8-14)見送り
「にしても、とんとん拍子で進んだよね」
廊下に出たところで、リンが静かに言葉を落とす。一度横須賀を見上げた視線は、すぐに声をかけた相手である山田に向かった。
山田はいつもの平坦な表情で、リンに頷く。
「幸い、な。どうだった?」
「問題なし。ツテも確認できたし、あとは噂話と動向だけ探れればいい。もう詰めだよ」
リンの伏せた睫が揺れる。二人の後ろを歩く横須賀にとって、その会話は前で跳ねるから遠い。リンの歩幅はゆっくりで、山田も珍しくその歩調を合わせているようだった。
二人を追い抜かないようにしながらも、横須賀は声を拾えるようにその後を追う。
ただ二人の会話は多くなかった。途切れ途切れで、時々リンが横須賀を振り返る程度の変化しかない。
先ほど木野が賑やかだったので随分と静かさが目立つ。周りの音と二人の音がずれて見えて、横須賀はそこに紛れるように呼吸を小さくした。
「お疲れさん」
とん、と投げられた言葉はあっさりとしていて、しかし柔らかかった。労りをそのまま形にしたような声に、横須賀はじっと前を見る。山田の声だが、顔は前を向いたままなので表情を見ることはできない。リンが山田を見、目を伏せた。リンが前を向くのと苦笑がこぼれたのは、恐らく同時。
「仮調べ、だよ」
穏やかと言うには嘆息じみていた。山田の反応はわからない。拾えない声があったのか頷いたのか、それともなにもなかったのか――ただ、リンはその嘆息を流すようにして、息を吐いた。
「詰めといってもまだ詰めきれてはないんだ。どれも終わっちゃいない」
「ああ」
今度は山田の声が横須賀にも聞こえた。リンはじっと山田を見て、また口を開く。
「俺、は。……まだやることがあるからな」
「ああ、頼む」
念を押すようなリンの言葉に、山田は少し苦笑して頷いた。リンはそれに神妙に頷き返すと、ため息をもらす。
「頼まれるよ」
頷いているはずなのに何故か諦めているような声にも聞こえ、横須賀は背を丸めた。鞄の紐をじくりと握る。握り、捻ったところでなにかが変わるわけではない。リンが前を向いてしまえばまたその顔が動くまで後ろからでは見えず、しかし並び歩くには場所がない。
施設を出ても、広い敷地だからこそ歩道と車道で分かれている。無理矢理並ぶには幅も理由も足りなかった。リンと山田の距離自体、密接というわけではないから余計かも知れない。
二人幅をとって歩いているのは、横須賀の場所がないことを主張するようでもあった。それが自分勝手な妄だと思いながらも、横須賀は背中をじっと見る。
それで話が終いになったのか、リンと山田はそれ以上語らない。
「なにを、するんですか」
細い声で横須賀が呟いた。まるで請うような縋るような音に、リンが少し振り返る。山田は振り返らない。
「俺の仕事」
先ほど木野に山田が語ったことを手の内側で握りしめるようにして、横須賀は言葉を続けた。リンが眉を下げ、こぼれ落ちたサイドの髪を掻きあげるようにして耳後ろを二度ほど擦る。
横須賀の歩幅が大きくなったところで、山田が振り向いた。
「外」
突然の声に横須賀は足を止める。山田は正門をいつものように顎で指し示した。
「外出たら、だ」
「……はい」
山田の言葉に、横須賀は少しだけ安堵の息を漏らした。仕事がある。使えると山田が言ってくれていたのだ。横須賀には随分有り難すぎる言葉が、背を押す。
「俺はまだあるから、また後でな太郎」
「ああ」
リンが足を止め、手を上げる。平坦な山田の返事に頷くと、リンは自身を追い抜く横須賀を見上げた。
「じゃあな、横」
「あ、はい。失礼します」
リンが細い目で笑む。じっと見つめたままのリンに頭を下げ、横須賀は山田を追いかけた。歩幅はリンがいないからか、いつもと変わらない。
