台詞の空行

8-6)木野

「好きなとこ座ってください。特に制限とか決まりないんで」

 部屋にたどり着いたところで、木野が快活に言った。明るいと言うよりは大仰な声は、誰もいなかった部屋によく響く。

「緑茶にします? それともコーヒー? はたまた紅茶? ジュースもありますよ」

「いえ、必要ないです。お構いなく」

 左手を机に擦るようにして移動する木野に、山田が静かに答えた。そうですか、と返した木野は横須賀を見上げる。

「横須賀さんはなに飲みます? インスタントなので誰が入れても同じ味の親切設計ですよ」

「あ、え、俺、も、いりません」

「そーですか。んじゃー私もやめておきますね。喉乾いたらいれにいきますけど。お二人も乾いたら言ってください」

 木野が百八十度回り、今度は机に右手を乗せる。そのまま机一つ分歩くと、やけに本と紙がちらばっている場所を撫でた。

(?)

 くん、と鞄の重みが増す。見れば山田に紐を引かれているようで、横須賀は首を傾げた。山田は無言のまま顎で木野を示す。

 見ろ、ということだろうか。瞬く横須賀に、山田が口をゆっくりとうごかした。

 う、い、い、い、お。唇の動きだけではなにを、と思うが、直前に聞いていた言葉が浮かぶ。

 すきにしろ。見ろという命令ではないが、動かないことを肯定するのとも違うだろう。わざわざ繰り返したくらいだから、行動しろ、という意味合いにも思える。言葉に従うように、横須賀はおずおずと木野の側に向かった。

 後ろで山田が椅子に座る音が響く。好きにしろといわれても正直横須賀にはどうすればいいかわからないが、それでも知らないより知っていたい、と思った。

 山田は横須賀を目と言う。山田の見ているものを横須賀は想像できないが、だからこそ横須賀は目であるためにも木野に近づいた。

「あー、ちょっと待ってくださいね。昨日見たんだし上の方だと思うんだけどなァ」

 無造作に跳ねた髪を揺らして、木野がぶつぶつと呟く。松丘ほどはっきりとしていないが薄いそばかす、細い体。服装は川﨑たちと違い白衣は着ておらず、ワイシャツに無地の紺色のネクタイ、上には薄手のカーディガン。靴の踵には潰れ跡がついている。とはいえ今は踵を潰していないので、気を使っているかもしくは癖というほどでも無いのかもしれない。

 しかし踵はともかく机の上の乱雑さは彼女の習慣なのだろう。慣れた様子で書類をまとめ、躊躇いなく隣の机に置く。書類の中身はきちんと確認できなかったが、正式な書類と言うよりはメモ書きにも見えた。走り書きの文字がある、というだけでなく、印刷した紙を切って張り付けているようなものが多い。横須賀の付箋ノートのようなそれは、大きな辞書で押さえられてわからなくなる。

「こっちじゃない……んー?」

「なにを、探しているんですか」

 がしがしと頭を掻く木野に、おずおずと横須賀は尋ねた。あー、と一度うめいて、木野が横須賀を見上げる。

「本です。黒い装丁なんですけどー黒がないですねー」

 昨日みたんだけどなァともう一度声を上げ、木野が平置きの本を寄せる。本は多すぎてどれがどうと確認できないが、遺伝子学、進化学、民俗、民話、童謡、神話、地学といったものが見た範囲でわかるものだった。

 表紙の中に単語が混ざっているからわかっただけなので見慣れない言葉などは他のジャンルかもしれないが、目に付いたものをとりあえず走り書く。

「あーあったあった!」

 がたがたと机の鳴る音が響いたかと思うと、木野が大声を上げた。見ると二番目の引き出しが開いており、木野の手には黒いハードカバーの本があった。机の中はなにやら印刷された紙とペン、朱肉のようなものがあるものの、本があった為か机の上の密集ぷりと比べれば整然としていた。

