台詞の空行

第八話 こいし

8-1)太宰コーポレーション

 敷地内を歩く人の姿をちらほら見かけたものの、建物の中は意外と静かだった。人影はない。けれども人が居ないわけではないのだろう。明かりはついているし、入ってすぐにあるディスプレイでは訪問記録が自動で表示と切り替えを繰り返す。

 ディスプレイの横にあるアルコール消毒液を山田が使うのを見て、横須賀は入り口で受け取った会社案内のパンフレットを鞄の外ポケットに差し込んだ。そして山田を真似るように手のひらにアルコールを馴染ませる。

 手をすり合わせながら視線を巡らせると、近くのパネルには出勤と退勤の文字が表示されていた。カードを掲げるボックスもあるので、おそらく勤怠チェック用のものなのだろう。周囲を見ると扉の近くには表示パネルはないものの同じようなボックスがついているので、扉ごとカードの認証が必要とされているようだ。

「太宰コーポレーション。上場企業で、活動分野は多岐に渡る。物流、製薬、情報研究。最近は人工知能の研究にも力を入れているらしいが、まあ全部把握する必要はない」

 山田の言葉に、横須賀はポケットに差し込んだパンフレットをもう一度取り出す。A4サイズの紙は発色が良く、差し込まれた写真は鮮やかだ。こういったものになじみはあまりないが、確かに写真や地図を確認すると随分と規模が大きいようでもある。しかし大きい故に横須賀にはあまり実感がわかないものでもあった。

 ただ、今回はいつもと違いジーンズではなく横須賀もスーツである。就職活動の時に買ったリクルートスーツと青いストライプのネクタイを引っ張り出しただけではあるが、横須賀には私服を選ぶように言っていた山田がスーツを選ぶ場所と思うと、広さよりもそちらに少しだけ緊張した。

「ツカサの職場で、色薬関係はこっちで見てもらっている。おおっぴらなもんじゃネェが、隠しているもんでもない。隠せるもんでも無いしな」

 色薬、という言葉にパンフレットがしなる。ノートと違い固い紙質のそれがぺこんと奇妙な音を立てるのを聞いて、横須賀は慌てて手の力を緩めた。少しだけ斜め後ろに顔を向けていた山田は、すぐ前に向き直る。

「こっちの立場は提供者兼協力会社、くらいで認識されている。色薬の効果については“毒性が高いもの”という点を強調してあるし、それを悪用するような施設でもない」

「はい」

 素っ気ないが、事実をそのまま伝える語調は横須賀にとって指針のようなものでもあった。山田の答えを読み上げるような声は平時にする凄んだ声と違い、そのままの形で言葉を運んでくる為読みやすい文字のような感覚で馴染む。神妙に頷いた横須賀に、山田は肩を竦めた。

「ま、でかい分目が行き届きづらいってのはあるが、小さい方が監視しづらいことも多い。一長一短。ただ、規模がでかければでかいほど専門家に繋がりやすい。おかげで見えることも多い」

 見えること。言葉をなぞり、その後ろを歩く。横須賀と山田は背の大きさから歩幅が異なるものの、山田は身長にしては大きい歩幅で足早に歩く。早足というほどでもないかもしれないが、横須賀が山田の後ろを歩くことが自然になる程度にはきびきびとしている。

 伸びた背筋とその歩幅で、山田はおそらく身長より大きく見えるのではないだろうか。自身より随分小さな背中を見つめながら、横須賀は何度も思ったことをまた繰り返す。自分なんかよりよほど頼もしいその背中は、しかし何度見てもやはり自身より随分と小さい。

 見えること。もう一度言葉を内側で繰り返す。繰り返したところで山田の見ているものを、横須賀は知らない。

「太郎、横」

 階段を上って入った食堂で、リンが手を挙げて出迎えた。いつもと違い化粧をせず髪を後ろでまとめている姿は、先日見た格好と似ている。山田がツカサと言っていたのも、この格好からだろう。先日と違うのはスラックスと革靴、第一ボタンの外れたシャツという服装くらいだろうか。しかし化粧した時と変わらず、リンが選ぶ服はリン自身に当たり前のように馴染んでいた。

