台詞の空行

8-2)馴染まない場所

「ありがとうござい、ます」

 結局どう答えればいいかわからず、なんとかお礼を絞り出して横須賀は自身の首もとに視線を落とした。青いストライプのネクタイも、横須賀には馴染まないものだ。馴染むくらい動けばよかったのだろうか、と考える。同時に浮かぶのは、山田に声を掛けられたあの日の図書館。

 まだ半年、経ってはいない。それでもほぼ突然降ってわいたような物事は、ひどく遠く思えた。

 ワトスンにしてやる、と山田は言った。使ってやる、とも言っていた。けれども、となにかがぐずりとめぐる。けれども、に続く言葉は、わからない。

 確かに横須賀は山田の側で事件を見てきた。使ってもらってきた。それは確かだ。便利だと言う山田の言葉を信じていないわけではない。そこまで考えて、先ほどわからなかったものの端を感じて横須賀は顔を歪めた。

 けれども、自分にはなにが出来たのだろうか。三浦は横須賀のおかげだと、言っていたけれども。でも。

「ここの施設は好きに動いて問題ないよ。太郎が馴染んでいるし、いつものようについて行くだけでいいから」

 リンの言葉で、横須賀は沈みかけた思考を浮上させた。はい、と答えた声はいつもと同じ返事なようで、いびつだ。反射のような言葉ばかりが勝手に外へ行く。

「じゃ、俺はこれで。よろしくな太郎」

「おう」

 リンが立ち上がる。横須賀もそれに倣おうとしたが、まだ山田が立たなかったので半端な中腰で止まった。それを見てリンが少しだけ笑う。

「横もよろしくな」

「え、あ、はい。えっと」

 えっと、と言ったが続けたい言葉がなんなのか、横須賀にもわからなかった。半端に浮いた言葉を受け、リンは少し視線を揺らす。

 山田の書類、隣の棚のファイル。それからもう一度横須賀の元に戻った視線は、そのまま首元をなぞった。

「横は青が好きなのか?」

「え?」

「紺地に青と水色のレジメンタル。定番柄のネクタイだけど、横が普段着るシャツも青系だろ? ちょっと暗いとはいえ水色系統。選んでるのかな、って思って」

 レジメンタルという言葉になじみはないが、前後から考えるに恐らくストライプのことだろう。そういった名称に馴染みがない程度に疎い横須賀は、リンの言葉に首後ろを掻いた。

 横須賀にはあまり好きな色という感覚がない。どちらかというと、色は印象として見る方が強かった。だからネクタイも好き嫌いで選んだわけではない。この印象は、横須賀の知っているものからだ。

「青は清潔感がある、らしいので」

「ああ確かに。横がそういうので選ぶのは意外だけど、色の効果は馬鹿にできないもんな。太郎と逆でいいんじゃないか?」

 太郎は清潔感って感じじゃないもんな。そう続けられて横須賀は眉を下げた。山田は色に頼らなくていいような気がする、というのが横須賀の私見だ。

 横須賀と違いきっちりとワックスで固められたオールバック、細く整った眉、アイロンのきいたワイシャツ、細い指先はきちんと切り揃えられた深爪。サングラスの奥に隠れて表情はわからないが、指先までぴんと張り巡らされたような芯は横須賀と違ってまっすぐだ。だからこそ、赤いネクタイが唯一の差し色のように目を引く。

「行くんじゃねーのか」

「ああうん、行くよ。じゃあ頼んだ」

 山田の言葉にリンは軽く手を挙げて扉を出た。その後ろ姿を見送ってから、横須賀はもう一度山田に目を向けた。正確にはその首元、赤いネクタイ。

 銀のネクタイピンはシンプルで、いつも同じ高さにつけられている。ネクタイは刑事たちと違い細身のデザインで、山田自身が細いからか丁度いいように馴染んで見える形はいつも変わらない。横須賀と違って毎日使っているのにくたびれた様子もないのは、山田らしいと言えるのかもしれない。

 横須賀と山田は随分違う。元々横須賀は自身に似ていると感じるような相手を得たことなどないが、こうして考える度に遠い人だ、と思う。

「しまっとけよ」

「え」

「名刺。別に毎回見せるもんじゃネェしな。必要になったら出せばいいだけだ」

「あ、はい。すみません」

 山田の言葉でようやく横須賀は名刺入れを取り出した。リンの名刺をすぐに出せるように上に差し込む。太宰竜郎、という名前がもう一度目に入り、横須賀は最後までしまうと布地の上から見えない文字をなぞった。