「ごめんねぇお待たせしました。……なにか気になるものでもおアリで?」

 にや、と木野が口角を持ち上げ横須賀をのぞき見る。ひゅ、と横須賀は喉を鳴らした。

「いえ、その、すみません!」

 声を上げて三歩ほど横須賀が引くと、木野は口元を押さえて顔を背けた。しばらく肩がふるえる様を見て、おろおろと横須賀は視線をさまよわせる。

 ややあって、木野はようやく横須賀に向き直った。

「こちちこそ驚かせて申し訳ないです。気になるものがあったら言ってくださいね。好奇心で殺されることはないというか、むしろ好奇心で生きる場所ですから」

 木野の言葉にうまく返せず、横須賀はこくりと頷いた。うん、と笑った木野の瞳は楽しそうに弓なりになっている。

「この辺の本はほとんど私物ですから、気になったら言ってください。太宰室長の知り合いなら室長経由で返してもらえるでしょうし、なにより自分の読んだ本を共有できるのは贅沢な幸せですしねェ」

 上機嫌な様子で、木野は横の机に乗せていた書類や本を再び自身の机に戻した。すべて戻し終わると、ローラーの付いた椅子の背を掴み足で押し払うようにして回す。そうしてからがらがらと音を立てて山田の座った場所に移動して、木野は横須賀を見上げた。

「横須賀さんはそっちに座ってください、私ここに座るんで」

「あ、はい。失礼します」

 頭を下げて座ると、机の上に黒い本と重そうなペン立てが置かれた。黒い本には銀箔で文字が記されており、内容は『異界の扉~信仰と科学・虚構と実体~』。比較的最近の本なのか、小口を見ても日焼けなどは見られない。

「そんな簡単に貸すなんて言っていいんですか? 案内を受けているとはいえ部外者ですが」

 木野が座ったところで、山田が平坦に尋ねた。疑問と言うにはそっけなく、しかし無関心でもない言葉は世間話によく似ている。木野は口元に人差し指の背を当て俯いた。だがそれは数秒に満たないもので、すぐに山田を見返すと笑って頷いた。

「共有できたらラッキーだと思いますし、そもそもなにかあったら太宰室長なら本くらい買ってくれそうですしね。寧ろ新しくなって万々歳、悪い人だったことも室長にわかって更に万々万歳ってやつですよ」

「本一冊なら安いくらい、ってことか」

「本は天下の回りものですから」

 木野は楽しそうに首肯すると、本を机の上においた。「さて」と一区切りを示すように声を落とし、木野が山田と横須賀を見上げる。

「とりあえず事前にお伝えするのは三点。私は研究者ではないこと、案内人でしかないこと、すべて推論以上にはなりえないこと。これだけご理解お願いします」

「わかりました」

「有り難うございます」

 山田の返答を受け、木野は小さく頭を下げた。それから手を机の上に出すと、本を少しだけ自身の元に引き寄せ直す。

「話は単純明快。それでいて抜粋するのは至極難しい。どうにも私は説明過多がありすぎるのもあるんですよねー。とりあえずお伝えすべきはいくつかでしかないので、順を追って。黄色の薬についてはすでにご存じと思いますが」

「判明したことがある、と伺っています」

 木野の両手が組まれる。といっても堅く握りしめているのではなく、ぱたぱたと指先は鍵盤を弾くようにバラバラに揺れていた。

「判明。判明、判明ね。言葉としてはあんまり適切じゃない気がするけれど、わかったことはあります。黄色の薬。まずあれが皮膚に関係するものってことは間違いない。効果をお二人は見ていますし、ただまあ実験できないので他がどうなのかとありましたが――幸いあちらの伝承について調べた内容がその本に載っています。その本にいくつか症例があって、皮膚についてはほぼ確証でいいんじゃないかと思っています。といっても本題はそんなことじゃありません」

 とん、と木野が机を打ち鳴らした。そうしてから本のノドをぎゅっと押し開くようにすると、片方のページは一緒に持ってきたペン立てで押さえた。

「洞親子にでてくるものは子途ことと言われています。この字ですね。こと、とも、こず、とも。事が起きるのこと、人が来ない方のず。音で伝わっているのでどちらの意味でも使われたりすることがあるし誤用もあるんですが、一応正規はこの子途って文字で、読みはどっちかちょっとわからない感じです。私は子途ことが好みで使っていますが」

「それらについては知っています。なのでそちらは飛ばしていただき」

「知っているなら話が早い!」

 山田の言葉をかき消すように、楽しそうに木野は言葉を跳ねさせた。そして山田が再び言葉を続けるより早く、木野の言葉は流れるように続く。