台詞の空行

8-5)皮膚と薬

「四枚目は自傷行為をしていた鼠です。緑の液体を与えて三日目の写真。このときは検査のために移動していたので、飼育場所は違います。ストレス条件は変わりませんが、自傷行為は見られなくなりました。どちらかというと刺激に鈍くなったようで、他のマウスと接触しても気にせず、相手の攻撃性に気づかないといった様子もみられました。猫の鳴き声などに反応しなくなったようですね。五枚目は七日目の写真。七日目は落ち着きが無くそわそわとした様子でした。自傷行為はありませんでしたが、どちらかというと中毒症状に近いといいますか……その後再度接種して落ち着いた状態の写真となっています。だんだんと反応が鈍くなり、中毒症状も薄れていきました。現在は特に無反応となっています」

 ファイルからもう五枚の写真が出される。一枚は怪我もなにもなくまるまると太った鼠だったが、残りの四枚は怪我をしたもの、眠っているもの、ケージから出ようとするもの、咳込んでいるようなものとなっていた。

 山田は丸い鼠の写真を手にとると、指先でその額部分から顔にかけてを撫でて川﨑を見上げた。

「これがその個体ですか」

「はい。成功例がその一枚、四枚は失敗ですね。摂取後金切り声を上げ自傷行為をエスカレートさせ衰弱していったもの、身を固め無反応になりそのまま死んだもの、ケージに体をぶつける形の自傷行為を繰り返した物、突然嘔吐を繰り返したものなどさまざまです。嘔吐についてはこちらの書類にありますね。内容には特に物珍しい物はありませんでした。黒いものについてもこちらでは発見に至っていません」

 横須賀が見て取れたのは円グラフ、拡大鏡写真、化学式。どれも横須賀には馴染みのないもので、何を示しているのかまではわからない。そもそも用紙は横須賀の前からは遠い。山田が自身の右手側に置いてしまったので、文字を読み取ることすら難しいのもあった。

 しばらく書類に目を通していた山田は、有り難うございますと言うと写真と書類を川﨑側に寄せた。

「写真を拝見できて良かったです。黒は無かった、という点も承知しました。もし発見されたら報告をお願いします」

「ええ。指示どおりそちらは遵守します。黄についてですが、こちらは試験とは違うので正確には私の担当からずれています。最低限調査はしましたが、外部の協力も受けている案件ですね」

 山田から返された書類と写真を仕舞うと、川﨑は新しく書類を出した。山田が書類を受け取ったのを確認して、川﨑が立ち上がる。

「横須賀さん、腕を見せて貰って良いですか?」

「え」

 突然の言葉に、横須賀は間の抜けた声を漏らした。ぱち、と一度の瞬きで川﨑が自身の椅子を机に寄せるのを見る。そうして近づいてくるのを理解して、横須賀は椅子を山田側にじりりと寄せた。

「見て貰え」

 椅子がぶつかる前に、山田が横須賀の腕を横から押し留めた。横須賀はじっと川﨑から視線を逸らさず、そのくせ腰が引けている。

「見るだけです。参考に」

「えっと、その」

「痛いことはしませんよ」

 真っ直ぐと横須賀を貫く目は、蛍光灯の光で煌めいている。好奇の目だが、そこに負の感情は無いだろう。それでも横須賀は落ち着かない心地で、自身の右手で左手首を撫でた。

「腕、あんまり」

「なにかありますか?」

「……ありません」

 瞳と同じく真っ直ぐな物言いに、横須賀は結局川﨑を見返したまま小さく呟いた。良かった、と川﨑が笑い、横須賀の手首に手を伸ばす。

「あ、ボタン、外します、ので」

「有り難うございます」

 川﨑が少しだけ目を細めて頭を下げた。礼につられるようにして横須賀も頭を下げ、右手首のボタンを外す。ざわり、と皮膚が騒いだような心地は気のせいだろう。右手首を強く掴み、横須賀は一度自身を宥めるように息を吐いた。それから袖口を一度だけ折るとそのまま肘上まで押し上げる。

 あのときの黒と叶子、黄色が頭に浮かび、騒ぐ。随分前のようですぐ近くにも感じられるあの光景は、しかし今の腕には存在しない。火傷と黄色、それをそぎ落とした山田の手。そうして残った自身の上につるりとした皮膚。体毛すら無かった腕は今は元通りだ。だからこそ横須賀は川﨑に対して躊躇ったのもあるのだが、そんなのは今更だ。浮かぶ情景を宥めながら、横須賀は川﨑に腕を差し出した。

