8-3)名無しのカナリア
「聞いてんのかデカブツ」
「はい」
山田の問いかけに、横須賀ははっきりと頷いた。先ほどまでの空白と違いすぐに埋まったそれに、山田の片眉がぴくりと動く。
聞いている、それは事実だ。ただだからと言って、深山たちも終わるという言葉を咀嚼しきれるかと言ったら別である。
山田は事件の後、必要な情報が得られたことを教えてくれたが、その情報がなんだったのかは答えてくれなかった。そして三浦と深山の件について、横須賀の手柄と言った。
俺の手柄だ、と怒鳴った山田と、テメェの手柄だ、と笑って言った山田の表情は対照的なのに、なぜか重なる。
結局どちらもその先を横須賀に選ばせない。山田の言葉はまっすぐなのに遠回しで、横須賀はどれだけ拾い上げられているのかわからない。そもそも与えられたことに従うだけの男になにが出来るというのか。三浦には情報を伝えることだけでも大切だと言われたが、結局それも与えられたものを渡しただけで、横須賀のものではない。
横須賀の手柄という言葉は、横須賀の中では歪だった。
「とりあえずついでに色薬の状況について直接話を聞くつもりだ。そのあとは簡単に調査するだけだからテメェは話聞くくらいで問題ない。メモは取れ、気になることがあれば言え。俺が聞くって形を取るが、テメェも口挟んでいい。好きに話してみろ」
山田の言葉に、横須賀は口を閉じたままもごりと唇を動かした。山田が横須賀を見上げ、その先は続かない。まるで自身の言葉を待つかのような態度に、横須賀は睫を震わせた。
好きに話してみろと山田は言うが、相手は刑事ではない。今回の件がそこまで難しいものではないと言う証明のようで、しかし横須賀はそれとは別の意味をざらりと感じてしまう。
「俺、いいんです、か」
「深山の件でそれなりに動いただろ。今回はそうヤバいこともネェだろうしな。それなりに好きにやってみろ」
まるで力量を試すかのような言葉だ。なんで急に、という言葉に出さない戸惑いを拾い上げたかのように、山田は言い切る。横須賀は一度強く目を瞑った。
力量など求められたことはない。横須賀を使う人たちは、横須賀がして当然という範囲でしか求めない。出来るかどうかわからないことを、まるで当たり前に出来ると疑わない顔をして求めたのは、山田くらいだ。事務所に勤めてからはじめて行った図書館の件を思い出し、ゆっくりと瞼を開ける。
あの時の横須賀は、自分の力量では難しいと思ったことを出来ないと言うことがひどく勿体ないことだと思った。期待を裏切るかもしれないという不安よりも、当たり前に出来る前提で指示する山田の言葉を否定することの方が横須賀にとっては苦しいことだった。
今は、どうだろうか。力量よりも上を信じるとは別、まるで力量を測るような言動に、横須賀は怯えていない。不安とも違う。そこにあるのはあの時の感情ではなく、名前を付けるなら――きっと困惑、だ。
手柄、見ろ、考えるな、見るな、覚えるな。単語が巡る。
「堅く考えんな。気楽に考えて試せばいい程度の話なんだよ、今回は」
片方だけ水平の眉、ゆがんだ笑み。そんな表情から落ちるのは穏やかな声だ。山田はオールバックにサングラスという表情を隠すような格好をしているが、優しい声音を使うことがある。秋に接したように、そして横須賀の祖母に対処したように。表情を和らげて声をかける山田を横須賀は見ているし、そこに違和感は持たなかった。
横須賀にとって見るものは当たり前にあることで、山田を胡散臭いと言う平塚のような感情はどうにも持ちにくい。けれども横須賀は今、表情とあべこべのような穏やかな声に対して、眉根を寄せた。不機嫌とは違う考えるような表情は、そのまま横須賀の内心を表している。
深山の時になにがあったのだろうか。この歪さは山田が得たものからなのか。おしまいがなんなのか。ぐるぐると巡る思考に答えはない。
考えるなという言葉は危険を示すものでもあったが、それは出先に限らない話だった。事務所でも山田は横須賀の思考を遮ることが多かった。先日の深山の時に得た床の写真を削除したのも山田だ。そこは当たり前に変わらないのに、今日だけが浮いている。
いや今日だけではない。そこまで考えて横須賀は、自身の思考を否定した。否定したところで答えはないが、それでも否定は横須賀にとって正だった。太宰コーポレーションを信頼しているからでは終えることが難しい違和。理解しきるには足りない糸の端を、横須賀は握るようにしてその思考を喉奥にとどめる。
