん」
動かない横須賀を促すように、山田が声をかける。びくりと肩を揺らした横須賀を見上げて、山田は言葉を続けた。
「急で悪いが、お前が聞いてくれる人間で助かった。なにか問題あれば、まずリンに。事務所には来るな」
最後の言葉は、念を押すような声だった。はく、と唇を震わせた横須賀は、山田をじっと見る。
「……お疲れさま、です」
さきほどと全く同じ言葉に、山田は眉をひそめて苦笑した。
さようならの挨拶には足りない言葉を指摘されなかったことを喜べばいいのか嘆けばいいのか横須賀にはわからない。そしてわからないまま、それ以上にはなり得なかった。
いつもの道が、ぽっかりとそのままそこにある。