台詞の空行

7-23)大丈夫

 * * *

 ヒーローになりたい。確かに自身が言った言葉に、三浦は目を閉じて笑った。歪んだ口元は自嘲じみている。三浦仁という男には似合わない言葉だ。しかしそれでいて、ヒーローだと言い切れない滑稽さは三浦仁そのもののようでもあった。

 だからその笑いは、似合わなさを笑うだけで否定ではない。なりたい、という希望は実のところずっと持っていた。それでいて叶わないことをよく理解していたから口には出さず、ここまできた。

 そもそも唯一無二になるつもりはない。自身が唯一無二と言うことは相手が孤独であるということだ。大好きな人たちにはたくさんの希望があればいい。一人で出来ないことも誰かがいればなんとかなる。ロボットですら再現できない人間の脳を使わないなんて勿体ない。すべてがまんべんなく出来る訳ないからこそ、人は協力しあえる。その優しさに救われてきた。救われた分、自身が出来ることを精一杯やってきたつもりだ。その矜持はある。

 だから唯一無二にはなれないし、ヒーローにも、なれない。ならなくていい。そう言い聞かせてきた。自分が助けなくても、誰かに助けてもらえるように。たとえばヒーロー物でよくある管制室の人。ヒーローではないけれどもそこに繋ぐ人。ごく普通の一般人でも、声を上げられない誰かのために声を上げるような、そんなささやかなものこそが誰かの助けだと、三浦は信じてきた。

 けれども。

「仁」

 名前を呼ばれて、顔を上げる。足音でわかっていた。こちらを見る瞳は、よく見えない。黒縁メガネに厚いレンズ。のぞき込んで見える彼女の優しい瞳が好きだった。

「……、」

 声を出そうとして、うまく出ない。はくりと唇が震えるだけで、三浦は眉を下げて笑った。百八十を超えた長身。筋肉だってそれなりつけてきた。箔付けに髭だって生やしている。そういう自身の外見を威圧感がある方だと三浦は考えていたが、それでもこの表情を情けないと笑った彼女を知っている。

 敵意はないです。ただ、ちょっと悲しいです。そんな気持ちを表情に乗せて、三浦は座ったまま右足を少し右手側にずらした。

 深山がなにか言いたげに口を開いた。声が出なかったのは三浦と同じ。けれども多分、そもそも声に出そうとはしていなかったのだろう。言い掛けてやめる癖がある。そういう人だ。

 馬鹿な人だ。頭が良くて、一生懸命で、必死で、自分に厳しくて、人に甘えられなくて、うまくいかなくて、がんじがらめになって、責任ばかりを自身に課して、逃げられなくなって。

 馬鹿で、愛しい人だ。

「未久さん」

 なんとか震える喉をごまかして、声を出す。低い、甘ったるい声。めいいっぱい甘やかしたい、優しくしたい。そういう気持ちを声に乗せる。三浦自身はあまりよくわからないものの、彼女はこの声が好きなようだった。だから甘ったるく。大丈夫。そう重ねるようにめいいっぱい甘く。

 でも、今は意味がないだろう。彼女は決意していて、苦しそうで、甘やかすことをさせてくれない。

 ヒーローになりたい。最初に思った相手は妹だったろうか、それともこっぱずかしいが母親だっただろうか。弟にも思った。大好きなものを守れる人に。

 でも人は思うより強くて、自分は思うより弱くて。笑って支えられる人に。唯一無二ではなく大多数の優しさの一つに。

 願って願って祈って。飲み込んで飲み込んで飲み込んで。

 それでもずっと、ずっとくすぶっていた想いは、形になる前に貴方がしまいにした。

「大丈夫ですよ」

 三浦の声に、深山がびくりと固まった。ぎゅ、と服の裾を握りしめるのは彼女の癖だ。伸ばされた手に縋り付かないためなのだと、昔から三浦はそんな妄想をしていた。

 指を一本一本、剥がしてあげたい。けれども今三浦はほとんどなにもできなくて、だから言葉を選ぶ。

「俺は大丈夫です」

 言葉を重ねる。横須賀が言っていた話が本当なら、大丈夫もなにもないような気もする。それでも三浦にとっては大丈夫、だ。

 思い返さなくても、ひどくはっきりとした感情が残っている。あの人たちは信じられる。それは横須賀へのものであり、山田へのものである。山田の外見は出来たらお近づきになりたいくないものであったが、合理性は三浦にとって信頼できるものであった。

