台詞の空行

8-9)昼食

 山田の端的な否定に対し、ですよねぇと間延びした声で木野は笑った。笑顔のまま書類を山田に木野が渡せば、山田は無言でその紙を横須賀に流した。ほとんど綺麗なままの紙を横須賀は手に持って、一応、というように眺める。

 渡された瞬間の印象とさほど変わらず、紙にはほとど違いが無かった。ひとつだけ目に入ったのは、狐ヶ崎心理情報研究所の箇所に残った二ミリほどの爪痕である。といってもおそらく横須賀に流す前に山田がつけたか木野が押しつけた跡だろう。他になにか書き込みが有るわけでも無いので、横須賀はそのままクリアファイルにしまった。

 うん、ともう一度木野の声が落ちる。

「狐ヶ崎の江崎さんは写真を見てわかるようにどちらかというとおっとりした人です。話を聞くには丁度いい相手じゃないかな、いい人ですよ。今日は午後に狐ヶ崎の人がデータ渡しに来るので、話を聞きたかったらそのタイミングに合わせたらどうでしょうか。簡単に進捗会議もするらしいので、午後時間がとれないか聞いてみましょうか?」

 木野の言葉に、山田の眉が少しだけ震えた。小さな上下で目を一度瞑り開いたのだとわかる。口元は特に表情を変えず、ゆっくりと肩が上下した。

 伸びた背筋が、ぐ、と更にピンと貼る。

「お願いします」

「ハイハイお任せをー」

 末尾が上がるような語調と共に木野が立ち上がる。自身の机に向かった木野は、ごそごそと机の上を移動させながらええとと声を漏らした。

「ああこれこれ」

 恐らく名刺の入ったファイルなのだろう。黒い無地のB6ファイルを取り出して、木野は声を上げた。

 ページをめくる手は机の上と違い迷いがない。目的の名刺を見つけだすと、木野は受話器を持ち上げた。

「江崎と会うときは俺一人で話す」

 静かに落とされた宣言に、横須賀は山田を見た。山田は木野が机の上に置き放していた本に手を伸ばしたところで、横須賀の方を向いていない。

 ゆっくり瞬いた横須賀は、なんで、という言葉を飲み込んだ。なんで、ではきっと欲しい答えを得られない。

「翻訳の人、について、聞くだけだから、ですか」

「……ああ」

 少しの間が意味するものを横須賀は知らない。これまでと違い聞くときに一人では危険だというような状態ではないとわかっているので、横須賀は自身の左手を宥めるように撫でた。

「俺が出来ることは、ありますか」

「ない。好きにしていろ」

「はい」

 好きに、と言われてもしたいことはうまく浮かばない。それでも横須賀は頷いた。事務所に行くよう言われるとどうしても気になってしまうが、同じ場所なら何かあったときに動けるはずだ。

