8-10)書庫
* * *
「どうぞ、ご自由に」
「あ、有難うございます」
木野の案内で訪れた細長い小さな部屋は、施設の大きさに対し随分とこじんまりと感じるかもしれない。整然としたスチール棚。そのガラス扉の奥にある大きなファイルは年代が書き込まれているものやアルファベットと数字が添えられたものがある。
「私はただの付き添い程度で、ついでにちょっと整理しているだけなので気にしないでください。見られちゃまずいものは鍵がかかっているので、棚は好きに開けて。他になにかあれば気軽に聞いてください。ここは私が管理していい隙間産業って感じなのでね」
相変わらず、木野の言葉はするすると流れていく。けれども山田と対した時より声はすっと引き、その区切りに目をやれば優しく笑まれる。気遣われているのだろう、と思いながら、その気遣いに返すものを持たず横須賀はとりあえず会釈した。
なにを見に来たのだろう。探すものがあるわけではない。探す意味も理由もない。けれども横須賀はこの場所を望んだ。だからこそ、横須賀はじっと視線を走らせる。
部屋の奥、鍵のかかっていない棚の一番上にあるのはA3のファイル。背表紙にかかれている文字は年代だ。手にしたものには二〇〇〇年一月のラベルが貼られている。
(新聞、だ)
ずしりと重い。中に入っている物は愛知新聞。ローカル新聞以外もあるだろうか、とパラパラと中を眺めたが、とりあえず手にしたファイル内ではどれも同じだった。
新聞の場合、中を確認するのは難しい。基本的にどれも一日ごとでまとめられているので、中を確認するには記事を開かねばならないからだ。広げるスペースはこの部屋にはなかったし、ひとつひとつ見ていったところで横須賀はこの中から見つけたいものがあるわけでもない。いくつかあらためてめくり直したが、一面は基本トップニュースだ。広げるつもりがない横須賀にとっては無意味だし、結局閉じて元の場所に仕舞った。
新聞を見たところで、今は意味がない。かといって横須賀がこの部屋に意味を持って入ったかと言ったら、それもそれで少し違う。ラベルを一つずつ確認するように、一冊、一冊と横須賀は本を開いては戻した。
Aのラベルは県内の地理に関係する物。一番最初と真ん中、一番最後と確認したところ、最初と真ん中は県内だが最後は県外もあるようだった。といっても周辺県のようで、後ろから見ていくと静岡、長野、岐阜、三重の四件。最後の本は丁度横須賀の地元である氏山市で、見慣れた地図が確認できた。
Bのラベルは民話のようである。やはりローカルの範囲で、最初に見たのは薄い和本。タイトルは『
紐を見ると紙の損傷に比べて新しい。恐らく修復してあるのだろう。B―001ということは保存自体は最初の頃。紐の状態から考えると、保存された後も利用されただろうことはわかる。
一度鞄を下ろすと、そろりと手にした民話集を開く。目次を眺めたところで知りたい物があるわけではないのだが、民話のタイトルは内容に直結して居るもの、地名がそのまま入っている物などが様々なので眺めるには丁度いい場所でもあった。
星の降る丘、地蔵と小僧、芙由之芽街道、おおいそおい、黒坊主、徒然車輪、金の糸黒の皿……横須賀には馴染みのない伝承が並んでいるのを目で追っていく。
読むには時間が足りないだろう。山田が狐ヶ崎の職員と話している間だけしかこの場所には居られない。別に隠れて行っているわけではなく、山田は好きにしろと今日言っていたのだが――しかし山田になにをしていたと聞かれたら、横須賀には答えるべき言葉が見つからないのだ。
なにをしているのだろう。自問自答すらうまくできない。ただ、ここは山田が信頼する場所で、リンの働く場所だ。なにか、と思う。しかしそのなにか、がなにを求めているのか、横須賀は自覚しないまま紙をめくる。
本を見るとき、単語でなにかが決まっていないときは挿し絵を見る。写真は一目で情報を多く伝えるし、場合によっては編者の意図が出やすい。作り手の意図を読みとる、なんてことは横須賀にとってあまり得意でないことだが、それでも見やすさを重視したレイアウトの場合目に入る情報の順序がある程度精査される。また、地図の場合はそこまで多くないで、簡単に目を通すのに優れているのもあった。
ふと、横須賀は手を止めた。地図を見てすぐにどことわかるわけではない。過去と違っているケースも多いし、本の古さからも絶対的な目印はない。