 ツカサ、リン。使われない、残った文字が浮かんだまま落ち着かない。

「どうした」

「いえ」

 山田の訪ねる声に横須賀は短く返した。いえ、だけでは足りない。先ほどから続かない言葉が多すぎて、しかし山田は問いを重ねなかった。

「資料、しまっとけ。お前は見なくていい」

「はい」

 渡された紙をクリアファイルに入れる。施設の写真と名前、地図などが書かれた一枚、証明写真のような人の写真と名前の書かれた一枚。折り畳まれた一枚は見なくていいとの言葉があるので確認できないが、なにか絵が印刷されているようだ、くらいまではわかった。

「色薬についてはほとんど太宰コーポレーション内で管理しているが、外部の協力が無いわけでも無い。指定の馴染みであっても外部に出せばまた外部に繋がる可能性もあるからな、そこの線を見に来た」

 山田の言葉に横須賀は一度瞬いた。無言で疑問を示すような表情に、山田が机を爪で叩く。

「簡単に言えば、餌だ。俺のさがしもんを確認する為のな」

「さがしもの」

 今度は復唱と、山田をじっと見つめる視線。続く言葉を待つ横須賀に、山田は「ああ」と首肯した。

「まあヤバいことはネェと思うが、これまでに読みが外れてるから言っておく。もしあの病院で会った連中を見つけたらお前は関わるな」

 病院、という言葉に横須賀は唇を引き結んだ。伏せそうになる睫をぎりぎりで押し留め、山田を見つめる視線をそのままにする。

 サングラスに映った男の顔は、臆病で白い。

「山田さん、は」

 絞り出された言葉に、山田の眉間にひとつしわが寄る。引き下がっていた唇の端が右頬だけ持ち上がり、眉尻がそれと一緒に上がった。

 片方だけ歪めた独特の笑いは、嘲笑のようでしかし違和があった。

「俺も今回は関わんネェよ。まだタイミングじゃない。見かけたらそれでいい、報告しろ。――ガキだけだったとしても、そのままにしとけよ」

 最後の言葉は笑みではなくしかめっ面に近い表情で吐き出された。見てとれるのは眉と唇だけなので絶対とは言いづらいが、山田の声は基本的に意味を伝えるために作られることが多い。

 真剣味のあるトーンで出された声は、サングラスの向こうにある瞳がおそらくまっすぐであることを伝えてくる。

「叶子ちゃんも」

「ああ。あのガキについては悪いが」

 そこで言葉が切れる。指先が机をひっかき、持ち上がった手の甲が口元を押すようにしてから親指の腹が顎を擦った。二秒も満たないような所作と一緒に深くなった眉間の皺と逸らされた顔は、すぐに横須賀の元に戻る。

「――あのガキについては今は放っておく。そう時間はかかんネェよ、この件さえ終わればな」

「この件、が、終われば」

「俺のさがしもんについては、もうほぼ詰め段階だ。全部終われば深山たちも終わる。そんな難しいもんでもネェからお前はその辛気くさい面構え止めて俺についてくりゃいいんだよ」

 辛気くさい、との言葉に横須賀は自身の中指と薬指で押すようにして目の下にあるクマを撫でた。血色がよくない自覚はある。クマについては無かった時を思い出せないくらい昔からあるものだが、ここ最近更に目立ってきている自覚もあった。

 かといってクマを無くせた試しもないし、睡眠のリズムも馴染んでしまっている。押したところですぐ消えるようなものでもないが、横須賀は背を丸めて自身の指先を見た。焦点が合わずぶれた輪郭が、影ばかりを見せつける。

「……辛気くさいっつーのは表情だ表情。テメェは無害な顔が合ってるんだ、そういう顔しとけ」

 無害、という言葉を口の中で繰り返す。無害な顔というものがどういうものかいまいち横須賀にはわからない。しかし山田のこれまでの言葉から考えると、おそらく普段の横須賀は無害な顔なのだろうということはわかった。

 なら今は辛気くさい――暗い表情をしていたのだろうか。浮かんだ疑問は、言葉にする必要もなくそのまま肯定となった。今日この場所に来るのも、そして今も山田は特別なにかあると言わない。むしろ簡単なことだと言っている。けれども横須賀は、落ち着かない内心を自覚していた。