 そしてなにより、横須賀が山田を信頼している。善意の固まりのような彼の好意を三浦は信じていた。横須賀のことを知っていると言うほど会話をしていないのにああも伝わる気の弱さ、人の良さ。少々不安定で危なっかしく、こちらに構えさせないまでの彼の性情はもしかすると彼にとっては良くないものなのかも知れないけれども、きっとそれに救われる人は少なくないだろう。彼はひどく不器用で、臆病で、そのくせ目を逸らすことが出来ない強さがある。だから三浦は信じたのだ、あのへたくそな言葉の羅列を。きっと山田が使うよりも不器用な言葉で、リンが使うよりも頼りない言葉を。

「なにがだいじょうぶなの」

 緊張が声に出ている。言葉にはなっているもののどこかいびつな数珠繋ぎ。笑いを音に出さず、三浦は笑んだ。

「俺は、って言ったじゃないですか」

「……なんで」

「未久さんが居るからです」

 ぎゅ、と深山の眉間に皺が寄る。苦しいも辛いもうまく言えない彼女に三浦が出来ることはあまり無いだろう。わかっている。伝えたものが重荷だったと知ったあの日からわかっている。

 だからこそ三浦は繰り返すのだ。視野が狭くなりがちな懸命な人に。

「未久さん、俺、未久さんが思う以上に臆病ですよ」

 唇が動くだけでなにも言わない深山に、三浦は膝を立てるとそこに肘を乗せた。足首が少しだけ痛む。手首も違和感で揺れている。わざと深山に見えるようにしても、深山の瞳の色はわかりづらい。

 レンズをのぞき込むには、遠い。

「夢を見たんです」

 返事はない。しかし三浦は気にすることなく、言葉を続ける。伏せた瞳は思い出すために、笑みになり損なった唇は、見たものを朗々と伝えるために動く。

「目が覚めると椅子に座っているんです。今の俺の状態と違って、足が椅子に繋がっていて、手は椅子の背で結ばれている。見下ろす体は細くて、女性のものです。動こうとしても動けません」

 は、と息を吐き出しながら、三浦がぽつぽつと言葉を落とす。深山は答えない。

「……人が入ってきます。だれかは後ろ向きでわかりません。後ろ手に誰かの手が触れます。だれだ、という声は女性のものです。手首を固定する物が外される。ごめんね、と響いたのは男の声で――多分それは、俺の声です。聞き馴染んだ声じゃなったけれども、再生した自分の声に似ていました。自分じゃないように聞こえる声。
 手は外されて自由になります。扉が閉められる。足はまだ自由じゃなくて、どうにか状況を把握しようとします。そのときはそろそろ日が落ちるという頃合いで、はやく探さないと見えなくなってしまう、と思いました。部屋の中は普通の室内と言うより、どこかの休憩所。そこに布団や買い物袋、本がありました。誰かが住んでいると言うには埃っぽかったですが。どうにかしないと、としていると、突然ぐるりと頭の中が回転するみたいに気持ち悪くなって――気づいたら俺は床で寝ていて、この格好。俺は俺のままでした」

 答えも相づちもないまま、三浦は恐怖と焦燥をない交ぜにした顔で口角を歪める。

「悪夢です。ついに貴方を監禁する夢を見た。そう思いました」

「ついに?」

「俺は貴方が思うより自分勝手、ということです」

 揺らいだ声に三浦はくしゃりと笑う。情けない表情に対して、深山の右足が半歩だけ斜め右前に動いた。

「そんな悪夢、形にしちゃいけないと思うんです。貴方の気持ちを無視して、俺の感情だけで決めてしまう、なんて」

「……遠回しな嫌味かしら」

「まさか」

 深山がため息とともに呟くのを拾い上げ、三浦は肩を竦めた。ゆるりとしていた膝を揃え姿勢を正し、両足を少しだけ引き下げ直す。俯いた深山の表情は見えず、しかし三浦はそれを嘆こうとはしなかった。