「こっち」

 食堂からするりとリンが出る。山田が自然とその半歩後ろに並び、横須賀はさらにその後に続いた。

 廊下を進んで突き当たりの小部屋に入ると、リンは長机の奥に座った。山田が向かって右手側の椅子に座り、横須賀もおずおずとその隣に座る。

「悪いな、手間かけて」

 膝の上に鞄を乗せたところで響いた言葉に、横須賀は顔を上げた。山田を見ているかと思ったリンの視線は、横須賀の方に向けられている。まるで自身に投げられたような言葉は奇妙で、横須賀はぱちくりと瞬いた。

 きょとんとした横須賀に小さく笑うだけで、リンはすぐに視線を手元に戻した。机の奥に向かう際抜き出したファイルを開くと、長く節ばった指が紙を三枚広げる。一枚は畳まれているのでわからないが、二枚はA4サイズのようだ。並ぶ文字は手書きではなく印字で、サイズが小さいため読みとるのは横須賀の方からでは難しい。

「とりあえずこれが資料。やってほしいことは連絡した通りで変更はない。聞いておきたいことはあるか?」

「いや、大丈夫だ。必要があればデカブツを使う。忙しいとこ邪魔することになるがな」

「問題ないよ。……一応横にも名刺渡しとく?」

 二人の会話を見ていた横須賀を見て、リンは山田に訪ねた。少し躊躇うような色のある声だったが、ああ、と山田はあっさり頷いた。

「そうしてくれ」

「わかった。横、これ名刺。なにかあったら俺の名前だして大丈夫だから」

「あ、ありがとうございます」

 はい、と机の上を滑らせるようにして渡された名刺を、横須賀は拾い上げる。少し厚手の名刺に、太宰コーポレーションの名前と情報管理室室長という文字。そして大きめのフォントにあるのは、ざい竜郎たつろうという名前。

「だざいたつろう、さん」

「うん」

 読み上げた名前に、リンが頷いた。太宰竜郎。太宰という名字は飯塚の言葉でわかっていたが、下の名前知ったのは初めてだった。太宰のつかさと竜郎の竜からとったのか竜胆のりん。バーでの仕事と情報管理室での仕事と分けているのだろうか、と考え、横須賀はしかし違和感に眉をひそめた。

 違う。飯塚が太宰と言ったとき、リンはツカサだと言った。格好に合わせていると言ったのだから、服装が基準なのだろう。そして今回山田はツカサと呼ぶものの、名刺を渡されたということはツカサとしてではなく太宰としての仕事なのかもしれない。

 これらの違いを横須賀は把握できないが、それでも飲み込むように名刺の文字を親指の腹で撫でる。

「まあ堅くなる必要はないよ。そんな悪い連中じゃないし、調べることも多くない。これで決まればいいわけだしな」

「決まる?」

 横須賀が名刺から顔を上げた。リンがぽすりと口元を覆う。首を傾げる横須賀に、リンは覆った手を下ろしてはははと笑った。

「こっちの話だよ。太郎からどこまで聞いているんだ?」

「リンさ、えっとツカサさんからのお仕事、って」

「それだけ?」

「はい」

 リンが山田を見る。山田は先ほどリンが出した紙を読んでいるようで、顔は紙に向いたまま特に反応しなかった。

 ふ、と少しだけ抜けた息が漏れる。その音にリンを伺い見た横須賀に、リンはやや大げさに肩を竦めた。

「ま、説明を多くするようなものでもないしな。横はいつも通りで大丈夫。スーツ、似合っているよ」

 似合っている、という言葉に横須賀は体を竦めた。リクルートスーツは着慣れないだけでなく、うまくいかなかった就職活動を思い出す。久しぶりに履いた革靴は、足に馴染まない。