「触りますね」

 細い指先が横須賀の指に触れる。それから手首に触れ、腕をなぞった。ぎゅ、と横須賀の口角が引き結ばれる。

「……やっぱり見て分かる物でもないですね。有難うございます、助かりました」

 言葉の後川﨑の手が離れると、横須賀はすぐに袖口を下ろした。川﨑が席に戻るよりはやくボタンを付け、メモを膝の上に乗せ直したところでようやく横須賀は肩を下ろす。

「突然すみません」

「いえ、普段はこちらに参りませんし気になる点は確認した方が良いでしょう。分かる物でもないとおっしゃいましたが、どうされました?」

 川﨑の謝罪に山田は単調に答え、次いで尋ねた。川﨑はもう一度横須賀を見上げると、いえ、ともう一度小さく呟いた。

「なにか跡が残っているか違う点があればと思っただけです。飯塚先生が見ていますし分かる物では無いと理解していますが、つい」

 気になってしまうんですよね、と苦笑しながら川﨑が頬を掻く。そうですか、ともう一度山田は呟くと、改めて書類に視線を向け直す。

「黄色について伺っても?」

「ああ、すみません。黄色についてはあまり多くこちらから言えることは無いんですが、昨日皮膚以外にも使えるのでは無いかという説がでまして」

 その件が書かれています、と川﨑が書類を指し示す。しかし山田は指し示した側を一瞥すると、すぐに川﨑を見上げ直した。

「説、ですか」

 確認するように、静かに山田が呟く。川﨑は両手を膝上に置き直した。

「説です。さきほど判明という言葉を使いましたが、緑と違い実験が出来ないものの為書類などに残す際には説で統一しています。ただその説を検証するに当たり出た情報は新しい物ですし、持論を証明する為には証明されている情報が必要とされるのでもしかすると新たな情報になるかも知れません」

 つらつらと川﨑が言う。山田はもう一度書類を撫でると、そのまま机に書類を伏せ置いた。

「こちらの書類だけでという事になるでしょうか? 協力者も含めてお話しする時間は頂戴できますか?」

「これについては当人から説明させます。部署が違うのですが、多分そろそろ――」

 そこで川﨑の言葉が切れた。視線が山田の後ろに向かう。振り返れば、ちょうど扉が開いていた。

 無音。五十センチほどで止まった扉に、男性が近づき、さらに開いた。とん、とまず目に入ったのはくせのある髪だ。短い黒い髪が揺れている。小山よりも縦横無尽な髪は、ぐらりと前のめりになった後なんとかとどまった。

「おっと、すみません。重いですよ」

 男性が手を差し出すと、その人はからりと笑った。自身よりよほど背丈のある男性にダンボールを渡すと、有難うございます、と軽く頭を下げる。そうしてから小柄なその女性は、受け取った男性が横須賀たちを見やるのをみて「ああ」と声を上げて早足に近づいた。

「失礼します、木野きのです。早すぎましたか?」

「いえ、丁度いいところです」

 机の横に立ち頭を下げた木野は、よかった、と口を開けて笑った。眼鏡の奥の瞳が山田と横須賀を一瞥し、すぐに川﨑に戻る。

「見てたかもですが、狐ヶ崎きつねがさきからの段ボール、石田いしださんに渡しましたのであとで確認してください。っと、説明はここでしますか? それとも移動した方がいいでしょうか」

「おそらく移動した方がいいと思います。こちらはあくまで確認、本題はその次ですから」

「リョーカイです」

 きゅ、と足を鳴らす四十五度ほどの反転。改めて横須賀と山田に向き直った木野は、もう一度にっこりと笑った。

「横須賀さんと山田さんですね、太宰室長から伺っています。とりあえず移動しましょーか、ここだと私は借りてきた猫なんですよねぇ」

 少し早口気味の語調が、最後だけ意図したように伸ばされる。ぎ、と椅子を鳴らして山田は立ち上がった。

「ではご案内願います。川﨑さん、有難うございました」

「いえ。いい結果が得られることを祈っています」

 二人の挨拶を聞きながら、木野はするすると先に扉に行く。横須賀が慌てて立ち上がり川﨑に改めて礼を言ったところで、木野が振り返った。

「私が出来るのは案内までだから、頼りにしてますよお二人さん」

 はは、と声を上げて笑い、木野が扉を開く。横須賀が山田を追いかけると、ふとその歩調がゆるんだ。

「好きにしてみろ」

 囁くような言葉に、横須賀が山田を見る。まるい額とするりとした鼻、そっけない口。その表情がなにを意味するか考えるより前に、横顔は後ろ姿になった。

 鞄の紐を握ったところで答えはない。扉の警告音にびくりと肩を揺らした横須賀は、慌てて二人の側に駆け寄った。