しばらく進んでも言葉はないが、山田は車の中で話をすることが少なくない。そういえばリンの会社に車を止めず外の駐車場を選んだのは何故だったのだろうか、と広い駐車場を横目に少し考える。沈黙を誤魔化すような思考は、山田が慎重だからだろうという身も蓋もない考えであっさりと終わった。
ただ、不思議なことに車に乗っても山田はなにも言わなかった。聞くタイミングを見つけられずちらちらと山田を見る横須賀に、腕を組んだまま山田は前を向いている。
山田が横須賀を見ないことは、これまでを考えてもよくあることなのでその点を指摘しても無意味だろう。それでも不可思議で、横須賀ははくり、と息を吐き、飲んだ。
「外、出ましたけど」
「おう」
横須賀の言葉に、山田は横柄に答えた。落ち着かない心地でハンドルを撫でる。
「お前は役に立った」
見慣れた道に戻ったところで、静かに山田が呟いた。柔らかい声、と言えるだろう。眉を下げて横須賀は笑おうとして、しかし歪に終わった。
最後の信号が青だ。もう、あとは事務所まで止まらない。
コツ、と、山田の革靴が鳴った。車を仕舞うのも随分慣れた、と横須賀は思う。そう、馴染んだことのはずだ。山田がシートベルトを外す。走行距離をメモするために、横須賀はペンを取り出す。いつもの流れで――
「いい」
「え」
短い言葉に、横須賀はメモから顔を上げた。助手席と運転席。さほどない距離で見上げる山田のサングラスに、困惑する自身の顔が写る。
「消せ」
「えっと、わかり、ました」
メモに書き掛けた文字をペンで消す。無かったことにする行為はあまり得意ではないが、指示は指示だ。
「ありがとう」
ぽつ、と言葉が投げられる。落ちたものではない、確かに横須賀に向かった声に横須賀は目を見開き、それからゆっくりと瞬いた。
ありがとう。並んだ五文字に、はく、と口を開き閉じる。
「お前の仕事は終いだ。お疲れさん」
「え」
ひゅ、と横須賀の喉が鳴った。サングラスは真っ暗で、相変わらず透けないまま横須賀だけを映している。山田の眉間に皺は無く、笑みも穏やかだった。
ペンがメモを汚す。
「今日でもう、来なくていい。ありがとな」
再び重ねられた山田の礼はこれまでで聞いたことがないくらいあまり優しく、そしてあまりに遠かった。
「な、に、言ってるんです、か」
かろうじて喉を震わせた言葉は、ひどく情けない音で成り立っていた。口角が歪む。
引き結ぶことも大声を出すことも成り立たない唇は、動揺をそのまま形にしたようでもあった。ひく、と戦慄くものをなんとか飲み込んで、横須賀は山田を見つめる。
山田は背筋を伸ばしたまま、横須賀の視線を受け止めていた。
「言葉のままだ。お前の仕事は、今日で終わりだ。十分役に立った、有り難う」
ひ、と喉が鳴る。呼吸にすらなれない痙攣は、山田に伝わるのだろうか。横須賀は山田ではないのでわからない。ただ山田は横須賀の様子に対して表情を変えず、ゆっくりと頭を下げた。
座ったままとはいえ、丁寧な一礼。自身に向けられることの無かった行為に、横須賀は眉を寄せた。下がり眉のまま歪んだ眉間は強い怯えを示している。なのに顔を上げた山田は、その顔を見ても相変わらず穏やかな表情のままだった。
「会社都合だ。といっても書類上はまだしばらく在籍でいいし、有休扱いにしておく。もし希望するなら、今日行った場所で働けるよう面接の手配もできる」
「え」
「リンのとこの職場ってのもあるが、元々デカい会社だ。条件は悪くないと思う。手続きはいるがお前の仕事ぶりはリンが知っているし、今日簡単に話をしたがお前をみた連中の評判もそんな悪くない」
つらつらと山田が言葉を並べる。なにを言っているのだろう。さきほど喉を震わせた言葉が、横須賀のあばらの奥でぐるりと回る。木野の態度が、表情が一緒に廻った。