「名刺をもらったが、あれは誤魔化す為ってわけじゃねぇぞ」
黙する横須賀に、山田が言葉を続けた。覗き込むように山田を眺める小さな黒目はじっと黒と赤を映している。
とん、と山田の指先が机を叩く。見ているのに頭の片側はまるで本を読むときのように埋もれていて、うまく映像が情報として入ってこない。それでも横須賀は縋るように指先から手首、手首から首元、そうして相変わらず表情の見えないサングラスまで視線を動かした。
動かすだけでどれもひとつずつ足りない事実は変わらないが。
「あれは保証だ。太宰の名前を借りるっつっても、探偵であることを隠してもいない。調査会社って言い方にはしてあるがな、嘘をつく意味はねぇから別にテメェは悩む必要ない」
「……はい」
どう答えていいかわからないまま、横須賀は頷いた。真に受けたわけではないのだろうが、しかし山田は鼻を鳴らすだけでそれ以上は言わない。話はそれでしまいというような態度は平時にも見ていたものと同じで、横須賀は首後ろに手を置いた。
それ以上言葉を重ねる気はないのだろう。山田は立ち上がると、するりと扉に向かう。横須賀を見ないまま着いてくることを当たり前とした所作。もしかするとついて行かないところでどうでもいいだけかもしれない態度はよく馴染んでいる。
だからきっと、それは見慣れた仕舞いの合図だ。
「山田さん」
立ち上がり、横須賀は細い声で名前を呼んだ。喉奥に引っかかるような音は本来の低さを歪に高くする。ひゅ、と喉を鳴らすようにして、横須賀は息を飲み込んだ。酸素が胃をふくらめるような感覚は得意でない。繰り返されると呼吸の仕方もわからなくなるものだからというよりは、からっぽでしか膨れない感覚が横須賀は好きでなかった。
飲んだ酸素を意識して吐き出す。それでも喉にまるく残るような空気の泡をもう一度
振り返った山田は、なにも言わない。
(山田さんは)
せっかく息を吐き出したのに、声を出すための吸気がうまくいかなかった。ひく、と震える喉の音は外に出ないだろうが、鼓膜の内側を揺らす。
山田への違和感はそのまま横須賀への違和感のようだ。笑うことも出来ないまま、うまく動かない喉に横須賀は目を伏せた。
深山の事件の後、山田はどちらかというと落ち着いている。堅くなるなと言うように気安いのかもしれないが、横須賀にはうまくわからない。ただ横須賀自身はあの事件の後、ずっと内側を巡る言葉があった。
(嘘を)
嘘を吐く意味がないという言葉はそのままだろう。山田は嘘を吐くことを躊躇わないが、嘘を吐くことを好まないような物言いをする人間だ。必要がないものを重ねるような人ではない。
嘘は未来の自分を担保に借金をするようなもの、だったか。以前代田に語った理論は、山田の思想をそのまま表現しているようでもあった。だからそこを疑いはしない。同時に、平塚の言葉が蘇る。
(山田さんの、名前は)
偽名、という言葉を横須賀はさほど気にとめてこなかった。横須賀にとって山田は山田であったし、名前に嘘を吐く発想などそもそもなかった。元々横須賀は嘘を見つけることが得意でない。そのまま字面通り受け取ることが多いし、だから偽名という言葉はどうにも遠かったのだ。
それに、名前なんてあっても呼ばれなければ意味など無いだろう。だから呼び名を気にもしなかった、問おうともしなかった。
あの時尋ねていたらなにか違っただろうか。
「辛気くさい顔すんじゃネェよ」
山田の言葉に、横須賀は体を強ばらせた。言いたげな横須賀に対して、山田は聞かないことを選んだのだろう。あっさりと背を向け直し、扉を出る。すみません、と横須賀は短くつぶやいた。
山田の名前を聞いたところで、答えはないだろう。飯塚とリンの会話で、リンは自身の名前はよしとした。もうひとつを気にかけながら。
太宰竜郎、炭坑のカナリア、偽名、嘘、未来。
横須賀は鞄の紐にある縫い目を爪の先で押した。ぎ、としなるのは糸か爪か。どちらにせよ、そこに横須賀の意識はない。
山田太郎。その名前が嘘だとしたら、山田はその借金を踏み倒すのだろうか。それとも。
細い首に絡んだ黒、赤。嘘は自分の首を絞めると山田は言った。
嫌な想像が消えない。それでも横須賀は鞄の紐を握りしめて、扉が閉まる前に手を添えた。
「よろしくお願いします」
「俺によろしくしても意味ネェだろ。向こうに言え」
なんとか言葉を絞り出した横須賀に、山田は笑いながら肩を竦めた。