けれどもひとつ、気になる物があった。
先日あった三浦の件は、まだ記憶に新しい。
地図を広げ、広げた側から折り畳む。細かな地名は、ネットよりも紙媒体が便利だ。目的の場所だけを表にして、横須賀は本の上に重ね置いた。
(同じ)
自身の地図に書かれた星陵の森という文字に赤ペンで丸を付ける。地図を本に挟んだまま、今度は鞄を探った。逡巡のち手にしたのは仕事用ではなく自身の携帯端末で、そのまま撮影する。
「面白い物ありました?」
タイミングを見計らったかのような声掛けに、横須賀はびくりと体を揺らした。うっかり落としかけた本と携帯端末をまとめ持ち、声の元を振り返る。
「すみません、驚かせてしまって。ここは私の管轄なので、好きに見てもいいですけどなにかあれば手伝いますよ。私の方は作業としてそんな急ぎじゃないですし」
人の調べもの手伝うのも楽しいんですよねぇと笑う木野に、横須賀は肩をすくめたまま半端な形で頭を小さく揺らした。同意のような謝罪のようなそれを揶揄することなく、木野が横須賀の手元を覗き込む。
「ああ、星陵の森。色薬の始まりですしねぇ」
「はじまり?」
木野の言葉に、横須賀はつい復唱した。はじまり。横須賀にとってそのはじまりはあの日、赤月がもたらしたものだ。けれども思い返せば、山田と木野の会話は、そう、おそらく山田は、その始まりを知っている。
赤月の時から知っていたかどうかはわからない。ただ、今は、知っているからこそ、あの流れるような言葉の渦で、山田は。
「星陵の森は「星の降る丘」の舞台ですからね。星と出会っておかしくなってしまった隣人と、星から知識を得た男の話。死んだ家族を男の元に戻す方法を教わったのに、隣人を元に戻すことを選んだ善人。隣人を元に戻せば死んだ家族は元に戻らない。おかしくなってしまった隣人を治したのはおそらく緑の薬。子途らしきもののないこの話は特徴的で興味深いものですよね。いったい全体誰がこの薬を渡したのか、何がそこにあったのか」
元に戻す。木野の言葉を心内で復唱したのに、別の単語が勝手に重なった。そんな自身の内側に横須賀は顔をしかめ、しかし思考を追う。返さなきゃ。繰り返された、男の言葉。
なおしてかえさなきゃ、みつけたんだよ。あの日聞いた言葉は、そんな言葉じゃなかっただろうか。
もしかすると間違いかもしれない、勝手な思い違いかもしれない。けれどもなぜか、見知らぬ物語と、あの日見た男の声が重なる。秋を抱えた、山田の姿が。
「星の降る丘、って」
「その本に載ってますよ。とはいえ多分図書館でも借りられるんじゃないかな、見たことなかったんですね」
木野の言葉に含まれたのは、知っているものと思った、という意。当然だろう、山田と木野はおそらくこの話を全体に入れて会話していた。横須賀だけ知らない、のは、今日一緒に訪れたのに奇妙と言える。だからつい黙り込んだ横須賀に、木野は深く追求を重ねなかった。
「……そっちは貸せますし、借りられなくても図書館で見つかると思うので、探し物が特にないならこっちはどうですか。ここでしか読めないオススメですよ」
「え」
「最近みつけた雑誌の小説なんです。おそらく、色薬を題材にしたもの」
小説と言われても見るつもりはなかった。けれども続いた言葉に、横須賀は否定を飲み込んだ。確かこっち、といいながら、木野がカギを差し込む。
「鍵付きですが、ここの棚は私の個人的資料なんでお気にせず。内容は太宰室長にも伝えてコピーもとってって整理してあるんですけどね、ちょっと色々面白くて、まだ扱い方にも悩んでいてってかんじで表に出していないだけなんです。貸し出しは無理なんですけど、読み物としては暇つぶしに良いですよ」
暇つぶし、と言われれば暇つぶしだろう。横須賀は具体的な探し物を持ちえない。けれども先ほどまでそういった扱いをしてこなかった木野の言葉に、横須賀はついその眼鏡の奥の瞳をじっと見る。
「山田さんの方には渡っている情報でしょうから、横須賀さんが見ても今更、ほんとただの暇つぶしにしかならないでしょうが、小説は何度読んでもいいですからね」
言いながら、木野は雑誌をまとめて取り出した。薄い雑誌だが、ぱっとみても十以上はある。床にまとめ置いたその雑誌の一冊を手に取って、木野は後ろからページをめくると横須賀に差し出した。