 祈りのような願いのような思考だが、横須賀に出来ることは多くない。そして多くなくても、だからこそ微かなものを追いかけるように、その場に留まれる方法を選んだ。

「急だったけど時間はとってもらえました。元々進捗会議を少し短めにしようかって話が出ていたみたいで、それにプラス三十分くらいはオーケーだって」

「有り難うございます」

 山田が会釈するのを見て、横須賀も慌てて頭を下げた。焦った為、有り難うございますという言葉がそのまま床にぶつかって転がる。

「いえ、これくらいしか出来ないんで。しばらくここで待ってますか? お昼は社員食堂使えますけど」

「私はいりません。このデカいのだけご一緒させてくれませんか?」

「え」

 山田の言葉に横須賀が小さく声を漏らした。木野も不思議そうに山田を見返すが、山田は椅子に深く座り直して本を開く。

 それでもひとまず終わりという態度に、木野は頬を掻いた。

「栄養は脳味噌のためにも大事、ですよ? 一食を笑うものは一食に泣くっていいますし」

「一人分なら携帯保存食があります。人混みで食べるのは趣味じゃないので」

「はぁ、そうですか」

 頬を掻いた手を下ろし、木野が横須賀を見た。横須賀は戸惑うように山田を見ているが、見たところで結果が変わるわけでもない。

「どうします横須賀さん。食堂でもいいですしそれともパンかなんかでも買ってこちらで」

「食堂で食わせてやってください」

 木野の言葉を山田が遮った。む、と眉を寄せ、木野が山田に向き直る。

「食べ物くらい希望聞いてもいいかと」

「見ての通り図体がデカい割に顔色のよくない男なんでね、多少は気にしてんですよ。上司に気を遣って少ない飯じゃ倒れかねないだろ」

 山田が肩を竦めて笑う。揶揄するようでもあったが横須賀の顔を改めてみた木野は、大きいため息と共に肩を落とした。

「あー、えー、まー言いたいことはありますがーそれはまあ私が言うことじゃないでしょう仕方ないですね。承知しました。横須賀さん、私と一緒でいいですか」

 木野の言葉に横須賀は口を開け、しかし閉じた。山田をじっと見つめても、山田の視線は本から上がらない。

「……おねがい、します」

 小さな呟きに、木野は苦笑した。


「不満はねー、口にする癖作った方がいいですよぉ」

 間延びした声で木野が言う。横須賀は手にとった箸をそのままの場所で止めて、首を傾げた。

「持論ですけど、言葉にすることでようやく気づくことがありますし。言語ってそのためにあるんですよ。思考するため。相手にも自分にも伝えるために、ね」

 木野はそういうと、うどんをすする。つる、と白い麺が小さく跳ねるのを見て、横須賀は揃えたままの箸の先を見た。

 不満。言われてもなにを不満とすればいいのか、咄嗟に浮かばない。けれども満足しているわけではないということは、さすがの横須賀でも感じていることだった。

 山田はあまり飲食を好まない。事務所で食べるときも携帯食料で、そうでないときは横須賀と時間をずらしていた。

 客がいつ来るかわからないという点では道理だろう。ただ出かけるときに食べるのは基本的に携帯食はじめ簡単にたべられるもので、ごく稀にみる食べる姿はもそもそと小さく飲み込むようなものだったから、客だけでなく食事が苦手なのかもしれない、とも思う。

 食事というものは、それほど楽しいものではない。横須賀にとって味は甘いか辛いかしょっぱいか、温かいか冷たいかくらいだ。だから山田がただ栄養をとるために食事をする、ということに違和感を持つことはない、はずだ。

 それでも何故だが、ひっかかるものがある。リンが作ることを楽しむ人だからだろうか、と思うが、それは少し違う。

 では、なにか。

「伸びますよ」

「あ、すみません」

「いーえ」

 木野の言葉に横須賀は慌てて箸を汁に潜らせた。白いうどんを摘む。むに、とした弾力が滑る。

 山田は合理的だ。栄養についてだって、必要と考えている、と思う。携帯食は利便性で、朝と夜はまともに食べているとは言っているし心配することでもないのかもしれない。倒れるような真似を山田はしないだろう。

 それでも、それだからこそ。

 ぷつん、とうどんが切れた。力を入れすぎたのだろう。誤魔化すように横須賀はもう一度うどんを箸で摘みすすった。

「狐ヶ崎の時、一緒に行きたいならそう言ってみたらどうです?」

 穏やかな声に、横須賀は顔を上げる。木野の眼鏡が曇っていて、その瞳の色はわからない。

 曇っているから、きっと木野にも横須賀の顔は見えない。

「……山田さんが決めたこと、です、し」

 危険もないだろうに、横須賀が行く必要はないだろう。見てどうこうするわけではないと言う。若草の時のような状況だったら違うが、ここは普通の会社の中だ。そうそうなにかあるわけがない、と思う。

 病院で起こったことを思わないわけでもないが――山田の言葉から考えると、山田になにかあるのは先に思えた。

(先)

 横須賀の箸が止まる。先、先、先。ということはなにかがあることは決定事項に近い。山田はなにを見ているのか。誰を。

 病院の男の名前は。男が言った名前は。

「決めたことが変わる変わらないは置いといて、言うだけはタダですよ」

 優しく諭すように、木野が言葉を落とす。そうしてから汁をレンゲで運ぶ様子を見て、横須賀はふにゃりとしたうどんを啜った。

 咀嚼して飲み込む。味は、よくわからない。

「大丈夫、です」

「なにが?」

 木野がするりと言葉を潜らせた。なにが。それは横須賀がよく疑問に思うことだ。大丈夫。その言葉が向かう先を知らないまま、横須賀は繰り返すことがある。

 眉を下げて目を伏せた横須賀に、木野はごめんなさい、と小さく呟いた。

「気にしないで、横須賀さんがいいならいいんです。ただまあ、わかんないことは言っちゃうのがいいし、一言で取り返し付かなくなることもそうないだろうから言うだけタダかなーって思っちゃっただけですほんと申し訳ない。私はデリカシーがないからなぁ」

 たはは、と木野が笑う。優しさなのだろうと思いながら返す言葉を持たず、横須賀は息を汁と一緒に飲み込んだ。

「俺、出来ること、あんまりないんです」

 代わりにこぼれた言葉は、どうしようもないものだ。ぐるり、と汁の中を一度かき回せる。箸でつまみ上げる所作は義務的で、木野は目を細めた。

「でも、あるんでしょう」

「見ること、は。でも今回は、必要なくて。俺、調べるくらいしか出来ない、から」

「うん」

 木野が頷く。横須賀は飲み込んだ息を吐き出すようにして肩を落とすと、もう一度息を吸いなおした。

「ひとつ、お願いしてもいいでしょうか」